岩出山城(宮城県岩出山町)
古川市から鳴子温泉に向かう途中にある岩出山町の城山公園が城址である。
陸羽東線有備館駅から見える山である。
伊達藩の藩校である有備館裏を流れる内川がこの城の外堀の役目があったそうである。

岩出山の市街は道が直線に曲がる等、城下町の遺構が結構残っている。
城址までは迷うことはないが、登る道は狭く、対向車がきたらヒヤヒヤものである。
途中にSL広場があるが、ここも曲輪である。
入口に内門があったという。
東側の斜面にも曲輪がある。
この付近が東腰郭とのことである。
しかし、このC51どうやってここまで運んで来たのか?
分解して運搬し、ここで組み立てたのだろうか。

本郭はこの場所から15mほど上である。
本郭まで車で行くことができる。
本郭内部は公園であるが結構さびれている。
北側には旅館らしい建物があり、売店もあるが閉鎖されているようであった。

本郭は長さ100m、幅40m程度あり広い。
周囲を土塁が覆い、特に南側の土塁は重厚であり、物見櫓か門があったようである。
土塁間が開いており虎口になっている。ここを出ると西腰郭であるが本郭より3mほど低い。
本郭との間に土橋があり、その東西は堀になっている。

西腰郭は径50mほどあり、内部に伊達政宗の像が建つ。
この像は元々は仙台城にあったそうであるが騎馬姿の政宗の像が完成したため、この地に移したものという。
西腰郭の下にも曲輪が見られる。
本郭の西側下に本郭を囲むように二郭がある。
ここには門址や曲輪、土塁の址が比較的よく残っている。

二郭の北に出丸のようなダルマ広場があり、その北側のピークに北物見台がある。
岩出山小学校、高校の地は山に囲まれており、居館等があった場所という。
この北側、西側の山にも遺構があるようであるが、そこまでは見ていない。
全体としては東西約800m、南北700mの規模があるという。
城のある山はほぼ独立した山で、北と南に川が流れ、結構要害性が高い。

また、かつては北羽前街道と羽後街道の交わる要衝の地でもあった。
この城は伊達政宗の居城であったことで有名である。しかし、政宗が城主であった期間は12年に過ぎず、この地に留まっていた期間はわずかであったと思われる。

本郭に建つ城址碑。 本郭南の西腰郭への虎口。
両側に巨大な
土塁がある。
本郭、西腰郭間の土橋の両側は堀になっ
ており、西下に二郭が見える。
西腰郭に建つ伊達政宗の像。恰幅にいい
オッサンであり、野望の主には見えない。
本郭の東下SL広場。上に腰曲輪が見える 東腰郭の西側。

その間の領地統地は屋代景頼が代行していたという。
伊達氏が入る以前の歴史はほとんど知られていない。

岩出山城は元は岩手沢城といい、奥州探題大崎氏の家臣、氏家氏の居城であった。
大崎氏は小田原に参陣しなかったため滅亡し、氏家氏も滅びる。
旧領は木村吉清・清久父子に与えるが、領内の統治ができず大崎葛西一揆が勃発。

これを裏で煽っていたのが政宗であるとの疑い(ほぼ真実らしい)をかけられ、政宗は奥州仕置きによって、伊達・信夫・田村・刈田・長井などの伊達氏代々の土地が没収され、米沢から旧大崎葛西領へ移封となった。
このとき秀吉の命で大崎地方の検地をしていた徳川家康の家臣、榊原康政が城を修築し、政宗に引き渡した。
岩手沢から岩出山と改めたのは政宗であり、慶長8年(1603)までの12年間居城とし、仙台城へ移転後は、四男宗泰が15000石として支藩を立てた。
日本最古の藩校「有備館」は岩出山伊達家二代宗敏のときの仮居館が、学問所となったものであるという。

さて、この城は伊達氏270年の歴史を持つが、伊達氏以前の城主氏家氏もこの城に250年の歴史を刻む。
伊達氏については今更触れるまでもなくメジャーであるが、氏家氏についてはほとんど忘れられているのでここで触れる。

元々の城主氏家氏は、栃木県さくら市(旧氏家町)の勝山城の氏家氏から出た一族である。
先祖は藤原北家宇都宮氏である。宇都宮氏一族の氏家氏が奥州に来たのは、南北朝期に奥州探題となった斯波兼頼に随行したためという。
別説では越中に移った氏家氏が斯波家兼に随行したともいう。

なお、越中の氏家氏の一部は南北朝の戦功で美濃に領地を得、その子孫があの氏家卜伝である。
斯波氏に同行した氏家氏は奥州探題斯波氏(のちに大崎氏)に仕え、氏家詮継が岩出山城を築いたという。
氏家氏は大崎氏の重臣となり大崎氏を支える。

大崎氏は戦国時代初期には奥州有数の戦国大名となり、伊達、葛西、葦名、最上などと抗争を繰り返す。
一方、大崎氏内では笠原氏の勢力が増大し、氏家氏は度々大崎氏に対して反乱を起こす。
天文三年(1534)には、伊達氏の応援を得た大崎義直に岩出山城を攻撃され降伏する。

この反乱は大崎氏家中を動揺させ、内乱が頻発する。新井田刑部と井場野惣八郎との争いが発展、氏家弾正吉継も巻き込まれる。
ついには氏家弾正が攻撃され、伊達政宗を頼る。
これが伊達と大崎の直接対決に発展、しかし伊達軍は雪で惨敗する。

しかし、大崎氏の趨勢は衰えるばかりであり、天正18年(1590)の小田原の陣に参陣できず、改易される。
氏家弾正吉継はその後、伊達氏に仕えるが、天正19年(1591)に病没し嫡流が絶えてしまう。
江戸時代、氏家氏は嫁いだ一族の女性の子が再興し、伊達氏家臣として1850石を得て明治維新まで続いている。

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