船岡城(柴田町大字船岡字舘山)
芝田(柴田)城、舟岡(船岡)要害、四保館ともいう。
伊達騒動の主人公原田甲斐宗輔の居城として名高い。

本郭は135.86mの山頂にある。

南西から流れる白石川に北西から流れてきた荒川が合流、さらに東で阿武隈川と合流する河川交通の要衝であり、さらに奥州街道が通る交通の要衝、すなわち軍事的重要地点である。
そこを制する高い山に築かれる。

⇒は西側から見た城址である。
船岡観音が建つ場所が本郭である。

現在は桜の名所、船岡城址公園となっていて、日本さくら名所100選の地に選ばれる。
山頂部へは歩くか、スロープカーで行くことができる。
頂上の本郭には高さ24mの船岡平和観音があり、これがやたら目立つ。

山頂部は公園化された部分以外は鬱蒼とした林と藪であり、曲輪の配置は良く分からない。

鳥瞰図は確認できた範囲で描いているが、他にも曲輪は存在しているはずである。

山上の城郭遺構は、東北地方の山城共通である広い山上曲輪を持つ居住性を備えたものである。

しかし、かなり古めかしく戦国時代の姿である。
江戸時代には使われていたとは思えない。

船岡観音が建つ本郭@は100m×40mほどの広さ東西6m下に帯曲輪Bを巡らす。
北側には堀切で仕切られた段郭が確認できる。

南側に二郭Aがあるが、本郭との間には堀が存在したのではないかと思われる。
さらに南にしゃもじ型に150m突き出した三郭Cがある。

東側斜面は切岸が鋭く加工されており、6、7mの段差で帯曲輪が展開するが途中で曖昧な感じとなる。
最も東下に横堀Dがあり南東側に続く山続きと遮断している。

北東側に下ると駐車場があるが、ここも曲輪であろう。
ほとんど裾野近くに100m四方ほどの居館跡があり、西側を土塁が覆う。
ここが江戸時代、船岡要害と呼ばれた主要部であり、原田甲斐もここで政務を取っていたのであろう。

築城は古く、鎌倉初期正治2年(1200)頃、 芝田次郎というが、それ以前、前九年の役で陣城として使われたという伝承もある。
芝田氏は宮城小四郎家業(宮城四郎)によって滅ぼされてしまう。
南北朝期、正平年間(1351)は北畠顕信が陣を置いたともいう。

戦国時代、天文年間(1532〜1554)には四保定朝が居城としていた。
伊達氏の勢力が伸びると子の宗義の代に柴田氏と改姓して伊達氏の参加に入るが、配置換えにより柴田氏は文禄2年(1593)、志田郡桑折に移り、屋代景頼が入る。
さらに元和元年(1615)、原田宗資が入る。
その嗣子甲斐宗輔の代に「寛文事件(伊達騒動)」が起こる。
それにより原田氏は改易され、柴田氏が5000石で復帰し、明治維新まで続いた。

@本郭内部、船岡観音が建つ。 A本郭より2、3m下に二郭がある。 B本郭南下の帯曲輪
C南にある三郭 C南東の中腹に横堀がある。 山裾の居館跡、藩政時代の政庁の地である。

「寛文事件(伊達騒動)」とは。
山本周五郎の小説『樅の木は残った』で有名になり、NHKの大河ドラマにもなった伊達家のお家騒動である。
万治3年(1660)、仙台藩3代目藩主伊達綱宗は放蕩三昧に昂じていたため、幕府から隠居を命じられ、2歳の亀千代丸(のちの綱村)が後継ぎにされた。

しかし、仙台藩の実権は、政宗の末子、一関藩主伊達兵部宗勝、田村領主田村右京宗良そしてこの船岡要害(当時は「城」ではなく「要害」とか「館」を称していた。)主の原田甲斐宗輔ら掌握していた。
彼らは進歩派と言われ、藩内の保守派と対立していた。
 寛文8年(1668)登米要害の主、伊達式部宗倫と涌谷要害の主、伊達安芸宗重との間で所領争いが起き、仙台藩は伊達式部に3分の2、伊達安芸には3分の1という裁定を下す。
しかし、納得しない伊達安芸は保守派と結託し、幕府に訴え出る。
幕府の裁定は伊達安芸優位で進み、寛文11年(1671)3月27日、下馬将軍と言われた酒井雅楽頭忠清邸で判決が下される事になっていた。
ここに原田甲斐と伊達安芸が出ており、原田甲斐は脇差で突然伊達安芸に斬りかかり殺害、甲斐も同行していた柴田外記、古内志摩、蜂谷六左衛門らに切られて死亡。
しかし、この背景には藩内騒動を利用して、仙台藩を取り潰そうとした幕府の陰謀説が有力という。
甲斐が一人で罪を被ることで「幕府の陰謀」を阻止したとも言われている。
「幕府の陰謀」説は、その前にあった綱宗の強制隠居が発端と言い、これにより藩内での対立を起こさせ、仙台藩取り潰しを狙ったものという。
その「黒幕」は酒井雅楽頭だったと言われる。
その結果、取り潰し計画は頓挫、藩主綱村には咎めなしで藩領安堵。しかし、騒動の元伊達兵部、田村右京は領地没収となった。
ところが、これは表向き、事件が風化してきた延宝9年(1681)、田村右京の子宗永は一関で復活、田村一関藩を開くことになる。

