田中城(藤枝市田中)
JR東海道線西焼津駅の北西1.5qにある西益津小学校付近一帯が城址である。
本丸を中心に、同心円状に3重に堀と土塁を巡らす珍しい構造を持つ、輪郭式城郭の教科書のような城として有名である。
航空写真を見るとその特徴がはっきりわかる。
まるで形は西欧の城郭都市ととそっくりである。

二の丸及び三の丸の虎口外側に武田流城郭の特徴という丸馬出しが6箇所設けられているのも特筆される。
城は平野部の微高地に造られた典型的な平城であり、想像したより規模は小さかった。
武田氏時代以降の城域であったという三の丸の部分までを含めても、直径300m程度に過ぎない。
ところがこんな小さな城にも係らず、この城は徳川氏の攻撃を何度も撃退したという輝かしい実績を有する歴戦の城として「堅城」と評価される。


でも、現在の姿を見る限り、こんな城で本当に戦えたか疑問が残るほどである。
しかし、当時は城の周囲は一面の湿地帯であり、山城以上の要害性があり、さらに、城がコンパクトで円形であり、丸馬出を多用していたという。
このことから、死角がなく、反撃と防御が合理的にできる設計になっていたことも「堅城」と言われる大きな要因であったのではないかと思われる。
徳川氏の攻撃を受けた時は、最前線の城であり、武田氏の武将として評価が高い依田信蕃の部隊が詰めていた。
その優秀な指揮官と部隊がこの城を運用すれば、なかなか手ごわかったであろう。
天文6年(1537)、今川氏の家臣が居館として築いたのがベースと言われ、始めは方形の小さな居館であったという。
現在の西益津小学校となっている地にあった本丸が方形であったことが、その名残という。
この本丸部分、曲輪内部は45m四方程度に過ぎない小さなものである。

永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で戦死し、氏真が継ぎ今川氏が弱体化すると、駿河は武田信玄の侵略に晒され、ついに永禄13年(1570)、城は武田氏に制圧され、山県昌景が入る。
その後、この城が遠江侵攻の東の拠点となり、この城を基点に諏訪原城、小山城、そして高天神城と武田氏の勢いは西に向かう。
このころ、方形の本丸の周囲に円形に外郭が二重に設けられ、丸馬出が構築され、この城の今に残る特徴が出来あがる。

元亀3年(1572)、城主は板垣信安に代わる。
しかし、長篠合戦の敗戦以降、徳川氏の攻勢が強まり、武田氏は守勢にまわる。
諏訪原城放棄、高天神城陥落後はこの田中城が最前線となり、何度も徳川氏の攻撃を受けるが撃退する堅城振りを示す。
この時の城主が依田信蕃である。

しかし、天正10年(158年)武田氏が内部崩壊、駿河探題を務めた穴山梅雪も徳川に内通し、駿河に徳川軍が侵攻、武田氏は滅亡。
この時、田中城の依田信蕃は孤立状態となり、ついに徳川軍に降伏開城し、田中城も戦わずに徳川氏の手に落ちる。

なお、この依田信蕃に徳川家康が惚れ込み、家臣に加える。
依田信蕃は後に故郷の信濃に帰り、徳川氏の信濃平定戦に活躍するが、佐久岩尾城での戦いで戦死してしまう。

家康は依田信蕃の子、康国に自分の旧姓「松平」姓を名乗らせる。
あの家康がこれほどまでに評価したことから、城代依田信蕃の能力が伺える。

やはり依田信蕃という優れた運用者があってこそ、この田中城は実績を上げ「堅城」という評価を得たのであろう。
関が原後、慶長6年(1601)、酒井忠利が入城し、城域を拡張、総郭を設けた。

その後、城主は松平氏、水野氏、北条氏と代わり、享保15年(1730)、本多正矩が四万石で入城後は、本多氏が代々城主を務め、明治維新を迎える。

これで、廃城と思うがそうではなく、明治元年(1868)、本多正納が安房長尾に移封され、駿河は徳川将軍家の領地とされ、高橋泥舟が城代となる。
それもつかの間、廃藩置県が行われ廃城となった。
その後、城は民家の敷地や農地等となり、土塁は崩され堀は埋められ、西益津小学校、中学校の敷地となり、さらに周囲は宅地化され、一部に遺構を残すのみである。
しかし、道路はかつての堀の跡に付けられたため、本丸を中心に同心円状に回り、周囲に残る水田も同心円形に弧を描いており、この城の特異な構造を現在に伝える。

