仙台城(宮城県仙台市)
 「仙台城」という名前が正式名称であるが、「青葉城」と言ったほうが一般的かもしれない。
それに「青葉城」のほうが響きは良いような感じもする。

この城は、伊達政宗と一体化して抜群の知名度を持つ超有名城郭であり、仙台最高の観光地でもある。
わざわざ、このHPに紹介するまでもないとは思うが、せっかく行ったのでHP記事に・・とは言え、やりにくいことこの上ない。

この城と言えば「伊達政宗」。
築城時から今に至るまで「伊達政宗」である。
何しろ宮城県に入ると、道路標識まで乗馬姿の伊達政宗である。

仙台の街自体が「伊達ワールド」であるが、どちらかというと「伊達政宗ワールド」といった方が妥当かもしれない。
彼以外にもこの城に関わる伊達氏関係の大物人物は、大勢いるのであるが、精々出てくるのは「片倉小十郎景綱」程度である。
大体、この城の歴代城主の名前、政宗以外の名前がどれくらい出て来るものだろうか?
実は、管理人も政宗以外、出て来ないのである。

ここは、さすがに伊達62万石の本拠であり、壮大で立派な城である。
でも、建物はほとんどないのである。
聞けば幕末までは、ほとんどの建物は残っていたという。

ところが、仙台藩は戊辰戦争では奥羽列藩同盟の盟主、賊軍である。
その賊軍の盟主の城を薩長が見逃す訳がない。
憎さ100倍、文化財としても価値が高いほとんどの建物が破壊されてしまった。

これは盛岡城なども同様であるが、とりかえしの着かない暴挙であった。
この行為はアフガニスタンでタリバンが古代仏教遺跡や遺物を破壊したことを連想する。

明治維新で破壊されなかった建物も戦災で失われ、結局、移築した門だけが現存するのみという寂しさである。
それでも、石垣や堀等の遺構は良好に残り、再建された櫓等とともにかつての壮大で豪華であった城の姿を伝えている。

伊達政宗による築城は、関ヶ原の戦後、慶長5年末、徳川家康の許しを得て、岩出山からこの千代に居城を移すことにしたことによる。
城は西から張り出す青葉山の東の末端部に本丸を置いた。縄張は政宗自ら、青葉山に登って陣頭指揮したという。

政宗の築いた仙台城は、裾野に二の丸、三の丸を展開させる今の姿ではなく、今の本丸と西の丸部分を中心とした山城であった。
裾野の今の三の丸の地には、山上部と連絡する曲輪があったようである。
城下町は広瀬川の東に置いたようである。
とは言え、政宗築城以前、すでにこの山には城が存在していたといい、それを利用したものという。

始めにここに城を築いたのは、鎌倉時代の末から室町時代の中頃にかけて、島津氏が陸奥守として居城していたという。
さらに室町時代には国分荘の国人、国分氏が居城を置いていたという。

伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となり、政宗が工事を始めたころは、廃墟・空城状態であったらしい。
本丸の地の標高は115m、西の丸は122mであり、広瀬川からの比高は90〜100mほどある。

東側は外堀の役目も持つ広瀬川に面する絶壁であり、南は龍ノ口渓谷の深い谷がある要害の地である。
尾根続きの青葉山方面のほうが標高が140mほどと高く、攻撃しようとすればこの方面からしかないが、青葉山にも土塁、堀切が当然ながら存在しているという。
また、本丸の水源も青葉山にあったという。

この城には、天守閣はなかったが、護国神社南側の高台に天守閣を建てる予定だったという。
なぜ、天守閣を建てなかったかは、幕府遠慮説等、色々あるようであるが、政宗のことであるから、これからの世では不用なものであり、出費の無駄といった現実的な理由じゃなかったかと思う。

戦国時代が終わった時代に、時代に逆行するような城であったが、まだ、徳川幕府は誕生したばかりであり、政宗には戦国時代の再来も想定していたのであろう。
仙台城については、ビスカイノは「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言っており、間違いなく、戦闘においても堅固な城と言えるだろう。

なお、この城に本拠を移す契機に地名は「千代」から「仙台」と改めたという。
豊臣氏が滅亡し、政宗の時代が終わり、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、2代、忠宗は寛永14年(1637)、北側の標高60mの山麓に二の丸を造営、順次、三の丸(東の丸)、大手門が造営された。

本丸北面の修復された石垣。
正面の石垣の上に東脇櫓があった。
右を上がると詰門。
本丸西側の石垣。ここは昔のまま。
下の市道は狭く危険なため、今は
一方通行になっている。
東脇櫓と西脇櫓の間を登ると本丸の
正門にあたる詰門があった。
詰門の跡。荒れ果てている。
丑寅櫓の石垣といきたいところである
が、この櫓は地震で崩壊してこの
石垣の上には再建されなかった。
本丸の東側、この写真左付近に
清水寺のような懸造があったらしい。
本丸東側の崖、凄い迫力である。
今は木に覆われている。
本丸南の搦手門にあたる埋門跡。
今はここが本丸への車の進入路になっている。
本丸南東の土塁。左が巽櫓跡。 本丸北東に建つ伊達政宗像。
絶好の写真撮影スポットであり、
撮影は順番待ち状態。
本丸から眺めた広瀬川と仙台中心街。
素晴しい眺めである。
本丸に建つ護国神社。
この本丸は、山上にある平城と言った感じである。
居館と要害を備えた山城のイメージからは伊達氏のかつての本拠、桑折西山城の西館を連想させる。250m四方くらいはある。