角田城(角田市角田牛館)
角田の地は中世以来、亘理郡の土豪武石氏の領土であった。
しかし、永徳元年(弘和元・1381)に伊達宗遠と武石行胤の戦いで行胤が敗れ、伊達氏がこの地を支配する事となり、永禄年間(1558〜70)頃に伊達氏の一族である田手宗光が角田に入り、角田城を築城したという。
角田、丸森付近はその頃から伊達氏と相馬氏の係争の地であり、争奪戦が繰り広げられた。

現地の土豪もあっちについたり、こっちについたりという状況であり、宗光も伊達氏から相馬氏に乗り換え、反旗を翻す。
これに対して伊達輝宗が角田城を攻撃、奪還し、伊達氏に従った宗光の子田手宗時を城主にすえる。

しかし、天正10年(1582)宗時は戦死し田手氏が断絶。同19年(1591)政宗の重臣伊達成実が二本松城より移る。
しかし、成実は政宗と確執を起こし、文禄4年(1595)に出奔。
政宗は屋代景頼に命じて角田城を攻略させ、成実の家族や家臣である羽田右馬助ら30余名が討死している。
慶長3年(1598)、石川昭光が8,000石で入り、後に2万1380石を領し、伊達氏一門筆頭となり、明治維新まで石川氏の居城として存続した。
なお、角田城は便宜上、城ではなく「角田要害」と呼ばれた。

明治元年(1868)12月、角田には戊辰戦争で朝敵となった盛岡藩南部氏が減封の上で移封された(白石藩)。
以降数年間、角田要害は南部氏によって管理された。
翌明治2年(1869)には白石県に属し、白石県庁を白石城から角田城に移し、角田県と改称した。
建物は明治4年(1872年)11月仙台県に編入されるまで県庁舎として使用されたが、 明治7年(1874)に建造物が取壊された。
現在は宮城県角田高等学校の敷地となり、石碑が建つ。

城は阿武隈川西岸に突出した比高10mほどのほぼ独立した丘陵位置し、周囲は阿武隈川の氾濫で出来た湖沼地帯であり、南西の大沼・赤沼を天然の堀としていたという。
本丸が丘の上で現在、角田高校の校舎がある場所である。

本丸は東西に細長く北東側が窪んでいる「C」字形または「L」字形をしており、江戸時代には居館が存在していた。
二の丸は本丸の周囲に位置し、現在のテニスコートやグランドになっている地や住宅地である。
その周囲に堀があったが、現在は埋められ、用水路と道路になっている。
東側に大手門が存在した。その場所が高校の入り口である。

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

本丸下に建つ城址碑 郷土資料館に移築された城門

白石城(白石市)
宮城県南部の「うーめん」の街、白石市にある城。別名益岡城という。
江戸幕府の一国一城制の対象外とされ、仙台藩伊達氏の支城として明治維新まで存続、家老片倉家が代々居住した。
現在、城址には、天守閣相当の三階櫓、大手一ノ御門、二ノ御門が木造で復元され、現在は公園や白石高校の敷地になっている。
建物のほとんどは明治維新後壊され、厩口門が延命寺山門に、東口門が当信寺山門に転用され、名取市の耕徳寺山門もこの城から移築したものという。
また、煙硝蔵が市内の個人宅に移築されているという。
城は市街地の西にある標高76m、比高25〜30mの400m×300mほどの大きさの独立丘に城の主要部がある。

城の歴史は古く、寛治2年(1088)、後三年の役の戦功でこの地を得た刈田左兵衛尉経元が、築城したのが始まりといわれている。
その後、刈田氏は白石氏に改名し、居城として使われる。
白石氏は後に伊達氏家臣となり、屋代景頼が城主となる。
小田原の役後、伊達氏は岩出山に移され、ここには会津を領した蒲生氏郷の家臣、蒲生郷成が入る。
氏郷がわざわざこの地に一族で重臣である郷成を置いたのは、当然、ここが岩出山に移った伊達政宗に対する警戒を意味する。

