粟野城(鹿沼市口粟野
鹿沼市西部、鹿沼市街から足尾方面に向かう県道15号線を西に走り、旧粟野町の中心部、口粟野の通称「城山」にあり、現在、粟野城山公園として整備されている。
公園なら楽でいいと思ったのが間違い。公園になっているのは谷津部の居館跡と言われる場所である。
その北側に山があり、当然、そこに詰めの城があるはず・・・と思いきや、これが大正解。
山を見なければ価値がないので、しかたないので山頂まで登る。

標高150mの公園(口粟野の標高は120m)から見ると、山の上に石塔が見える。
あのあたりが主郭だろうと推定。とりあえず、石塔のある場所まで向かうが、何とかそこまではちゃんとした遊歩道が付いている。
でも、途中、足のない奴が日なたぼっこをしているじゃないか!そいつを通り過ぎ、石塔まで行くが、しかし、はずれ。

本郭はさらに奥地。まだ、先。ここからは道も怪しくなる。
さらに高さで20mほど登ると「女二城」という平坦地に着く。長さ15mほどの曲輪である。
ここから先は道だか、藪だか分からない状態。藪をかきわけ10mほど登ると岩山Gがあり、また、石塔が・・ここが本郭かと思えば、まだ、先が・・。
平坦でも岩の本郭などある訳もない。ここは物見台だろう。

一度、6mほど降りると、鞍部になり、堀切Fが。さらに北に土塁があり、長さ20mほどの平坦地が、ここに「本丸」という標識がある。
でも鞍部が本丸なんてことあるのか?さらに登りになると、尾根伝いにEなどの曲輪が5段ほどある。
途中に石垣Dがある。これは本物だろう。

大きな岩を過ぎると長さ40m、幅10mほどの平坦地Bがある。さらに5mほど登るとやっと山頂である。
山頂の標高258m。ここから北は尾根となる。
この場所は尾根末端の盛り上がりである。で、そこにあったのは「物見台」という表示と「口粟野防空監視廠」という碑が、その後ろに円盤状の台がある。(@)
この上にラッパが束になった集音機が設置されていたのだろうか。ここで太平洋戦争当時の戦争遺跡にお目にかかるとは思いもしなかった。
この場所は15m×10mほどの広さであるが、その東側に周囲を低い土塁で囲まれた15m×10mほどの広さの場所Aがある。
これが、本郭なのか?それとも太平洋戦争時に改変された場所なのか。

結局、この城の山城部の本郭という場所が、多分Bとは思うが、どこなのかよく分からない。
この山頂から南西側と北東側に尾根が延び、Bから南西に延びる尾根沿いには、小曲輪Cが展開する。
この尾根沿いは歩いていないが、堀切等も存在しているものと思われる。
そしてこの2本の尾根の末端部は谷津部の居館跡を両腕で包み込むようになっている。

北東の尾根末端Hはローラーコースターがあるが、その北の東屋には「矢倉台跡」の表示があった。
公園となっている谷津部の館跡には土塁が二重にあり、尾根間に開いた部分Iが大手だったようである。
谷津の奥に「忠魂碑」があり、その奥から山頂に向かう道が大手道であるようであり、途中に曲輪が数枚ある。
こう見ると、かなり大きな城であり、防御性を兼ね備えた、居館、詰め城一体の城といえる。

南東思川付近から見た城址 @最高箇所にある防空監視廠跡
一応、物見台となっている。
A物見台東の曲輪は土塁を持つ。 B物見台西下の曲輪、ここが本郭?
C Bの曲輪から南西に延びる尾根の曲輪群 D @、Aの曲輪周囲には石垣がある。 E @から南に延びる尾根の曲輪。
 のろし台と言われる場所
F Eの曲輪の南の鞍部の堀切。
G 石塔が立つ岩山、物見台か? H 南東の尾根末端の矢倉台跡。 I 麓の居館跡の虎口の土塁 J 南西に延びる尾根の堀切

平安末期、足利又太郎忠綱がここに城を築き、涛速(なにわ)城と称したというが、これは伝承にすぎないであろう。
忠綱の一族郎党がここで全滅したとあるがこれも怪しい。
南北朝時代、還応元年(1338)、佐野氏の家臣、平野将監範久が築城(あるいは修築)したというのがもっとも確からしい、その後、戦国時代、小山宇都宮合同軍の攻撃で落城、佐野氏が奪還。
天正3年(1575)、平野大膳久国が城主の時、皆川氏に攻略されるが、同12年、佐野氏が奪還。
さらに同16年12月、再び、皆川広照の攻撃を受け、佐野方の援軍と共に防戦したが落城。
この戦は、激烈を極め皆川方の大将斎藤秀隆や粟野城代平野久国等を始め、多くの武将が討ち死、多くの死傷者を出した。
しかし、この攻防の歴史、凄いものである。
その粟野城にも最後が訪れる。皆川氏は、落合徳雲入道を粟野城代とするが、天正18年(1590)、小田原の役で上杉・真田軍の攻撃を受け、落城(降伏開城?)し、廃城となる。
(栃木県の中世城館跡、とちぎの古城、日本城郭大系を参考にした。)


