山形城
霞城ともいい、山形市街地のど真ん中にある市民の憩いの場である。 |
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最上氏がここに城を築いた時期は、正平12(延文2年(1357))頃という。 ただし、その城が今の山形城の地であったかははっきりしない。 しかし、山形城の本丸の大きさが160m四方程度の方形である。 この大きさと形状は、当時の典型的な武家の館の大きさに匹敵しているため、始めから本丸の場所に城を築いた可能性は大きい。 以後、最上氏の居城として拡張され今に残る姿になったといわれる。 今の二の丸は門付近のみに石垣が築かれ、堀も30m近くと大規模であり、土塁も高い。 この姿は最上義光が関が原の戦いの後、57万石の大名となった後、拡張工事を行い、最上騒動で最上氏改易の後、鳥居忠政が22万石で入り、現在の姿に完成させたものという。 二の丸の石垣は門付近の重要な場所に構築され、それ以外は土塁である。 二の丸は400m四方の大きさであり、三の丸は1600×2100mという巨大さであった。 この広さは江戸城並みという。 鳥居氏の後、12家が相次いで入るが、石高も順次減少し、江戸時代中期以降は左遷の地になってしまった。 とても左遷大名にこれほどの大城郭を維持する経済力がある訳がなく、城はかなり荒廃した状態で明治を迎えたという。 |
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北大手門の石垣、土塁と堀。 | 復元中の本丸。一文字門の部分。 | 再建された二の丸東大手門。 | 二の丸東大手門外の堀底の横を秋田新幹線が走る。 |
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東大手門付近の土塁。 基本的にこの城は土塁の城である。 |
西大手門の枡形。 | 西大手門外の堀と土塁の折れ。 | 東北地方初の医学校と病院館として明治11年に建てられた「済生館」。重要文化財。二の丸に移築されている。 |
最上氏について
最上氏は、南北朝期に足利氏が南朝北畠氏を討伐するために奥州に派遣した斯波家兼が出羽を抑えるため、延文元年(1356)山形に置いた次男兼頼が興した家である。
始めから山形に本拠を置き、江戸時代初期に滅亡するまでの300年間弱、この城を拠点とした。
兼頼はかなり能力が高かい武将であったようであり、直ぐに山形地方を平定したという。
その後、そのまま兼頼は山形に定住し、土地の名をとって最上を称し、天童、黒川、高櫛、蟹沢、成沢等、多くの分家を立て、最上地方を統治した。
勢力を拡大すると必然的に近隣の豪族と摩擦を起こすことになる。
それの最大の相手が伊達氏であり、戦国末期まで両者の戦いは繰り返される。
しかし、始終、伊達氏が優勢であったことは否めない。
一時は伊達氏の支配下に置かれるが、伊達氏の内紛「天文の乱」で救われる。
ここで義光が登場する。
義光は弱い同盟関係で成り立つ家臣団から強力な支配体制に移行する。
その過程で反抗する天童氏、白鳥氏、大江氏や鮭延氏を滅ぼしたり従属させたりする。
一方、伊達氏には当主輝宗に妹の義姫を嫁がせる。
この義姫が産んだのが伊達政宗である。
しかし、庄内地方は武藤氏が上杉氏重臣、村上城主本庄繁長の支援を受けて、最上氏の勢力を一掃する。
その後、義光は葦名氏や佐竹氏らと謀って、成長著しい伊達政宗を包囲する戦略をとったが、それも天正十七年(1589)の摺上原の合戦における葦名氏の敗北によって構想が破滅し、難しい立場に置かれるが、翌18年の小田原の役で一段落する。
この時、出羽では最上、戸沢、秋田氏が本領を安堵される。
以後、豊臣氏に従うが、文禄2年(1593)、豊臣秀次の失脚で側室であった義光の娘駒子(お今の局)も殺されてしまう。
また、義光にも嫌疑がかかる。
この時、徳川家康がとりなして許され、以後、義光の気持ちは豊臣方から徳川方に傾き、関が原では徳川方につく。
このため上杉氏の攻撃を受け、危機に瀕するが、 西軍の敗報で救われる。
この戦功により五十七万石の大大名になり、慶長17年義光は69才で死去する。
しかし、元和8年(1622)義光の孫義俊の代に内紛が起き、最上氏は改易され、10000石で近江に移封。
その後、さらに5000石に削減され、それでも高家旗本として家は続いた。
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