盛岡城

盛岡市の象徴であり、象徴にふさわしい高石垣を持つ美しい城である。
さぞかし桜の季節は素晴らしい風景だろう。
この城は完全な近世城郭である。

城の前身は工藤氏の不来方城であったという。
南北朝時代にはこの地は工藤氏が支配していたという。
この工藤氏は藤原南家、武智麻呂の四男乙麻呂の子孫為憲を祖とする一族であり、頼朝に仕え曽我十郎・五郎兄弟よる「曽我の仇討」で有名な工藤祐経が先祖の1人である。
工藤氏も頼朝による奥州征伐の功でこの地に領地をもらい。
この祐経の庶子祐時が奥州に来たものという。
同じ下向組の南部氏に比べてこの工藤氏は振るわず、いつの間にか南部氏の家臣に吸収されてしまったようである。

一方、南部氏は天正19年(1591)九戸の乱後、南部信直が新たに三郡を与えられて10万石となり大名としての安定した地位を築く。
しかし、居城の三戸城は領土に北側に偏り過ぎ、新領土となった盛岡付近の方がはるかに生産性が高い土地であった。

このため、南部氏は本拠をまず九戸城に移し、さらに不来方の地に新城を築くこととし、文禄2年(1593)から築城工事に着手した。
その工事指揮は信直の嫡男南部利直が行った。慶長4年(1599)南部信直は城の完成を見ることなく死去する。
この間、関ケ原の合戦で徳川氏に組みして本領を安堵される。
利直は築城工事を進め、利直は不来方を「盛り上がり栄える岡」になるようにとの願いを込めて盛岡と改称する。
盛岡城が完成したのは利直の後を継いだ重直の代である寛永10年(1633)であった。
実に40年近くの年月を要したことになる。

寛文4年(1664)重直が死去し、嗣子がなかったため、幕府は一時的に南部10万石を没収するが、
北方警備の必要性を考え、利直の五男重信に8万石を与えて南部藩を再興するとともに、利直の七男直房に八戸藩2万石を与えた。
文化5年(1808)には南部利敬が蝦夷地警備の功により20万石に加増される。
以後、明治維新まで17代南部氏の居城として存続する。

戊辰戦争では奥羽列藩同盟に組したため、明治には南部氏は冷遇され、城の建物もこの影響もあり破脚されてしまう。
城址は岩手公園となり、現在に至っている。

盛岡城は北上川と中津川の合流点近くの独立した山に築かれ、両河川を天然の外堀とし、南端に本丸を置き、その周囲に帯曲輪、北側に二の丸、三の丸を配置する連郭式であり、周囲にいくつもの曲輪を設ける。

盛岡城跡の最大の見所は見事な石垣である。
主郭は全て石垣である。
何しろ高さが10m近くあり、石材は白っぽい花崗岩であり、石垣全体が風化してもやや白っぽくみえる。
本丸に天守台跡があるが、三階櫓を天守にしていたものであり、意外と小さい感じを受ける。
本丸には本丸御殿が建っていたという。

二の丸には二の丸御殿が建っていたという。
三の丸には烏帽子岩という巨石がある。
城の守り岩であり、現在は桜山神社の御神体である。
この岩の手前にはテーブル状の大きな岩がある。
烏帽子岩南側の石垣の一部は同系の巨石である。
この巨大さでは動かせない。
もともとこの城のある山は岩がごろごろしていたようであり、石材の調達は有利であったかもしれないが、ここを平坦化するのは難工事であったろう。
三の丸の北側は馬出があり、周囲に鶴ケ池と呼ばれている水堀が残る。
馬出内が飲食街なのが笑ってしまうが。

西側から見た主郭部の石垣。 石垣を下から見上げる。
凄い迫力である。
本丸の天守台。
三層の天守が建っていたという。
本丸東門跡を脇櫓跡から見る。
三の丸にある烏帽子岩。 馬出の水堀。 三の丸不明御門の巨岩を用いた石垣 本丸、二の丸間の堀にかかる御廊下下橋。

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