彫堂七館(美里町小牛田)

「えりどうしちだて」と読む。

美里町(旧小牛田町)の東北本線小牛田駅の西1km、蜂谷森公園が館跡。

南の鳴瀬川に面し北から張り出した比高15mほどの岡南縁部に八つの館(山前館、長館、大館、小館、狼之介館、蜂谷森、笹館)が並んでいたという。

しかし、八館あるのに七館とはどういことか。
八つの館とは言うが、これは独立した館ではなく、曲輪のことらしい。

小館のように見事な堀Aなどの遺構を持つものもあるが、あとはどこが館なのかよく分からない。
狼之介館は完全に削平されている。
その北に堀@があり、蜂谷古墳がある場所が、蜂谷森館らしい。
しかし、公園化でほとんど破壊されてしまったようである。

南北朝時代、奥州管領の吉良氏と畠山氏間の抗争時、吉良氏に味方した大崎氏が、鳴瀬川対岸の松山に築かれた畠山氏の長世保館に対する陣城として築いたものという。

戦国時代に大きな改修を受けた感じはないが、大崎氏と葛西氏、伊達氏間の抗争で大崎氏の陣城として使われたようであり、「彫堂城」として記録される。
@蜂谷森古墳手前に残る堀切 A小館の横堀。埋もれているが郭からは4mほどの深さ。 B小館内部は100m×50mほどの広さ。


利府城(利府町利府城内)
利府駅の北1q、利府中学校の裏山が城址である。
城は松島丘陵の丘陵地帯が北東から南西方向に延びる尾根状の山にあり、比高は80mほどある。城域は広く700m×200mほどある。
北東端の標高100mのピークが本郭であり、南西に延びる尾根沿いに高度を下げながら、二郭、三郭が展開し、主郭部の周囲には帯曲輪が存在し、丘下には居館や城下町があったようである。
このため「館」「舘後」「城内」「館前」「城前」などの地名が残る。
山上部は館山公園になっており、桜の名所という。


本郭に建つ城址碑。後はすべて藪と草の中。

鎌倉時代、奥州探題留守職留守氏家臣村岡氏によって築かれたと考えられている。
村岡氏の居城であった。当初は「村岡城」と言っていた。
戦国末期は伊達氏の支配が強くなり、留守氏は14代郡宗、16代景宗、17代政景と伊達氏から入嗣が行われていたが、17代政景の入嗣には家臣が猛反発したその代表が村岡兵衛・であった。
鶴館城主黒川氏が調停するが失敗、永禄12年(1569)村岡氏は挙兵して村岡城に立て籠もった。
これに対して留守政景が攻撃、翌元亀元年(1570)に落城し、村岡氏は滅亡した。

村岡城を攻略した政景は元亀年間(1570〜73)岩切城から本拠を村岡城に移し名前も利府城に変える。
これは岩切城が仲が悪い国分氏の末森城と1.5qと至近距離だったことと、伊達氏と北を接する大崎氏や葛西氏に対する守りの最前線として重要視されたためと推定される。
しかし、留守政景は小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され、改易、居城である利府城も廃城となった。

田手岡館(大和町宮床)
国道457号線沿い東に町立宮床小学校があるが、谷津を隔てて西側の尾根末端にある。
この岡は御殿山と呼ばれる。
入口まで行ったのだが、草が腰まで伸びており、とても雨上がりの夏場の突入は無理、ってことで入口で撤退。

万治3年【1660)、仙台藩2代藩主伊達忠宗の八男宗房が、宮床の地4000石を領し、その居館として築き、宮床伊達氏を興す。
2代目の村房は、元禄16年【1703)に本家綱村の家督を相続、仙台藩5代目藩主伊達吉村となった。

宮床伊達氏は村房の弟村興が3代を継ぎ、一時川崎城へ移るが、享保8年に再び宮床に復帰、以後代々8000石を領して10代宗広の時に明治を迎えたという。

陣屋なのであるが、構造上は小型城郭といい、仙台藩では「所」と読んでいた。
「要害」より1ランク下の扱いなのであろう。

御殿山頂上部に本丸を置き、堀を介し、南側に二の丸を、更に東側には腰曲輪があった。
また、本丸北側には丸馬出があり、大手門と三の丸があり、三の丸から本丸の間に中曲輪と北曲輪があったという。
本丸に樫岡神社が建ち、本丸御殿の庭園の池跡が残る。中曲輪には石垣もあるらしい。

涌谷城(涌谷町涌谷下町)
戦国時代はこの地は大崎領東端にあたり、葛西領と隣接する境目の地であった。
築城は、涌谷氏という。涌谷氏の祖は大崎氏初代家兼の三男、彦五郎、
彼は鶴城(百々城)を居城として百々信濃守を名乗り、二男が涌谷城に住み、涌谷美濃守と称して涌谷氏を興したという.
もう1説あり、大崎氏5代満持の弟である高詮が百々氏を起こし、高詮の二男直信が永享3年(1431)、涌谷城を築き、涌谷氏を称したともいう。
涌谷氏の主家大崎氏は、天正18年(1590)、13代義隆の代、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され滅亡し、涌谷氏滅亡する。


その後は秀吉家臣、木村伊勢守吉清が入るが、悪政に対して葛西大崎一揆が勃発。
一揆鎮圧後は伊達政宗の領土となり、涌谷には8885石で亘理重宗が入る。
重宗は当初、鶴城に入るが、間もなく涌谷城に本拠を移す。