彼により本格的に築城され、本丸に天守閣代わりの三階櫓が建てられたという。
ついで上杉領となり、上杉景勝の家臣、甘糟景継が入りさらに増築される。

慶長5年(1600)、徳川家康が会津の上杉氏攻撃に向かうと、伊達政宗は徳川方に味方し、旧領の回復を狙う。
その第1歩が甘糟景継留守中の白石城の攻略である。

関が原の戦いの後、白石付近、刈田郡のみが、伊達政宗に加増され、石川昭光が城代として入るが、慶長7年(1602)に片倉小十郎が16000石で入城する。

以後、10代約260年にわたり、片倉氏が居城し伊達領の南の要衝とされる。
伊達氏の家臣ではあったが、半独立の藩が形成され、片倉氏により独自の治世が行われた。
片倉氏は、農家の冬の副業として和紙づくりを奨励し、往時には三百余軒が和紙を漉き、この「和紙」が「白石三白(さんぱく)」として伝承されている。

「寒葛」・油を使わない「温麺(うーめん)」が白石の名物であるが、これも片倉氏がきっかけを作ったものという。
普通ならこのまま、明治維新を迎えるが、この城には再度、歴史の表舞台への登場が待っている。

薩長との対抗上、奥羽の列藩がここ白石に集まり、奥羽越列藩同盟が締結される。
結果として仙台藩を始め奥羽の諸藩は降伏、白石城も新政府軍が占領、盛岡藩の管理下に置かれて、家臣団は追放状態となる。

明治7年(1875)白石城は破却され、資材を売却し、その売却代金が片倉家家臣団の北海道移住費用に充てられる。
これにより、城には大手門の土台石や石垣の一部が残るだけの姿となった。
後にここは市民に開放され、桜の名所としても名高い「益岡公園」となり、現在に至る。

しかし、市民の中から城の復元の気運が高まり、平成5年から発掘調査を実施後、平成7年5月3日、文政6年に再建した姿の三階櫓などが忠実に復元され、町の象徴が120年ぶりに甦った。
この建物は、当時の工法まで同じにした復元であり、資料価値も高い。

モデルは白河小峰城の御三階櫓といい、この櫓を再建した大工を招いて施工したという。
そのスペックは建築面積 約86坪(287u)、延床面積 約125坪(414u) 、1階床面積 約70坪(233u) 、2階床面積 約36坪(122u) 、3階床面積 約17坪(58u) 、全高16m、外部 白漆喰塗籠 三階 高欄付。
内部 の柱は吉野産ヒノキ 、造作材は 青森産ヒバ、床材は青森産ヒバ、梁は鳥取産松丸太、石垣の石材は蔵王松川産安山岩 約3000tを自然石をそのまま積む野面積み工法で施工、屋根瓦は美濃の耐寒いぶし瓦 約43,000枚、軒丸瓦 約700枚、鯱瓦 滋賀県大津市で製作高さ135cm、重さ 120s。 大手一ノ御門は 木造一重 。大手二ノ御門 は、木造二重 建築面積 約24坪(80u) 延床面積 約16坪(15u)。

噂どおりこの三階櫓は素晴らしい出来栄えである。
こだわりの固まりであり、東北人の根性が見える。
ここの階段の急傾斜が凄い。
最上階からの眺めも素晴らしい。

本丸東下の帯曲輪には館堀川が流れる。 本丸東下、この辺りに門があった。 本丸東下には石垣の石が残る。
ほとんどは持ち去られたようだ。
再建された大手二の門。
再建された三階櫓。 三階櫓から見た本丸内部。
中には本丸御殿が建っていたという。
三階櫓から見た西の二の丸。 三階櫓から見た再建された大手二の門。
本丸南西端にあった未申櫓跡。 本丸の南の二の丸には白石高校が建つ。 本丸の南にある裏御門跡。
向こうに白石高校の校舎が見える。
本丸南東端にあった辰巳櫓跡。
石垣の石が残る。

城は市街地にある独立丘にあるので、遠くからでも三階櫓が望めるので、迷わない。

JR東北線白石駅から600mほど西に歩くともう城である。
車で行くなら市役所となりの老人保健施設、介護予防センターの城見学者用無料駐車場が利用できる。
ここの地名がずばり大手町、この場所が三の丸でもある。

ここから城に向かうが、岡の一段高い場所に川が流れている。
後付けの用水路かと思ったがそうではない。
ここは帯曲輪であったらしく、この館堀川は当時から丘の中腹を北側から東を回って南側に半周するように流れていたという。
いざとなったら、東下の三の丸を水びたしにすることもできたであろう。