@大手一の門跡西側に残る土塁 A大手一の門跡東側に残る土塁 B三の丸西に残る水堀と土塁 C三の丸西側の外郭に残る石垣
D二の丸北側の水堀 E本丸は西益津小学校 F外郭西側の堀跡 G改修された六間川

現在の遺構は、本丸及び二の丸跡には西益津小学校Eが、三の丸には西益津中学校が建てられ、遺構のほとんどは失われ、標識のみが各所に建てられている状態である。
それでも、二の丸北側の水堀の一部D、三の丸西側の土塁と水堀B、そして石垣の一部C、三の丸北の大手一之門両側に土塁@、Aが残存する。
なお、不浄門が旭傳院山門として、長楽寺に村郷蔵が、それぞれ移築され現存するそうである。

先にも述べたように二の丸といっても非常に小さいものであり、本丸をくるんで、直径180mほどに過ぎない。
三の丸も直径300m程度である。丸馬出といっても、小さなものであり、大砲の周囲に土嚢を積んだ砲陣地のような感じであったようで、武田・徳川の攻防戦では銃座として使われたのではないかと思われる。
三の丸の輪郭は水田と道路となって残るF。また、外堀と水運路を兼ねた六間川は改修されて、かつての面影はないG。
江戸時代も大名の城として使われているが、城の周囲は湿地であったため、城の周りに城下町は形成されなく、離れた場所に田中藩の城下町が形成されたという。
(航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。丸番号は鳥瞰図中の写真撮影場所を示す。)

諏訪原城(島田市菊川)
今川氏を駆逐し、駿河を手中にした武田氏が遠江侵攻の橋頭堡として築いた城。
諏訪原城の名は武田氏が城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされ、神社は今も馬出Uに建つ。

武田氏衰退時、城は徳川氏に奪われ「牧野城」とか「牧野原城」と呼ばれたというが、現在ではこの名は全く使われていない。
城址の曲輪内はお茶畑などに使われていたようであるが、堀はほとんど埋められていない。
ほぼ、完璧に堀・曲輪・馬出などの遺構が残る貴重な完存の中世城郭であり、戦国時代の武田氏の築城様式の教科書と言われる。
当然、国の史跡に指定されている。

城は遠江国の東端、牧之原台地が大井川の低地に望む台地縁部にある。
城のある場所の標高は220m、東下の金谷の町の標高が70mというので比高は150mもある。
これでは完全な山城である。解説板にも山城と書いてある。たしかに比高や眺望からすれば立派な山城である。

しかし、城址は侵食で周囲が切り刻まれ、崖になっている侵食残しの丘陵上の広い平地にあり、曲輪は広く、平城という感じである。
形式も丘城や崖端城に多い梯郭式である。
城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川を越えると駿河国。
西は侵食で複雑な地形であるが、その先には掛川の盆地地帯。南に牧之原台地を下ると、菊川下流域の平野部に出る。城の下を東海道線牧の原トンネルが通る。

諏訪原城には、多少、徳川氏の手は入ってはいるが、武田氏の城の完成された姿が見られ、非常に合理的に造られている。
主要部の広さは直径350mくらいである。

台地縁部を利用し、攻撃を受ける側を限定する構造は一般的であるが、最大の特徴は、丸馬出及び三日月堀が3箇所存在することである。
この形、田中城を4分割して、その1つを拡大したような形である。

しかもこの馬出、規模も巨大である。前面の3号堀、12号堀などの三日月堀@、Jの堀幅は20m以上、深さは現在でも7mほどもある。
おそらく当時は10m以上の深さはあったであろう。馬出TとUは40mの半円位の広さである。

三日月堀に面して土塁はない。柵列だけであったようである。
なお、馬出の外に外側に延びる浅い11号堀Kがある。この堀は攻め側の横方向の移動を阻止するものという。
馬出と内側の曲輪の間には2号堀、4号堀、9号堀があるが、土橋Aで結ばれている。
この土橋もかつては農道として使っていたとは言うが、感心するほど良く残っている。