下南摩城(鹿沼市南摩)

鹿沼市役所(鹿沼城)の南東5q、西の南摩川と東の笠井川が合流する場所に北側から突き出した尾根状の山、滝尾山の末端にある。
このため「滝尾山城」ともいう。
南摩小学校や勝願寺の北側の山で寺が館の場所と言われている。
また、この山の北側が南摩城CCであるが、この城の名前を採っている。
城は尾根末端の南摩招魂社裏の部分(下の城)と山の最高箇所部(上の城)の2箇所に分かれる。
平地の標高が120m、上の城が225mであるので比高100mである。南摩招魂社裏の部分は標高が160m程度である。

城域は南北500mに及ぶが上下の城間はだらだらした尾根であり、明確な城郭遺構は認められない。

城へは県道15号沿いに南摩招魂社に登る参道があり、ここを上がる。
すでに南摩招魂社の境内も城域であり、居館があったのであろう。
ハイキングコースが造られており、遊歩道を辿れば夏場でも難なく上の城まで行くことができる。
南摩招魂社境内は30m四方程度である。その裏手から登りとなる。ここから上がっていると既に2,3段の平坦地(4)が現れる。
(注 ( )付き数字は左の鳥瞰図に記入した番号に対応します。)
西側に横堀のようなものがあったが、後で確認したが、間違いなく城郭遺構であった。
この横堀は西側斜面をとおり、下の城背後の堀切までつながる。
神社から高度で20mほど上が下の城の主郭部(1)である。
主郭の南側は6mの切岸になっており下に土塁を持つ曲輪がある。この曲輪は主郭の西側を回って、主郭に合流しているのでこれが本来の登城路であったと思われる。
その下にも曲輪3があり、堀切がある。主郭(1)は長さ40m、幅30mほどであり、西側以外を土塁が覆う。北端と南端の土塁は高く櫓台と思われる。
主郭の北、上の城に続く尾根筋に4本の大きな堀切がある。
特に主郭北の堀切(2)は主郭側からの深さが7mほどある。
他は4mほどの深さである。この堀切群の北の尾根筋には上の城までの間に、堀切が2本(余り明確ではない。)と段差が見られる程度である。
上の城は下の城側に3つほどの小曲輪があるのみでいきなり本郭(5)となる。

南北60m、東西25mの平坦地である。東下に3段の曲輪があり、1番下の曲輪(6)は50mほどの広さがあり、前面には堀がある。
一方、本郭の裏側(北側)5mに土塁を持つ曲輪(7)があり、本郭の東側までを覆う。本郭側には堀があったようである。
さらにこの曲輪の北下8mに横堀(8)がある。その北側は下り斜面になり、特に城郭遺構はない。

下南摩は皆川領であり、家臣の高木讃岐がいたが、皆川氏と不和になり、永正7年(1510)皆川氏と敵対していた佐野氏の家臣赤見内蔵介広孝を招いた。
この赤見氏が後南摩氏を名乗り、勝願寺の地に居館をおき、滝尾山に築城を開始、天正4年(1576)3代目秀村の代に城が完成する。
その後、南摩氏は壬生氏に従ったという。壬生氏はここに家臣の一色右衛門を置く。
このため、宇都宮氏やそれを支援する佐竹氏の攻撃を受ける。
天正18年(1590)壬生氏が小田原の役で滅亡し、城は廃城になった。

南から見た上の城がある滝尾山。 南摩招魂社がある場所がすでに城域である。 4の部分から北を見ると横堀(土塁を持つ帯
曲輪?)が北に延びている。
下の城、曲輪3。前面に土塁を持つ。
下の城主郭1の土塁。ハイキングコースの道になっ
ている。「むなつき坂」が笑う。それほどきつく
はないのだが。
下の城の主郭1の背後には大きな堀切2がある。 堀切の西側は曲輪状になり、主郭1の西側を
覆う帯曲輪になる。
上の城の本郭5。南側が若干高い。
上の城の本郭5北下の曲輪7。本郭側に堀が
あったようである。
曲輪7は本郭の東側を覆い、本郭に通じる虎口がある。 上の城の横堀8。先は竪堀になる。 曲輪7北側の切岸には石垣があったようである。