平泉館(平泉町)
「ひらいずみのたち」とも言うが、通称は「柳之御所」奥州藤原氏の政庁である。
藤原清衡が豊田館(奥州市)から平泉に移り、居館をかまえた所であり、秀衡が再整備を行った『吾妻鏡』の記述にある奥州藤原氏の政庁・平泉館に比定されるという。
この館は、中尊寺の北西方山上の金色堂を望むように造営されたという。
文治5年(1189)、源頼朝の藤原氏攻撃で炎上して廃墟となり、埋もれてしまった。
北上川の流れが変わり、ほとんど浸食されてしまったというが、そうではなかった。

高館の南東、北上川西岸と猫間が淵に挟まれた標高約25mの岡に立地し、面積は11.2万u。
発掘で多くの掘立柱建物跡、堀、橋、道、園池、屋敷群跡、10t以上のかわらけ、中国産陶磁器、常滑産や渥美産の陶器、当時の烏帽子、国内初の発見となる磐前村印、将棋の駒などが出土している。
現在は、遺跡面積の半分が柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。(Wikipedia等を参考)

館跡は公園化されている。左手に北上川が流れる。南東側から見た風景。
山が衣川館、明らかに平泉館防衛用の城である。
写真左手が中尊寺。


衣川館(平泉町)
「ころもがわのたち」は、平泉町高館にある奥州藤原氏の城であるが、源義経の最期の場所として知られる。
このため、高館義経堂とか判官館とも呼ばれる。

場所は北上川と衣川の合流地点より約1キロほど南の比高40mほどの独立した山であり、東は北上川、西は東北本線が通る。
南が奥州藤原氏の政庁、平泉館。北西の山が中尊寺である。
元々藤原基成の館であったと言う。

←は平泉館から見た衣川館、両者はつながっていることが分かる。

『吾妻鏡』によれば、義経主従は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に再三にわたる源頼朝の恐喝に屈した藤原泰衡に襲撃され、妻子と共に自害したという。
天和3年(1683)に仙台藩藩主伊達綱村により館跡に義経堂と義経の木像が建立された。

山は確かに城跡であり、帯曲輪、腰曲輪が確認される。
中世も城として使われていたらしい。
おそらく葛西氏北辺の城であり、北上川の水上交通を監視する城だったのであろう。

元禄2年5月13日(1689年6月29日)には松尾芭蕉が来訪、「夏草や 兵共が 夢の跡」で知られる句を詠んだのもここと言われている。

しかし、義経終焉の地はここではないだろう。
この山は平泉館の背後、平泉館や中尊寺の防衛用の城だろう。
そんな重要な場所に義経を住まわすとは思えない。
義経が襲撃されたのは奥州市衣川区七日市場の接待館ではなかったかとも言う。

高水寺城(紫波町)

斯波氏は南北朝時代、奥州に拠点を置く、南朝方の北畠氏を駆逐するために足利氏が奥州探題として送り込んだ一族である。
この一族は足利一門であり、足利泰氏の子家氏が斯波郡に下り、地名を取って「斯波」を称したものという。
この時、拠点としたのが高水寺城であり、滅亡するまでの10代にわたり拠点にしている。
ちなみに家氏の弟頼氏の曾孫が足利尊氏にあたる。

この地で北畠氏の勢力を抑え、相馬氏、南部氏、伊達氏、白河結城氏らを従属統率し、大勢力となった。
将軍家につながる名門であるため、「斯波(志和)御所」とまで言われるようになった。
斯波氏からは大崎氏、最上氏が出ている。
室町将軍の権威をバックにしていたため、その権威が衰えるに従い、斯波氏の権威も低下してしまう。
まるで鎌倉公方の権威低下とそっくりである。
結果として、その勢力も斯波郡付近に限定された小勢力に過ぎないものとなる。

分家の大崎氏や最上氏がそこそこの勢力を築き上げているが、本家筋の斯波家にはずば抜けた当主は出なかったのであろうか。
それでも一時的には、北方の南部氏に果敢に反撃し、侵略を撃退したこともあったが、次第に圧され、最後は、天正16年(1588)南部氏によって滅ぼされてしまう。
この時は一族である大萱生氏、江柄氏、手代森氏、乙部氏、長岡氏、大巻氏にも見限られていたというから悲惨である。
斯波氏の家臣や一族の多くは、南部氏の家臣となった。

その斯波氏の本拠、高水寺城は「斯波御所」とも呼ばれ、紫波町の中央、北上川右岸の標高180mの傾斜の緩い山に築かれ、現在、城山公園として整備されている。
自動車でも本郭下まで行くことができる。
ただし、公園化により、遺構はかなり改変を受けているようである。

城域は東西550m、南北700mほどあり結構広いが、構造は段を重ねた単純な構造である。
本郭は50m×70m程度の大きさであり、4mほど下に帯曲輪が回る。

南東側に50m四方ほどの広い曲輪があり、ここが二郭に相当し、若殿屋敷という。
その周囲にも帯曲輪が広がる。本郭西側、北側の曲輪は公園の駐車場になっている。
その北東には姫御殿と呼ばれる郭が、南には右京屋敷がある。
南西部には吉兵衛屋敷があり、出丸であったという。

なお、吉兵衛とは、南部氏から斯波氏に娘婿に入り高田氏を名乗った人物だそうである。
また,東側の北上川沿いにも数段の曲輪が重なっているのが認められる。
さらに南の尾根筋に西御所、戸部御所があったという。
天正16年南部氏に攻撃され斯波氏は滅亡する。

南部氏は一時、この城を「郡山城」と改称し、一時的に居城としたこともあったが、寛文7年に廃城となった。
石垣もあったらしいが、盛岡城築城に使われたという。
なお、高水寺という名は、もともとここに高水寺という寺が在ったことに由来する。
本郭に建つ城址碑。 若殿屋敷間の堀跡。 主郭部の南斜面には数段の曲輪がある。
本郭の西下から本郭と帯曲輪を見る。石垣
は本物かなあ?
本郭の西下の曲輪。 本郭の南下の広大な曲輪。