馬出Tから入ると二郭B、馬出Uから入ると三郭であり、いずれも外側の堀に対して高さ2.5mほどの土塁がある。

二郭と三郭は本来は同一の曲輪であり、真ん中を1本の土塁Cで仕切っただけである。
かつては茶畑であったが、今は耕作は行われていない。曲輪の幅は50〜60m程度。
その内側が本郭であるが、二郭からは幅20mほどの5号堀、8号堀にかけられた土橋Dを介して入るが、三郭からは一度、堀底におり、上がるようになっている。
堀底が水場であり「カンカン井戸」Hがあり、今も水がある。
本郭Eは直径100m程度の広さがあり、幅広で低い土塁が覆い、郭内部が窪んだ形になっている。
東側に腰曲輪があり、虎口には石垣Fがある。

その東側、北側は急斜面であり、20m下に14号堀、15号堀Gが豪快に巡り、ため息が出る光景である。
さらにその外側に10号堀がある。
なお、上の鳥瞰図中の青字番号は現地解説板の堀番号。赤丸の数字は写真の撮影位置を示す。

@ 三日月堀の3号堀に面する馬出T A馬出Tと二郭間の4号堀 B 馬出Tから二郭に入る土橋 C 二郭内部。土塁の向こうが三郭
D二郭から本郭に入る土橋 E 本郭内部、周囲に幅広の土塁がある。 F 本郭東の腰曲輪虎口の石垣 G本郭腰曲輪から20m下の16号堀
H 本郭と三郭間にあるカンカン井戸  I三郭(左)と馬出U間の9号堀 J馬出Uに建つ諏訪社と12号堀 K馬出U外から外郭に延びる11号堀

永禄12年(1569)、今川氏は北の武田氏と西の徳川氏に挟撃され滅亡。
駿河は武田氏に、遠江は徳川氏が支配する。それもつかの間、境を接した両氏は争うようになる。
というより武田信玄の次のターゲットが徳川氏なので、武田氏の遠江侵攻は規定の行動である。
その始めとして、元亀2年(1571)に武田信玄が徳川氏の遠江東部の拠点、高天神城を攻撃する。翌年、元亀3年(1572)二俣城を攻略し、浜松城から出撃した徳川軍を三方ヶ原で撃破する。
元亀4年4月に信玄は病死し、勝頼が跡を継ぐ。
勝頼も遠江侵攻を踏襲する。
その一環として、遠江に強力な侵略の橋頭堡を造るために築城されたのがこの諏訪原城と少し南の小山城である。

築城は天正元年(1573)ころと言われ、馬場信春を中心にと武田信豊が補佐して行われたという。
なお、築城時期についてはもっと古いという説もある。
この城を足がかりに勝頼は遠江への攻勢を強め、ついに天正2年(1574)徳川氏の遠江東部の拠点、高天神城を落す。
しかし、それもつかの間、天正3年(1575)5月、長篠の戦いで大敗、武田氏は今度は守勢にまわる。
徳川家康の反攻でこの諏訪原城が攻撃を受ける。2か月余りの攻防戦で、城将今福浄閑斎も戦死。残った城主室賀氏と残兵は開城撤退を徳川氏に通告。
これを受けた徳川軍は包囲を解き、残った城兵は夜間、田中城に撤退、城は徳川氏のものとなる。
(なお、この室賀氏、村上一族であり、長野県上田市の笹洞城出身の武田氏の信州先方衆の1名である。室賀氏は旗本として明治まで続いており、この後、徳川氏の家臣になったようである。城の攻防戦は城の奪い合いでもあるが、人材の奪い合いでもあったのだろう。)

この城の失落により、高天神城への補給は苦しくなり、そしてついに家康は天正9年(1581)3月高天神城を奪回する。
次に徳川氏は駿河侵攻を目指すが田中城で阻止され、駿河を完全に掌握したのは織田信長の武田氏攻撃で武田氏が滅亡した天正10年(1582)のことである。
その後、ターゲットとしていた武田氏滅亡で城の存在意義が薄れ、天正18年(1590)廃城になったという。
なお、武田氏から奪取した後、徳川氏は牧野康成などを城番に置き、家臣を交替で駐屯させたという。
また、武田氏時代の縄張りを踏襲したが、堀や丸馬出しを更に増強したという。