以後、涌谷城は城ではあったが、「涌谷要害」として仙台藩の支城となる。
重宗の子、定宗の代になると、慶長11年(1606)に伊達氏の姓を与えられ、伊達一門となり、寛永元年(1624)、加増され涌谷伊達氏の所領は1万石に、さらに寛永21年(1644)加増され22600石となる。
4代宗重の時、伊達家の後継者問題で原田宗輔と対立し、殺害されてしまう伊達騒動が勃発。

元禄2年(1689)9月には涌谷城は失火により建物を全焼する。
明治元年(1868)12月、明治維新で接収され、翌年、涌谷県庁が置かれ、後、登米県と改称したが、明治4年(1871)11月、登米県は廃止され仙台県及び一関県に編入。
翌5年(1872)、涌谷城は太鼓堂を除く建物が取壊された。
@本丸に建つ涌谷神社 A異様に細長い二の丸。
本来は真ん中に堀があったのだろう。
B南端の石垣、この方面が大手。
見せるための石垣である。
城は、江合川の東側の南北に長い丘陵に位置する。
南北327m、東西109mの広さがある。
この丘の東下の谷津状の場所は現在住宅地であるが、かつては水堀が存在したという。

本丸は最高所に位置し、涌谷神社の地、東西40m×南北100mの広さであり、南側に門があり、土塀で囲まれていたという。二の丸からは7、8mほど高い。
その北下には空堀があったという。

二の丸が本丸の南側一帯。
この曲輪は異様に長く、東西40〜80m×南北250mの規模。
蔵や政庁があったようである。
ここは江戸時代削平されたものというが、戦国時代には、途中に堀が存在したのではないかと思われる。

南端には冠木門があったという。
この南端には石垣が設けられていた。
この石垣は南面のみにあり、大手の飾りのような感じである。
オーバーハングがすばらしく、東日本大震災でも損傷を受けていない。
C震災で破損した隅櫓 復元櫓は大破状態。立入禁止

しかし、石垣上の隅櫓、郷土資料館となっている復元櫓は震災で破損、特に復元櫓は解体以外ない状況である。
なお、城域は北の涌谷中学校やその北側の山にも広がっていたという。
現在は城跡は城山公園として整備されている。

多賀城(多賀城市
奈良時代、大和朝廷が「蝦夷」(エミシ)と呼び異民族視していた奥州の先住民(稲作文化が及んでいなく、弥生化から取り残された縄文人の末裔であろう。)を制圧するため、その拠点として設けた施設が多賀城である。
当時の蝦夷との境界付近はこの付近であり、そこ当たる松島丘陵の南東の塩釜丘陵上に設置した。

当然ながら、戦国時代の城とは全く異なるイメージであり、岡の周囲を城柵で囲み、櫓、城門を設け、その内部に政庁や寺院、食料蔵などが置かれていた。

築城というか創建は神亀元年(724)、按察使大野東人によるという。
陸奥国府を郡山遺跡(現在の仙台市太白区)より移転したものという。(出典は『日本後紀』の記事)
軍事拠点というより、ここより北にある黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿等の城柵に対する統率施設、後方支援基地、補給基地の役目が強かったという。

その後、8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回整備拡張が行われた。
第1期は724〜762年、第2期は762〜780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780〜869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震による倒壊まで、第4期は869〜10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
その後は廃された状態であったが、全く機能が喪失した訳でもなかったようであり、前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能している。
さらに建武新政期と南北朝時代初期に北畠親房・顕家により再興され、多賀城に陸奥将軍府が置かれた。
しかし、北朝の勢力が強まると、将軍府はその中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
これが、最終的な廃城と言えるようである。

政庁跡 政庁の北側は土塁となっている。
ここに築地塀があったらしい。
政庁へ南から登る道。
この麓に役人の住宅街があったらしい。

多賀城跡と多賀城廃寺跡は国の特別史跡に指定され、奈良の平城宮跡、九州の太宰府跡とともに古代日本三大史跡に数えられている。
よく整備されているのは政庁跡付近のみである。100m四方ほどのエリアであり、周囲に築地があったという。
政庁跡は中心的部分の国府の重要政務や儀式などが行われた場所にすぎなく、周囲の丘陵平坦面には、一般事務などを行なった実務官衙ブロックや高級役人の居館が散在している。
最外郭は一辺が900m前後のゆがんだ四角形で、その周囲を高さ3、4mほどの築地(低地の湿地では木柵)が囲んでいた。
外郭門としては、南、東、西に3つの門が確認されている。最終的には櫓門が建てられていたらしい。
さらには城外に位置するが柏木遺跡からは製錬炉4基、木炭窯6基、鍛冶工房跡3棟などが発見され、多賀城直営の製鉄所・武器製造工場もあった。

現在の姿は同じ古代城館であり、復元が進んでいる出羽柵(秋田城)、払田柵に似た感じであったことを推定させる。
戦国時代の城館とは全く異なるイメージであり、戦闘用の城ではなく、中央政府の出先機関の政庁、そして補給基地といった感じである。
比較的海にも近いが、畿内等から海上輸送で運ばれる物資の集積所も兼ねていたのであろう。

南東約1qの高崎地区には多賀城の付属寺院である多賀城廃寺跡がある。

右の写真が廃寺跡である。
多賀城と密接に関わっていた寺院であるので多賀城廃寺と呼んででいたが、昭和58年に「観音寺」と書かれた墨書土器が発見され、観音寺という名称であった可能性が考えられている。