掛川城(静岡県掛川市)
掛川城というと復元天守がある城であるが、始めに造られた掛川城は、今の天守のある場所が主郭部ではない。
天守から北東300mの龍華院 大猷院霊屋のある丘「子角山」(ねずみやま)こそが、古掛川城の主郭部なのである。

その子角山は長さ200m、幅50m、比高20mほどであり、県指定有形文化財の龍華院 大猷院霊屋 附春日厨子が建つ平地が本郭であったらしい。
この部分は2段になっており、80m×40mほどの広さの曲輪と周囲に帯曲輪が認められる。

なお、この龍華院は、掛川城主で嗣子のなかった北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったという霊廟で、
明暦2年(1656)に建てられ、さらに文政5年(1822)に太田資始により再建された建物で、3間四方の方型造りの建物である。
でも、何でここに家光が出てくるのか理解に苦しむ。単なるゴマスリか?
そう言えば、掛川城主であった山内一豊は戦国一のゴマスリ男であるので、歴代城主がゴマスリをモットーにしていたのだろうか?

さて、脱線はともかく、この龍華院の北東側に弧を描くように土塁が覆っており、土塁から北東側を除くと、大きな堀切がある。
幅15m、深さは5mほどある。その堀切の北東側に長さ80mほどの曲輪があるが、そこは遊具がある公園になっている。
この丘の南側が第一小学校であるが、ここも若干地勢が高く、居館跡であろう。

この城は、室町時代中期、文明年間(1469-1487)今川義忠の重臣、朝比奈泰煕が築城したという。
東海道筋の街道を抑える城であるが、当初は信濃の小笠原氏の南下に対する備えを目的に築城したものという。
その当初の城がここであり、しばらくして現在の天守の建つ龍頭山に主郭部を移したという。永正9年か10年(1512、13)のころという。

その後、代々、今川氏重臣、朝比奈氏の居城となり、泰煕、泰能、泰朝と続く。
しかし、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で廃止したころから雲行きが怪しくなる。
後を継いだ今川氏真は「ぼんくら」であり、武田氏、徳川氏の侵略に晒される。

永禄11年(1568年)、氏真は武田信玄の侵略を受け、本拠地、駿府館を捨て、朝比奈泰朝の掛川城に逃亡する。
西から侵攻した徳川勢の攻撃を受けるが、落城はしなかった。
しかし、篭城も限界となり、泰朝は永禄12年1月23日(1569年2月8日)開城し、氏真を小田原北条氏の元に退去させる。
この時、徳川家康が掛川城攻めの本陣を置いた場所が、この子角山と言う。

つまり、掛川城こそが、戦国大名今川氏、滅亡の地なのである。
しかし、ここの城主、朝比奈泰朝は、忠義の臣である。
誰もが認めるダメ戦国大名、今川氏真を最後まで支える根性は大したものである。
普通なら首を敵方に届けて恭順というのが筋だろう。
そう言えば、今川氏真と言えば蹴鞠の名手だったそうな。戦国時代のJリーガーってとこか?
そうか、だから静岡はサッカーが盛んなのか?清水東に清水エスパルス、ジュビロ磐田、すべては今川氏真がルーツ・・・・な、訳ねえよな。

さて、話を元に戻してっと、その後、掛川城には家康の重臣、石川家成・康通親子が入り、武田氏との壮絶な攻防戦が掛川城のすぐ南にある高天神城などで展開されるが、
掛川城は最後まで徳川氏が守り抜いた。
掛川城は、石川氏がその後も城代を務める。
天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、掛川城には山内一豊が5万1千石が入り、城を大改修する。
この時、今残る近世掛川城が造られた。

天守から見た古城の主郭部がある子角山 古城本郭跡に建つ龍華院  古城本郭の北東側にある土塁
古城本郭の土塁の東にある堀切 堀切の東にある曲輪跡
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、掛川城には山内一豊が入る。
秀吉のこの措置は、関東に移した徳川氏を警戒しての措置である。
一豊は城の拡張工事を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守などを持った近世城郭となる。

