唐沢山城(栃木県佐野市)

将門の乱の鎮圧に功のあった藤原秀郷が築いたと言われるので、築城は西暦940年ころまで遡ることになる。
現在、本丸に建つ唐沢山神社は彼を祀っている。
当然、築城当時は山の要害性に着目した緊急時の避難用の砦程度のものであったと思われる。
藤原秀郷は将門の乱鎮圧の功で従四位下下野守に任ぜられ、後に下野鎮守府も歴任し五代頼行までこの職が受け継がれる。

しかし、その後は源氏に移り、六代兼行は足利に移り姓を変え、藤原姓足利氏となる。
足利に両崖山城を築いた兼行はこの城に移り、一時、唐沢山城は廃城となる。
この藤原姓足利氏は、源氏姓足利氏に滅ぼされる。

藤原俊綱(藤原姓足利氏9代)の弟戸矢子有綱は、藤原姓足利氏滅亡の一年間の治承4年(1180)、唐沢山城を再興し、「佐野氏」を称する。
彼が唐沢山城とともに語られる佐野氏の初代である。
と言うことは佐竹氏の有力家臣で常陸太田城の初代築城者であり、石神城や額田城といった茨城北部を代表する大城郭の城主であった小野崎氏や水戸城の城主であった江戸氏とは先祖が同じ一族ということになる。

しかし、佐野氏も他の関東地方の豪族と同様、それほどの勢力を持つまでは至らず、精々数万石程度の実力ではあった。
このため、戦国時代になると北条、上杉、佐竹といった巨大大名の勢力争いに翻弄され、これらの者の間でころころ帰属を変えることになる。
これは一族の生き残りのためであり、付近の結城氏、皆川氏、壬生氏も皆同様である。
このような中で唐沢山城はいくつかの戦闘の舞台となり、戦国史を飾る。 

 その代表的エピソードとしては。永禄4年(1561)年二月、佐野昌綱は上杉謙信の関東出陣に際し上杉方に着くが、北条氏政35000の兵に包囲される。
 謙信は上野平井城から救援に向かい、重囲の中甲冑すらつけずにわずか40数騎の供を引き連れて敵中を突破して入城し危機を救い、北条方の兵は「これぞ毘沙門の化身なるべし」と恐れ、氏政は兵を退いた。
 その後、佐野昌綱の末子虎松丸が上杉家に養子に出るなど、両家の間柄は親密であった。

 しかし、佐野昌綱は以後、北条方に付いたり、上杉方に付いたりを繰り返し、両者から、その都度攻められては降伏を繰り返している。

 佐野宗綱(28代)の時には、北条氏の圧力で上杉家と袂を分かち、天正4年(1576)上杉の15000の大軍に攻められ、本丸間近まで攻め込まれるが、策略でかろうじて撃退し、上杉謙信を撃退した城として名声を挙げる。

 その後、上杉氏に帰属するが、翌年天正5年(1577)今度は北条氏政が20000の大軍で攻めるが、これも良く守り撃退した。

 このように二大勢力の狭間で佐野氏は揺れ動き、その都度、攻撃を受けているが、降伏して和議を結ぶことはあっても、唐沢山城自体が落城することはなかった。
 

しかし、佐野宗綱は天正11年(1583)正月1日、勢力争いをしていた長尾顕長を討つために宗綱は家臣の反対を押し切り出陣するが、須花坂の戦いで破れ、宗綱自身も敵弾を顔面に受けて討ち死にしてしまう。
上杉家へ養子に行っていた弟虎松丸も戦死し、宗綱には嫡子がいなかったため、跡目相続を巡って騒動が起きる。

養子を迎えることになったが、佐竹から迎えるか北条から迎えるか二派に分かれて対立し、同年2月北条氏直(5代)は、兵を藤岡城まで進め佐野氏に圧力をかける。
当時、京にいた宗綱の弟天徳寺了伯は、佐竹派で動いていた。

結局、北条方は和議の条件として、北条氏政の弟氏忠(氏康五男)を佐野家へ送り込み、佐野氏忠と改名し、佐野氏を完全に乗っ取ってしまう。
このことにより、小田原の役では、佐野氏は北条方に付くことになる。当時、豊臣秀吉に仕えていた天徳寺了伯(佐野房綱・宗綱弟)は、実家の佐野氏を案じ秀吉に事情を話し、本人自ら赴き、唐沢山城内の北条勢の追い出しに成功する。

これにより、佐野氏の断絶は免れ、39000石が安堵された。
文禄2年(1593)、秀吉家臣、富田知信の二男信種を養子とし迎え、秀吉の一字を賜り佐野信吉と改名し佐野氏が継続する。

関が原の戦いでは佐野氏は徳川方に付き、結城秀康に従い宇都宮城で上杉氏に備える。これにより徳川大名としての道が開ける。
慶長7年(1602)年、佐野信吉は佐野城築城を開始、慶長12(1607)年に居城を移し唐沢山城は廃城となった。
これについては、この年の江戸大火の際、信吉は江戸城に早馬で見舞いを出したところ、「江戸を俯瞰するとは怪しからん」と廃城を命じられた、とか、「幕府の山城禁止令に違反したのを咎められ」廃城となったといわれている。