高天神城(掛川市上土方)
室町時代、明応から文亀年間に、今川氏が遠江を支配する斯波氏に対して築城したといわれる。
一時、今川氏の武将として甲斐に攻め込むなど活躍した福島正成もここの城主を務めている。
福島氏は後に今川氏内の後継者争いの内紛(玄広恵探側と軍師太原崇孚雪斎を擁する梅岳承芳(のちの今川義元)間の「花倉の乱」で玄広恵探側に付いたため)で失脚し、勝利した今川義元は高天神城に小笠原長忠親子を置く。今川義元が戦死し、氏真が継ぐと今川領は武田、徳川の侵略に晒され、高天神城は徳川家康に占領され、城主小笠原長忠はそのまま城主として置かれる。

今川氏が滅亡すると、今度は武田、徳川が境を接することとなり、両者が衝突する。元亀2年(1571)、武田信玄が遠江に侵攻し高天神城を威力偵察するが、本格的な攻撃はせず撤退する。
そのため、武田信玄を撃退した城との栄誉を勝ち取る。
信玄が天正元年(1573)に没すると、跡を継いだ武田勝頼が遠江侵攻を開始、天正2年(1574)大軍で高天神城を包囲する。

小笠原長忠は匂坂牛之助を浜松城に派遣し、家康に援軍を要請する。家康はさらに織田信長に援軍を求めるが、援軍を出されず、1ヶ月の篭城戦後、小笠原長忠は穴山信君の講和に応じて降伏し、開城。武将の大須賀康高らは浜松に退去する。

しかし、翌年、天正3年(1575)年5月、長篠の合戦で武田軍は徳川・織田連合軍に大敗。攻守の立場が逆転する。
家康は高天神城の奪還作戦を開始し、天正6年(1578)横須賀城を築城。
ここを本拠に高天神城の周囲に三井山、山王山、宗兵衛山など6つの砦を付城として築き、高天神城への補給路を絶つ。
天正8年(1580)年、城主岡部真幸は武田勝頼に救援を求める使者を派遣する。
これとは別に軍監の横田尹松は勝頼に高天神城を見捨てるよう書を送る。
この不可解な行為は論議を呼ぶが、このころ、武田氏の所有する金山が渇固状態に陥り、武田氏が経済破綻寸前に追い込まれ、大規模な軍事行動ができない状態であったという。
へたに救援が失敗すれば、武田氏自体が内部崩壊してしまうことを恐れての横田の提言であったという。
この意を汲んだ勝頼も高天神城を見捨てる辛い決断をせざるを得なかったという。


そして、食料の尽きた岡部真幸以下、城兵は天正9年(1581)3月、早暁に城門を開け、城を討って出るが、徳川軍は1万ほど。
多勢に無勢、城兵700余人とともに真幸も戦死し城は落城する。
横田尹松は「犬戻り猿戻り」といわれる北西に延びる峻険な尾根道を夜間通って脱出に成功、甲斐に帰国している。
この落城の時、天正2年の落城時に捕虜となっていた徳川家臣大河内源三郎正局が7年ぶりに石牢から救出されている。

この落城後、高天神城は廃城となり、横須賀城が東方の武田領、諏訪原城、田中城攻撃の基地になった。
・・・・ここで疑問!岡部真幸は今川の降将、武田のために玉砕する義理はないはず。人質を取られていたのか?
当時の合戦は城取りの陣地取り。相手が、城を明け渡せは、余計な殺生はしないのがルール。これをしないのは、織田信長と伊達政宗くらい。
徳川家康もこの方法で諏訪原城を入手している。何でそうしなかったのか?