帯曲輪の途中から岡に登る道を行くが、この道は白石高校の登校路でもあるが、大手道である。
本丸の切岸が鋭く聳え立ち、ところどころに石垣の跡がある。
もともと、本丸の周囲は全面石垣であったようであるが、ほとんどの石は持ち去られてしまったようだ。

本丸以外は全て土の城であった。登城路を登ると腰曲輪に歴史探訪ミュージアムがあり、ここで城の歴史が把握できる。
復元三階櫓はこの西側に聳え立つ。
石垣も復元ものである。本丸内部はきれいな公園になっており、周囲を土塁が巡る。
土塁上は桜が植えられ、春には見事な光景が出現するという。
南西端と南東端に櫓台跡があり、南側に門跡がある。
その外、南側が馬場であるが、ここに白石高校が建つ。
本丸の西が堀を介して二の丸、高校の南が南丸である。
丘の西下が沼の丸である。三階櫓の北西側に岡が延び、先端が西の丸、その手前の神明社がある地に兵具庫があった。

片倉氏は信州出身という。
先祖は金刺舎人後裔の諏訪大祝である繁名といい、為重の代に片倉郷に住んだとか、加藤判官景廉が先祖で、末孫が信州片倉村に住み、片倉氏を称したことに始まるとかいう。
この片倉村であるが、諏訪付近らしいがどこかはよく分からない。
諏訪に片倉館という有名な旅館があり、ここで財をなした片倉財閥がつくったというが、この片倉氏と関係があるのかもしれない。
大阪夏の陣後、片倉重長が真田幸村の娘を保護し、後室にするが、信州とは何らかの縁があったように思える。
片倉氏は、建武年中(1334〜37)奥州探題職に任ぜられた斯波(大崎)氏に従って奥州に入り、天文年間(1532〜54)片倉景時の代に伊達晴宗に仕えるようになった。
米沢に住み、米沢八幡の神主をしていたという。

片倉氏といえば何といっても政宗に仕えた小十郎景綱が抜群の知名度を持つ。
景綱の父景重は米沢八幡の神職で、母は片倉家家臣本沢刑部の娘直子でその間に生まれたのが小十郎景綱である。
景綱は優れていたため伊達輝宗の近臣遠藤基信が輝宗に推薦し、政宗の傳役となった。その後の政宗との2人3脚ぶりは書く必要なないであろう。
時は過ぎ、 関が原後、慶長7年(1602)ここ刈田郡白石城主となり16000石を知行した。
徳川幕府は一国一城令を出し、大名の本城以外は破却させたが、特例としてこの白石城のみは、伊達領内で城として認められる。
この白石城が戦略的な要衝であることは、蒲生氏が一族の郷成を入れ、上杉氏も重臣の甘粕氏を置いたことからも証明されるが、政宗もここが、伊達領南部の要地であることを認識していたため、もっとも信頼する片倉景綱を置く。
片倉景綱は元和元年(1615)59歳で死去する。

跡は嫡子の重長が継ぐ。彼は大坂夏の陣で伊達軍の先鋒部隊を率い戦い「鬼小十郎」の異名を取る。
しかし、自ら組み討ちを行うなどしたため、景綱から「将たる者、軽率である」と怒りを買う。
この重長の妻が、真田幸村の娘である。
大坂夏の陣で重長を見込んだ幸村が娘を託したのだという。
幸村が重長の武勇にほれ込み娘を託したということが定説である。

しかし、信州という地縁ルートが存在していたのではないかとも考えられる。
戦国時代は人の動きは活発であり、とんでもない地出身の者が、とんでもない地で活躍し、しかも出身地との連絡も欠かしていないという事実がある。

例えば、南部氏は武田氏の出であるが、甲斐に残った一族との連絡は採っていたようであるし、奥州相馬氏と下総相馬氏も連絡は採っていたという。
したがって、真田家と片倉家の間にも信州という接点があり、誰かが亡命の仲介をしていたのではないかと・・。
この時、幸村の遺児も引き取られ、その子孫が仙台真田家として仙台藩士として続く。
片倉重長は、慶安4年(1651)伊達一家に列せられ、その子孫は、白石城主を代々受け継ぎ、明治維新を迎える。

政宗陣城(白石市福岡)

白石城の北、白石川の対岸にある福岡小学校の地が陣城の跡。
慶長5年(1600)、どさくさに紛れて旧領奪還を図る伊達政宗の第一ターゲットがこの白石城。
その白石城攻撃のための陣城がこの地。
字名もずばり「陣場」である。
南1qが白石城。
白石川からの比高25mほどの河岸段丘上にあり、白石城がバッチリ丸見え。⇒
絶好のポジションである。
ほとんど遺構はないが、西側のはずれに土塁が少しだけ残っていた。
陣城跡は福岡小学校である。 西側に残る土塁残痕