確かにこの城からは、相当な眺望が得られ、大火は見れたかもしれないが、この話は何の根拠もない。
実際は高い山の上の城は防御城有利であるが、戦闘がなくなった時代には領地支配の場所としては不便であったことが事実と思われる。
唐沢山城には破城された形跡が全くないこともそれを裏付ける。
佐野氏は慶長19年(1614)改易されるが、当主佐野信吉は秀吉の家臣、富田知信の子、信種が養子として佐野家を継いだ人物であったため、家康の一連の豊臣大名つぶしの一貫であったと思われる。なお、佐野氏は旗本として復活し、明治維新まで継続した。

城は関東屈指の山城であり、名将上杉謙信や北条氏政・氏直さえ撃退した輝かしい戦歴を誇る。
このため、関東の七名城の一つに数えられてた。

佐野市北部、標高245mの唐沢山の山頂を中心に、尾根沿いや山腹に曲輪・堀・土塁等を配置、範囲は東西約700m、南北約250m程度に及ぶが、周囲の尾根等にもまだ多くの遺構が残されているものと思われる。
遺構はほぼ完存状態で残っている。

右の写真は南の山ろくから見た城址である。

しかも本丸周辺には関東では珍しい石垣がある。周囲の尾根にも多くの曲輪と堀切などが残る。
城は巨大な四つ目堀を境に本丸のある山と出丸である避来矢山の2つの山が中心となる。
鳥瞰図は現地調査等の結果を基に描いたものである。

現在の駐車場となっている平坦地がかつての蔵屋敷の跡、ここと天狗岩の下の間に大手門があった。
駐車場と天狗岩との間の平坦地から本丸に向かう道には石垣が積まれた桝形がある。
その先に大炊の井があり、その南側に天徳丸(西城)がある。ここは家臣の屋敷跡として使われていたという。

@物見台として使われたという天狗岩 A今も現役である大炊の井 B北西の出丸、避来矢山

天狗岩は物見台として使われていたと言われる。
眺望は抜群であり佐野市内を始め空気が澄んでいれば富士山を始め東京まで視野に納めることができる。
夜景の名所であり、慶長12(1607)年に佐野信吉が江戸大火を見たのもここかもしれない。

その先に神橋があり、巨大な竪堀、四つ目堀がある。神橋は当時は曳橋であったと言う。
現在の四つ目堀はそれほど深くはないが、当時はかなりの深さがあったという。
その先に谷側に土塁を持つ帯曲輪があり、南斜面に二つの竪堀(本丸側が三つ目堀)がある。この帯曲輪から三の丸に上がれる。

C避来矢山(左)と主郭部を隔てる四つ目堀 D二つ目堀、かなり規模が大きい竪堀である。 E本丸南側の高石垣

三の丸は平坦地であり石垣、土塁はない。
賓客の応接を行った御殿があったという。神橋から本丸に進む道は桜の馬場跡であり、山の斜面にいくつかの曲輪が見られる。
さらに進むと社務所がある南城となる。南城と本丸の間には二つ目堀があったが埋められている。
この辺から石垣が現れる。南城を東に下りると車井戸があり、そこから登ると金の丸に到達する。
社務所前の階段(御局口)を上ると引局という本丸の腰曲輪跡に出、さらにこの上が本丸跡となる。
この周囲は全て石垣で石塁が積まれている。

F本丸に建つ藤原秀郷を祀る唐沢山神社 G 本丸東下にある井戸 H二の丸北の石垣虎口

本丸は藤原秀郷を祀る唐沢山神社となっている。本丸西側には舛形(追手中門)があり、その下に二の丸が配置される。
さらに二の丸の下に三の丸が配置されている。二の丸は重臣の詰跡で、周囲は石垣で塁が築かれている。
本丸北側には周囲を土塁で囲った武者詰跡があり、本丸の北側から東側を半周している。
その先は、重臣弓削長門守の屋敷のあった長門丸、当時金蔵のあったと言われる金の丸を通り、北城に至る。

二の丸の南には事務を行う政庁と言うべき表御殿があった。
三の丸下の帯曲輪から四つ目堀を挟んで西側には避来矢山がある。
山頂の平坦地は出丸となっている。その西から南の斜面に帯曲輪が3段にわたり存在する。
ここは組屋敷や兵糧倉として使われていた。この避来矢山の名は秀郷の大ムカデ退治したとき、竜王から頂いた鎧の名から付けたという。
この時、秀郷が着けたという甲冑は代々佐野家に伝わり、現在も甲冑の一部が国指定重要文化財となっている。
天正4年(1576)上杉謙信による攻撃では避来矢山の出丸は陥落し、四つ目堀まで迫られたと言われる。

I本丸東下の武者詰の土塁 J 主郭部西端の帯曲輪、左下が四つ目堀 K 金の丸(左)と杉郭間の堀切

北東の尾根、北城付近は曲輪跡や、堀切が残こり、御姫御殿(杉曲輪)と呼ばれた場所は「県立唐沢山自然の家」となっている。
城域はこれだけの範囲ではなく、大手門の北側の尾根に土櫓と呼ばれる曲輪があり、曲輪は尾根伝いに続いている。
さらに西には鏡岩があり、ここも出城の役目があったと思われる。