城は東西2つの部分からなり、西から東の下小笠川の流れる平地に張り出す標高132m、比高100mの東側の山、東峰に本郭を置き、その西側、高天神神社のある標高128m山、西峰にも曲輪群が展開する。城域は直径350m位の範囲である。
東西の2つの部分間には細い鞍部がある。
ちょうど上から見ると蝶が羽を広げたような形であり、一城別郭形式という城である。
東峰の本郭部が築城当初からの部分であり、西峰部分は拡張された部分であるという。

その証拠として、西峰部分、堂の上曲輪西側には戦国末期の城に特徴的な横堀が見られる。
城の大手は本郭の南側から登る道であるが、北から登る搦手口、橘谷高天神神社参道入口に大きな駐車場があり、このルートが現在、城を訪れるメインルートである。
この神社参道入口部の曲輪には、いよいよ岡部真幸以下が出撃する前夜、家康の陣所に幸若舞の名手・与三太夫がいることを知った城兵が時田鶴千代を使者に、この世の名残にひとさし舞いを所望し、それを家康は了解、与三太夫を派遣し、源義経の最期を語る謡曲「高館」を舞う。
城兵は大篝火の前で演じられた舞を食い入るように見入り、別れに水杯を交わし、翌日、門を開け放ち、討って出たという壮絶なエピソードが残る。

@搦手口、出撃前夜、ここで城兵が与三太夫
の舞を見たという。
A 搦手道から見上げた二郭。
崖で、とれも登れるものではない。
B鞍部直下の搦手道脇の三日月井戸 C本郭 南側。
ここに模擬天守があったとか?
D本郭北側、土塁がある。 E 本郭東側の崖面、下に帯曲輪がある。 F本郭西下の的場曲輪 G本郭南下の三郭の周囲には土塁が回る。

この場所から東の本郭部、西の二郭部を見上げると高さ30m以上の崖になっており、とても登ることはできない。
参道はこの崖の間を削って登るように付けられる。
ここを登って行くと、本郭西下に2段に構築されている下側の曲輪がある。
この曲輪、細くなるが、本郭周囲を1周している。
でも、本郭周囲は急勾配であり、そこまで工事する必要はあまり感じられない。
参道は東西2つの主要部を繋ぐ鞍部に出るが、ここは城の東西を隔てる堀切であり、橋がかかっていたらしい。
ここを東に向かうと本郭である。本郭は南北100mくらいの広さで、内部は平坦ではなく、南北で異なる名称が付けられているが、1つの曲輪ととらえるべきであろう。
西側、北側には土塁が残る。東側は崖である。(その崖下に先に述べた帯曲輪がある。この帯曲輪、犬走りととらえた方が妥当かもしれない。)
本郭の南東下に三郭がある。ここは本郭以外の方向に高さ1mほどの土塁を持つ。さらに南東下に道が延びる。
これが大手道であり、途中にいくつかの曲輪、堀切がある。

鞍部に戻り、西側の鳥居を通ると井戸曲輪があり、井戸がある。
石段があり、15mほど登ると高天神神社社殿が建つ西郭である。ここは25m四方程度の広さである。
南に1段低く社務所があり、ここも曲輪である。さらにその先、南に尾根が延び、物見台がある。

H鞍部西側の高天神神社の鳥居 I神社本殿の建つ西郭から見た井戸曲輪 J西郭と馬場間の堀切 K馬場内部、ここから遠州灘が見える。
L馬場から西に延びる犬戻り猿戻り M西郭北下の二郭 N堂の尾曲輪北側の堀切 O 堂の尾曲輪西側の横堀

社殿の西側にまわると堀切を介して「馬場」がある。なお、この堀切の北側に銃座のような横堀がある。
馬場は60m×15mほどの細長い曲輪である。ここからは南に太平洋が見える。
その先、北西に堀切があり(現在は埋められている。)横田尹松が脱出したという「犬戻り猿戻り」といわれる峻険な尾根道が北西に延びる。

一方、井戸曲輪を北に行くと、西郭の北下に位置する二郭である。
東西3段になっており、60m×30mくらいの広さである。その北側に袖曲輪、堂尾曲輪、西下に丸尾兄弟の墓がある。
この北側に大きな堀切を介して長さ100mにわたり、堀切を中央に入れて曲輪が延び、その曲輪の西下に幅8mほどの横堀がある。
埋没が激しいが当時はかなり深かったと思われる。
(丸番号は鳥瞰図中の写真撮影場所を示す。)

