水沢城(水沢市)

臥牛城又は大休城ともいう。
天喜5年(1057)源頼義が、前九年の役の時、安倍氏との戦いの基地として築いたと伝えられるが伝説の域を出ない。
戦国時代にはすでに城はあり、葛西氏家臣佐々木氏の居城があったという。
しかし、佐々木氏は葛西氏とともに奥州仕置により滅亡した。
その後、伊達領となり、支城となる。伊達政宗の家臣白石宗実が城主となったが和賀一揆の責任によりを問われ移封され、後に柴田外記、石母田宗頼らが入城。寛永6年(1629)に伊達一門の留守(伊達)宗利が城主となり、以後、明治維新までの240年間、留守氏1万6千石の居城として続く。
城は典型的な平城であり、本丸、二の丸、三の丸、南の丸からなり、乙女川が自然の外堀であったという。
遺構はほとんど失われ、市役所前に土塁がわずかに残るのみである。
この土塁は三の丸の土塁の一部といい、姥杉と呼ばれる杉の古木が残っているだけである。
しかし、市街地の道は場所によっては、直角に折れ曲がる場所もあり、城下町を感じさせる部分も残る。

黒門(冠木門)どの場所にあったものかは不明という。背後の建物は水沢市役所 三の丸は水沢市役所の駐車場になっている。背後の建物は、岩手県奥州地区合同庁舎。 残存土塁に建つ姥杉。 道路は三の丸東の堀跡。武家屋敷が堀の東に広がる。

志波城(盛岡市)
 東北自動車道を北上していくと盛岡IC手前右側に異様な光景が目に入る。
長く続く黄土色の築地である。これが志波城跡である。
この城は平安時代初め(約1,200年前)に造営された城柵(じようさく)遺跡であり、古代城館である。
城館といっても居館というより政庁と兵の駐屯地を兼ねた場所であった。
京都の朝廷が奈良〜平安時代に当時この地に住み、蝦夷と呼ばれた東北の民を支配するための役所である。
役所というより、征服した東北の民に朝廷の権力を誇示するのが主目的であろう。
平城京の縮小コピーといった感じで、写真で見た中国の城塞都市そっくりである。
この志波城は古代東北の柵の中でもそ多賀城と双璧をなす規模である。
 以前からこの地は太田方八丁遺跡と呼ばれ、志波城の地と推定されていたが、それが正式に判断されたのは東北自動車道の建設に伴う発掘調査の結果としてであり、昭和59年のことである。
現在盛岡市が整備し「志波城古代公園」として開放している。
城は、盛岡市南西部の北上川と雫石川のつくりだす平野部にあり、南の胆沢方面と西の秋田方面に通じる交通の要衝にある。
築城は延暦22年(803)、坂上田村麻呂によるという。
しかし、雫石川の氾濫により、水害を受け、僅か10年で南の徳丹城に移転してしまったという。
外郭は、一辺840m四方の築地塀が周っていたと言い一部が復元されている。この築地塀は一見、ただの板塀のように見えるが、近くで見ると土を層状につき固めており、思った以上に重厚であり耐火性もある。塀の外側には一辺928m四方の外大溝という堀があった。
外郭南辺の築地線中央には東西15m、南北6mの大きな五間一戸の外郭南門が復元されているが、これは平城京の羅生門のコピーである。
外郭南辺には約60mおきに櫓が並んでいるが、中世の横矢と同じ感じである。
中央やや南寄りの位置に、志波城の中心である政庁がある。
一辺150m四方を築地塀で囲い、中には正殿脇殿があったという。
 政庁の外側周辺には官衙建物群が広がり、ここが行政の事務所だったという。
築地塀の内側約100mの範囲に推定約2,O00棟の竪穴住居が密集しており、兵舎や工房であった。

