山中城(静岡県三島市)

箱根峠から国道1号線を三島方面に下って行くと山中城がある。
小田原の役の緒戦で豊臣軍に落とされ、そのため、あっという間に箱根を突破され、一気に本城の小田原城包囲にまで持ち込まれるきっかけを作った城である。
北条氏の滝山城、鉢形城などの地域支配拠点的な性格の城ではなく、ここは純軍事的な戦闘用城郭である。
廃城後は農地になっていたというが、復元整備が進み、戦国末期の城郭の姿を見ることができる城址公園として整備されている。

城は三島市東方、箱根山の西山麓、標高580mにあり、駿河湾、伊豆方面が眺望でき、富士山もばっちり見える。
元々は北条氏が西方の駿河方面防御用の「境目の城」として築かれたと言われ、永禄12年(1569)7月2日付の「信玄書状写」に武田軍の山中城、韮山城攻撃の記事があることから、駿河・甲斐・相模の三国同盟が崩壊し、軍事的緊張が高まった永禄10年頃、小田原城の西方防御の拠点をなす境目の城として、築かれたものと思われる。
したがって、当初の想定する敵は今川領の駿河を狙う武田氏であったことになる。
また、位置的に伊豆の拠点、韮山城の側面支援用でもあり、甲斐・駿河侵攻の兵站基地としての意図も含まれていたものと思われる。
東海道を城内に取り込んでいることから、関所城でもあり、「街道を扼する城」でもある。

武田氏が滅亡し、甲斐・駿河が徳川氏のものとなり、北条氏と親戚関係を結び、この方面の緊張が一時的に緩和されると、山中城の戦略的意義は低下する。
豊臣秀吉との関係が悪化し、戦闘状態突入が避けられない状況になると、北条氏は天正15年(1587)頃から、伊豆、相模地域に「北条家人足催促朱印状」を出し、農民を集め山中城の拡張工事を開始する。
この改修で増築されたのが、西の丸、西櫓、三の丸及びその周辺であったと思われる。
また、岱崎出丸は元は出城であり、東海道を挟むように本城と対して存在していたようであるが、本城と岱崎砦がつながる形となったようである。
当然ながら、曲輪周囲の堀も深くされ、障子堀が大々的に構築されたものと思われる。

拡張工事は小田原の役が始まる時点でも継続されていたようである。
ついに天正18年3月29日、4万の豊臣軍の攻撃が開始される。
岱崎出丸を中村一氏、一柳直末、山内一豊、田中吉政、堀尾吉晴等の豊臣譜代大名の軍勢が攻め、西櫓を徳川軍が攻める。
これに対して北条軍は、北条氏勝を主将に城主、松田康長以下4000の軍勢が立て籠もり、猛烈な銃撃戦を展開し一柳直末を討ち取るなど奮戦するが、圧倒的な兵力差はどうにもならなく、岱崎出丸、西の丸に侵入を許した後、三の丸等を奪われ、本丸周辺に追い詰められる。
ここで松田康長は北条氏勝を脱出させる。
これにより北条軍は戦意を喪失、わずか半日で壊滅し、落城する。
その後、廃城となり、城址は耕作地になっていたという。

城は箱根山外輪山から西方に延びる侵食の進んだ尾根を利用して築城され、城の周囲、特に南北は急崖である。
東西の尾根続きは堀で分断している。城域は広く、東西1.7km、南北2.6km、面積は約20万uというが、どこまで城域かよく分からない。

城の形状は分岐した尾根形状に沿ってU字形、またはL字形をしており、尾根最高箇所に本丸を置き、堀を介して北の尾根上に北の丸、さらに堀を介してラオシバを置く。
このラオシバは未整備状態であり、修築途中で戦闘が始まった証拠ともいえる。
本丸の西方の尾根上には、北条丸(ここを二の丸ということもある。)、元西櫓、西の丸、西櫓、西木戸と曲輪が直線的に展開する。
また、本丸の南西尾根上に、段階状に二の丸があり、さらに三の丸、南櫓、岱崎出丸と展開する。