横須賀城(掛川市横須賀)
遠州灘を望む比高25mほどの岡に築かれた城。
南を通る県道41号線沿いから見ると丸い河原石で石垣が造られており、案内板がなければただの公園かと思う。
ところが、これが復元整備されてはいるが、本物であり、大井川より運ばれた石で玉石垣を築いたものという。

城は徳川家康が天正2年(1574)武田勝頼に奪われた東5qにある高天神城に対抗するため、家臣の大須賀康高に命じて築いたという。
築城は天正6年(1578)ころと推定される。
天正3年(1575)、武田氏の攻勢は長篠の敗戦で頓挫しているため、この築城は武田氏の攻勢に対する防御と言うより、高天神城奪還の前線拠点としてである。
今、城の南側は海辺(干潟)であったが地震で隆起し、一面の水田地帯であり、海は2q南である。しかし、当時は直ぐ南は海であり、入り江があり、港があったという。
このことからこの城は船による物資補給基地でもあったと言える。
家康はこの城を基点に高天神城の周囲に付城を置き、ついに天正9年(1581)高天神城の奪還に成功する。
これとその先の諏訪原城、田中城の奪還、そして武田氏滅亡で横須賀城の使命は達成されたが、城は引き続き維持され、江戸時代も近世城郭として使われた。
城主も大須賀氏2代の後、渡瀬氏1代、有馬氏1代、再び大須賀家2代、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封後安定し、以後西尾氏7代をもって明治維新を迎える。

江戸時代には三層四階の天守があったという。
また、宝永年間の地震で隆起して、港が使えなくなったため、用水路を掘ったという。
明治維新で城の建物は解体され、不開門が城跡の北西にある撰要寺に、町番所が市役所大須賀支所北側に、袋井市の油山寺に旧御殿の一部が移築されている。

城は東西400m、南北150m(東側で250m)ほどあり、本丸部分とその周辺、西側平地の二の丸部分に大別される。
主要部は一段高い部分に本丸と西の丸を東西に並べる。
この部分は東西100m、南北70m位の規模である。この両曲輪の南側が玉石垣@、Aになっている。
本丸の北側Bに天守が建っていた。北側の切岸Dは土のままであるが、急勾配に加工され、とても登ることはできない。

この玉石垣であるが、江戸時代に城を拡張した時に築かれたというが、藩主の「見得」で築いたという。
ものもとこの地は石垣に使う石材は産出しなく、調達困難であったので大井川の河原石を使ったという。殿様、よほど石垣に拘ったのだろう。
そういえば、丸石垣は福島県の棚倉城にもあったので、例がない訳ではないが、珍しいものらしい。

@主郭部南の丸石垣 A @を本丸から見る。 B 本丸内部と東端の天守台
C 主郭部南東下の三日月堀 D北の丸から見た本丸の天守台 E松尾山の土塁
F松尾山を回る横堀 G二の丸は畑と空き地 H二の丸北の堀跡と切岸

本丸の南東したには三日月堀Cが水をたたえて残る。
本丸の東側が北の丸であるが、もともとは東側の松尾山と本丸部分は1つの岡であり、北の丸は岡を削平された部分であろう。
その南東側低地には水堀があり、三の丸があった。現在はただの空き地にすぎない。
北の丸に来て着目したのが、北東側にある松尾山である。

この横須賀城、主要部は公園化されているが、この松尾山だけは手付かずのままのようである。
そこで入ってみる。内部はほとんど整備された状態ではない。
先端部Eは本丸側以外の三方が低い土塁に覆われ、北東端部に櫓台が建っていた感じである。
そこから下を見ると、20mほど下に幅15mほどある巨大な空堀Fが山の周囲をぐるりと巡っている。
案内板によると、この松尾山が築城当初の本郭部であったという。

確かにこの部分が高天神城側であり、当時としては重要な場所であったと思われる。
遺構も中世的である。おそらく、江戸時代には、改変も受けていなく、使われてもいなかったのではないかと思われる。
一方、西側の二の丸部分Gは、東西200mほどの広さであるが、堀は失われ、曲輪内は公園の一部や畑などになっている。
ただし、北側の堀跡は一段低く、茶畑になっているが、曲輪の切岸Hなどの形状はそのまま残っている。
(丸番号は鳥瞰図中の写真撮影場所を示す。)