九戸城(岩手県二戸市)
二戸市役所の南の標高137mの岡にある九戸の乱で有名な城である。
東を白鳥川、西を馬淵川、南を猫淵川で囲まれ、南西方向から延びた台地の北東端部に築かれる。
市役所付近の標高が100m程度であるため、比高は35mほど。馬淵川からは50m近い比高がある。
九戸の乱で仕置軍が苦戦しただけある天然の要塞である。
本丸と二の丸の北側は公園となっているためきれいに整備され、しかも、各所に説明板が配置されているため、見学するには非常に親切である。
説明も滅亡した九戸政実に親しみと同情を寄せたものであり、この地の人が九戸氏や虐殺された住民に寄せる想いが感じられる。
この乱の後、福岡城と名前を変え、一時、南部氏の本拠となっていたこともあった。
しかし、九戸の乱以降の歴史は完全に無視されているようであり、誰も福岡城とは呼ばない。あくまでこの城は「九戸城」である。
この地ではだまし討ちをした豊臣秀吉、蒲生氏郷は極悪非道な悪人に他ならない。
これは大阪人が徳川家康を嫌うのや、小生の故郷長野県北部の人間が今でも武田信玄を嫌うのと同じである。
400年の歳月を越えた怨念が伝えられているのがここにもある。

本丸と二の丸の一部は整備されているが、石沢館、若狭館、松の丸は整備されていない。それほど形は変えずに残っているようである。
本丸には見事な石垣があるが、これは九戸の乱の後、蒲生氏により整備されたものであり、ここがこの城の一応の見所である。
九戸政実を讃えながら、九戸政実とは関係のないこの織豊系城郭遺構を見所にするのは矛盾は感じるが、この石垣は見所とする価値は確かに高い。
この深い空堀と石垣は東北地方では最古のものであり、九戸の乱の後、天正19年(1591)豊臣秀吉が蒲生氏郷に命じて改築したものである。
穴太(あのう)積みであり、見ごたえのある石垣である。
この本丸跡は100m四方の大きさで、西と南を二の丸跡がL字型に囲んでいる。本丸南東側と西側に虎口がある。
この城の本丸は奥州の住民に豊臣氏の実力を示すデモンストレーションとして、見せるために築いたものであろう。
特にあの場所にあれだけのものを造る必要はあるのかどうか?
九戸氏時代は二の丸全体が本郭であったようである。
大きさは250m×150mの広さになるので区画されていた可能性もある。
旧本郭の周囲は高さ15m近い断崖であり、一部は岩盤むき出しである。
石沢館、若狭館、松の丸の配置を見ると、地形を利用し、大きな島状の不定形の曲輪を配置する浪岡城、根城、堀越城と似た構成である。
この点ではこの地方の城の特長を有しているといえるだろう。
松の丸は本郭部とは幅80mもある谷津を利用した谷の西側にある。ここは出城的な郭であろう。
本郭南西側の堀。 本郭西側虎口。東北地方の城、最古の石垣。堀には水はなかったらしい。 本郭北側斜面。崖に近く、とても登れるものではない。
二郭大手口跡。道路が堀の跡。民家の場所が外郭。 主郭部南側の谷津(堀)から主郭部を見る。岩盤むき出しである。 二郭東の搦手口
松の丸の虎口。松の丸内部は墓地になっていた。 二郭東の搦手口を出ると堀底であり、目の前に石沢館がある。 左の場所から目を右に向けると二郭の東への張り出し部が見える。塁上には土塁がある。

南西側の台地続きは外郭であり、住宅地、畑になっており城郭遺構は見られない。
ここは家臣団の屋敷があったようである。この方面は攻撃する場合、最も攻めやすいはずである。
かつては当然、堀、土塁はあったのであろう。
築城がいつであるか諸説あるようであるが、
九戸光正が明応年間(1492〜1501)に本格的な城として築城し、徐々に拡張整備していったらしい。
それ以前は居館程度のものであったらしい。今に残る城の城域は500m四方であろう。
九戸の乱後、南部信直が福岡城と改め南部氏の本拠地とするが、盛岡城に本拠を移した後、寛永13年(1636)廃城になった。

九戸氏について
九戸の乱でその名を歴史に残す。
南部氏の分流であるが、この乱のお陰で南部氏と同等、あるいは全国区では南部氏以上に知名度がある。
南部氏初代光行の六男行連が起こした家であり、九戸を領土にしたため、地名を採って九戸氏を称したという。
はじめ九戸城が宗家の城であったようであるが、これが現在の九戸城の場所にあった城なのかは不明。
古三戸城さらに三戸城に移り、その後、九戸氏が入ったらしい。
そして最後の当主政実まで11代の居城となる。
九戸氏は三戸南部氏の一門であるが。戦国末期には、その勢力は宗家を凌ぐくらい大きかった。
九戸氏が有名なのは最後の当主政実によるが、彼は武将としての優れ、その軍事力は家中でも抜きん出ていたようである。
永禄八年(1565)に秋田近(愛)季の鹿角侵攻で、南部氏が敗北し占領されるが、翌年九戸政実が出陣し、秋田氏から鹿角を奪還する。
斯波氏に対しての戦いの中心も九戸政実であった。
一応、南部氏の家臣として認識されてはいるが、いくつかの資料では南部氏と対等の立場と推定されるものもあり、同盟大名的な立場であったかもしれない。独立化を目指していたとしても決して不思議ではない。
津軽氏の独立を助けたのも、九戸氏が南部宗家を牽制し、津軽への出兵を出来なくさせたという説が有力であり、津軽氏と連絡を取り合っていたとも言われる。南部氏との軋轢が大きくなる原因となった事件は、南部晴政の跡継ぎを相続問題であった。
南部氏一族、重臣らによって大評定が開かれる。
後継候補者としては、晴政の養嗣子田子信直と九戸政実の弟、実親が立ち、北信愛と八戸政栄の力で信直の南部氏相続が決定する。
実親を推す九戸政実にとってこれは大きな遺恨となり、以後、信直の指示には従わなくなる。
その影が津軽為信の独立に繋がる。
九戸政実はその後も反信直の態度を変えず、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「奥州仕置」の後も変わらなかった。
奥州仕置の後、改易された大崎、葛西氏らの遺臣が反乱を起し、和賀、稗貫にも広がる。
この反乱は鎮圧されるが、この状況を見た九戸政実は南部氏の打倒を決意し、天正19年(1591)反乱を起こす。
反乱には一戸城の一戸図書や櫛引河内、七戸彦三郎も同調し、三戸南部氏を圧倒する。
南部信直は豊臣秀吉に救援を求め、再仕置軍が派遣される。
蒲生勢、浅野勢、石田勢の他、小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季、津軽為信も加わり、六万の軍勢で九戸城を攻撃する。
九戸城には五千がこもり抗戦する。しかし、抗戦不可となり降伏。
九戸政実らは三迫で斬首され、篭城した女子供も容赦なく殺され、のちに「九戸の撫で斬り」と呼ばれた。
この政実の行動は、世の中の動き、秀吉の力を理解できなかったためと言われる。
九戸の乱以後、関が原までは戦いはなく、戦国時代最後の戦いといえるであろう。