現在、城のド真ん中を国道1号線が貫通する。この付近の標高は540mである。
ちょうど岱崎出城と南櫓の間を国道が分断している。
この付近が大手口に当たる。そして、そこに駐車場がある。
三の丸と二の丸は民家や寺となって遺構は少ない。
駐車場の西側に三の丸に沿って二重の堀@がある。ここは当時は水堀であったらしい。
その西側の尾根には「厩曲輪」があるが、本来は尾根にわたり曲輪を展開する予定ではなかったかと思われる。
堀@の途中に土橋があり、その北に田尻池Aがある。

ここから北側に虎口があり溝状の登る道Bがあり、30mほど登ると北条丸Cである。
内部は平坦ではなく緩斜面である。北側は土塁となっており、西側には堀があり、元西櫓という馬出に通じる木橋がある。
ここから東に堀Dを介して本丸Eである。この付近の標高は580m。本丸は階段状になっており、一番下が二の丸である。
本丸の北側に高さ4mほどの土塁があり、天守台と言われる土壇がある。大きな井楼櫓か、逆井城に復元されているような櫓が建っていたものと思われる。
その北側の壮大な堀Fがある。幅は15m、深さ7m程度の巨大なものである。
この堀が本丸の東側、北側、北条丸の北側を覆う。さらに本丸の北に堀を介して北の丸がある。
この北の丸の周囲にも堀が回っている。西に向かうと西の丸と西櫓がある。
徳川軍と北条軍が激戦を展開した場所である。この付近の最大の売り物は障子堀GHである。

山中城の最も特色ある遺構がこの障子堀である。
空堀の底に畝を残し敵兵の行動を阻害するものという。
堀の中に高さ1.8m前後の土手状の畝を障壁として掘り残し、畝で数m四方の枡が作られている。法面の傾斜は55度程度と鋭く、堀底へ転落したら脱出は不可能である。
まさに目の前にこの復元された堀を見ると芸術品に近い。
しかし、疑問は堀の畝部分、これは土橋にもなるのではないか?大軍勢が人海戦術で一気に渡れば、塁に取り付かれてしまう可能性が大きい。
こんなもの造るなら深い薬研堀を掘り、逆茂木を並べた方が余程効果はあると思うのだが?
果たして実際の戦闘で効果はあったのか、記録はない。
駐車場から国道を横断し、その南が岱崎出丸であるが、ここは細長い。350mほどある。標高は550mで尾根を平坦化して造成している。
岱崎出丸はほぼ中央部を言う。そこが元々、出城だった場所である。
その北側を御馬場曲輪Jと言っているが、北側は緩い斜面Iで未整備状態で未完成状態である。
おそらく整備途中で攻撃を受けたのであろう。岱崎出丸の西側斜面に障子堀の横堀が掘られる。
その西下に旧東海道Kが通る。この東海道、三の丸、二の丸内を通り、箱根峠方面に登っていく。まさに関所である。
@南櫓(左)西の堀、ここは水堀だったという。 A水場である田尻池。
池の先が二の丸と三の丸(右)間の堀。
B北条丸への登り道
C北条丸内部。内部は傾斜している。 D二の丸(右)と本丸間の堀 E本丸内部は階段状になっている。
F本丸と北の丸間の堀 G西の丸(左)北の障子堀 H西櫓(右)南の障子堀

この城、いったいどれくらいの工事量であったのか?おそらく膨大な工事量であったものと推定する。
しかし、わずか半日の防衛効果しかなかったわけであり、どう見てもペイしない。
北条氏の想定は、数千程度の敵が攻撃してくるという程度ではなかったかと思われる。
しかし、実際は豊臣軍は想定以上の軍勢で、おそらく火力も想定以上であったのであろう。
そのような軍勢があらゆる方面から強力な支援火力の下、人海戦術で攻撃してきたら持ちこたえるものではなかったであろう。
ただし、強襲したため豊臣軍の損害も多かったらしい。
そのため、以後の戦闘は八王子城の攻撃を除いては、豊臣軍は小田原城、韮山城、下田城、鉢形城等、包囲するだけの戦術に変更し、損害を極力減らす戦術に転換している。

I岱崎出丸内部は未整備状態の場所がある。 J御馬場曲輪の土塁。 K岱崎出丸西下を通る旧東海道