外郭築地の櫓台 外郭南門
外郭南門を郭内から見る。 外大溝(堀) 南門から政庁まで延びる南大路。 政庁の東門。

安倍館(衣川村)
 安倍館というと「衣川柵」と言われている盛岡市にある城館跡も別名を安倍館といい、その場所も安倍館町となっているので非常にややこしい。
実は管理人も両者を混同していた。
しかしこの衣川村の安倍館は衣川柵に本拠を移す前の安倍氏の館であったという。
築館は安倍忠頼、平安前期から中期にかけての時期という。この館を忠頼、忠良、頼時(元頼良)三代が80年間にわたって本拠とし、頼時の時に本拠を移したという。
館は衣川の支流・南股川と北股川の合流地点西側の河岸段丘上にある。
川からは20m程度の比高があり、川沿いは崖であるので結構な要害である。
館のある岡は、西側から傾斜しており、東に向かって段々になってはいるが、結構広い。
岡の上の平坦地は、今は一面ののんびりした水田風景が広がるだけで、館の面影はどこを探しても見つからない。
館跡の説明板は西側の山の麓に建っているが、館と思われる遺構はない。この岡の上に館がいくつかあったようであり、北側に東館跡がある。部下の屋敷も岡の上にあったのであろう。
ただ、その周辺が段々状になっているのでこれが名残なのかもしれないが、単なる耕作地、宅地にしたためのものかもしれない。
すでに千年以上も経っているので遺構が無くなっても不思議ではない。
西側の山に何らかの遺構があるのかもしれないが、そこまでは行かなかった。

館址の南側。堀跡かな? 館址。背後の山にも砦があったのだろ
う。
館址から東を見る。林が川の崖。左の
森が東館址。

花巻城(花巻市)

花巻城は平安時代 安倍氏の柵があったのが始まりという。
安倍氏は前九年の役で滅亡し、中世は稗貫氏の城、鳥谷ケ崎城であったと言われている。
城の前身は瑞興寺という寺であったというから城郭化した寺が前身といえるだろう。
戦国時代には稗貫氏は鳥谷ケ崎城に本城を移している。
小田原の役不参加で稗貫氏は改易され、滅亡。この地は南部氏のものとなり、南部一族、北秀愛が稗貫、和賀2郡統治のため入る。
この時、鳥谷ケ崎城を花巻城に改めたという。
その後、秀愛は九戸の乱での負傷が原因で死去し、父親の信愛(北松斉)が2代目花巻城代となる。 

慶長5年(1600)関が原の合戦時に伊達政宗の暗躍で蜂起した「和賀稗貫一揆」がこの城を攻める「花巻城夜討ち」が起こるが、北信愛は寡兵で撃退に成功する。
城代となった信愛は積極的に花巻の町づくりを進め、東側直下を流れていた北上川を東に移し、城下町として大きく発展させた。
三の丸は重臣屋敷とし、外堀に武家屋敷を置いた。ここを仲小路、御田屋小路とした。
また、市を立て商業を発達させるとともに、北上川の河川交通の船着き場を小舟渡に建設した。住民の居住区として上八日町や下八日町(今の上町)、大工町(双葉町)、鍛治町をつくり、今の花巻の基礎を作った。
その後慶長19年(1614)南部利直の庶子南部政直が南部藩の支藩として2万石の花巻城主となる。
しかし寛永元年(1624)に非業の死を遂げ、以降は城代が置かれ、明治に至る。
この地の南、水沢は既に伊達藩領であり、南部藩にとっては境目の城であった。
城は北上川を東に望む比高20mの岡にあり、東西約710m、南北約500mの広さを持つ。
岡の北側に本丸を置き、北側以外を堀が囲む。本丸の西側には馬出がある。
二の丸は花巻小学校等の敷地となり、その外側を三の丸が囲む梯郭式の平山城である。
再建された本丸大手門 本丸内の土塁。 本丸周囲の水堀はきれいに残る。
本丸搦手口。 二の丸南に残る土塁。 三の丸に残る円城寺門。

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