麓の大手門跡を左折、坂道を登り、中の門、中門を抜け、つづら折りの登っていくと、目前に高さ15m以上もある壮大な石垣が姿を現す。
この石垣は政宗時代のものではなく、後世、修復し、さらに最近、整備したものであるが、凄い規模である。
西側に本丸大手門に当たる詰の門跡(護国神社の鳥居がある場所)がある。

本丸には、その大広間、艮櫓、詰の門両脇の櫓があった。
南側には搦手門である埋門があり、現在は、車で来た場合は、この裏側にある埋門跡から入る。
なお、大手門から登る市道は,本丸西側を通って埋門に至るが、本丸西側の切通しが堀切跡である。

本丸御殿は豪華絢爛なものであり、天皇や将軍の来訪も意識していたという。(結局、来ることはなかった。)
ここには天皇や将軍が訪れたときに使う御成門があったが、一度も開くことはなかった。

大広間には藩主が座わる上段の間の上に、天皇家・将軍家専用の上々段の間があったが、これも、当然ながら使用されることはなかった。
本丸の東の崖に面して、清水寺のように崖に迫り出すように作られた懸造(掛造)があったというが、元和2年(1616)の地震で崩壊したという。

政宗が造った仙台城は、元和2年(1616)の地震で大損害を受け、修復されたが、正保3年(1646)の地震でも損害を受け、その都度、修復されるが、艮櫓・巽櫓や詰門の東西脇櫓もこの時倒壊。
以後再建されなかった。
しかし、寛文8年(1668)の地震で全滅状態ほぼ全面が崩壊した。
4代藩主綱村によって石垣等の修復が図られるが、寛文13年(1673)以後も工事が続いていたという。
この石垣も近年、崩壊の危機があり、下が市道であったため、1997年より全面解体修復工事が行われた。
この時の調査により、寛文期の石垣の上には艮櫓は建てられなかったことが判明した。
本丸からの眺めは素晴らしく、仙台中心街が望まれ、眼下に広瀬川が流れる。 

三の丸は現在、仙台市立博物館
が建つ。背後の山が本丸。
三の丸の北にある水堀、五色沼。 三の丸、北の門跡。
今は博物館の入り口。
三の丸東側の土塁。

二の丸は、寛永16年(1639)12月に完成し、藩庁が置かれ、藩政の中心であった。藩主の居館もここにあった。
大手門はどちらかというと二の丸の正門と言ったほうが良い。
規模は東西310m、南北200mの広さである。

この地には、明治4年(1871)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれたが、建物は、明治15年(1882年)西南の役の戦没者招魂祭の花火による失火で、ほとんどが焼失してしまった。
戦後、アメリカ軍の進駐場となり、昭和32年(1957)に返還された。
現在は東北大学川内キャンパスとなり、北側に堀跡が残る。

二の丸の正門である大手門は現存しており、昭和6年(1931)に脇櫓と共に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月20日の仙台空襲で脇櫓ともに焼失してしまった。
昭和39年(1967)年に復元された。
三の丸は、現在の仙台市立博物館が建つ地である。
周囲を土塁で囲んだ二の丸より古い形式であり、築城時から存在していたという。
東側に長沼、北側に五色沼が水堀として存在し、門がある。
三の丸南側に巽門があり、清水門、沢の門を経由して本丸詰門に至る道が延びる。
これが、築城当初の大手道であったようである。二の丸造成後、大手門が建てられ、こちら側からも本丸に行けるようになったようである。
ここには、藩の米蔵があった。

三の丸から西に登って行くと清水門跡がある。 大手門脇に建つ再建された隅櫓。 隅櫓北の三の丸の石垣、
石垣は戦災による火災で表面が焼けている。
大手門から本丸に向かう途中に中
の門がある。道はここでクランクするので危ない。

(おまけ)仙台市博物館所蔵 黒漆五枚胴具足(くろうるし ごまいどう ぐそく)
伊達政宗と言えばこの鎧。
ゲームキャラも挿絵も仙台城本丸に建つ銅像も、仙台市立博物館にある伊達政宗像も全てこの鎧である。
日本にある鎧の中でも最も有名なものの1つだろう。
もちろん重要文化財で戦国時代のものという。

「伝伊達政宗着用」とされているが、信憑性は高いようである。
何と言っても、細長い金色の月がピカ1。
伊達家では、旗は日輪、兜の前立は半月と定めているそうである。
ところで「スターウォーズ」に登場する映画の一方の主役「ダースベイダー」のマスクのモデルがこの鎧の兜という。

この映画の制作関係者だという人から仙台市博物館に国際電話があり、
伊達政宗の黒漆五枚胴具足の写真がほしいと言ってきたので米国に送ったという。
"STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−" 米国の MARY HENDERSON という出版社が1997年に発行した本には、
スターウォーズに登場する人物の衣装、航空機、武器、シーンなどのヒントに使われた物事が紹介されているが、
その188−189ページに、ダースベイダーと伊達政宗の黒漆五枚胴具足の兜部分の写真が並んで紹介されている。

解説文には伊達政宗のものとは書かれてはいないが、日本の戦国武将の鎧兜を参考にしたとある。
確かに、ベイダーの漆黒のマスクとその形状、よく似ている。(仙台市のHP参考)