近世掛川城は、逆川と倉見川の合流点にある独立丘陵を天守曲輪、本丸とし、周囲に二の丸、三の丸を配置し、三日月堀、十露盤堀、松尾池などの内堀と外堀で囲み、南北600m、東西1400mが城域となり、さらにその外側を総堀が囲んでいたという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは一豊は一生一代の稀に見るゴマスリを演じ、その功労で土佐一国を与えられて高知城に移る。
徳川を抑えるはずの城と武将が、皮肉にも豊臣を滅ぼす槍先になった訳だ。
まあ、世の中、この手の話はよくあることで、勝てば官軍、千載一隅のチャンスをものにした一豊(の奥さん?)が偉いということだ。

一豊が去ると、掛川城には多くの譜代大名が入れ代わり入る。
何とその数11家という。最終的には延享3年(1746)太田道灌の末裔である太田氏が入り、明治を迎える。
現在、この城には天守が復元されている。
一豊の造った当初の天守は、慶長9年(1604)の大地震で大破し、元和7年(1621)に再建されている。
この再建した天守も、嘉永7年(1854)旧11月4日の嘉永東海地震により再度倒壊し、その後は天守はなかった。
しかし、地元の熱意で平成6年(1994年)に、市民や地元企業などから十億円の募金を集めて、木造の天守を再建した。
この天守は、山内一豊が築城した高知城を参考とし、古図も残っており、三層三階の入母屋作りである点と、二階の慶長時代の様式といわれる花頭窓なども、再現したという。
二の丸にある御殿は7棟からなり、20部屋を持つ江戸後期、安政2年(1855)に建築された建物であり、昭和55年、国指定の重要文化財に指定されている。
このような建物は全国でも数箇所しか残っていないという。
藩主の公邸であり、藩の役所であり、公式行事の場などとして使用された。書院造りを特徴とする。
この建物もかつては、学校、役場、農協、消防署に使われていたというから面白い。
南側逆川沿いから見上げた城址 外堀の役目もあった逆川 三日月堀 本丸直下の十露盤堀。
本丸から天守曲輪へ登る道 天守から見た天守曲輪と本丸。
左上に太鼓櫓が見える。
天守は当時の工法で木造で再建したもの。
白河小峰城に似る。
天守から見た二の丸の御殿。
天守曲輪東下の犬走り 二の丸御殿の玄関 北側の竹の丸は上級武家の屋敷 三の丸から見上げた天守、絵になる。

なお、太鼓櫓は現存する建物で市指定文化財。
城下に時を知らせるための大太鼓があった。この大太鼓は今は御殿内に展示されていた。
城の本丸北側の「竹の丸」は侍屋敷跡、矢の素材である竹の大薮があったことから名付けられたという。

大日本報徳社
 二宮尊徳が唱えた報徳の教え「道徳と経済の調和実行」を実践し、全国に広める報徳運動の本社。
静岡県教育委員会が所管する公益法人で尊徳の弟子である岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源としているという。
この報徳思想とは、財政改革や農村復興運動を指揮した二宮尊徳が、自身の思想を体系化した経済学説・思想の一つ。
大日本報徳社の下部組織として全国の各地域、各職域に社団法人として「報徳社」が設置され、大日本報徳社がそれらを統括する最上位組織として位置づけられているのだそうだ。
報徳の思想は、机上の学問ではなく、江戸時代以来の日本の農村で実践されてきたことを基礎に構築された理論と行動を一体化させた、実用的思想で日本に定着し易かったという。
人間の欲望と周りの現実とを調和させながら、心も金も同時に豊かにすることを狙った思想であり、農村という枠を超えて広まり、渋沢栄一、安田善次郎、松下幸之助、土光敏夫らの多くの事業家たちにも多大な影響を与えたという。
非常に優れた思想であり、今も受け継がれ、報徳の名を冠した学校も多く存在することから、脈々と社会に息づいているという。
(Wikipediaの記事、大日本報徳社のHPを参考。)

大日本報徳社正門 
道徳門・経済門と刻まれている正門左右の門柱は
明治42年の建立


大講堂 
明治36年に建てられた大日本報徳社の中心的
かつ象徴的な建造物。この大広間で、さまざまな
報徳教化活動が行われてきた。
わが国屈指の大規模近代和風建築
静岡県指定文化財
報徳図書館 (淡山翁記念報徳図書館)
岡田良一郎(雅号淡山、1839年10月21日〜1915年
1月1日、実業家、政治家で衆議院議員。
二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、
地域の振興に努めた。遠江国佐野郡倉真村(現在の
静岡県掛川市倉真)出身。)の功績を称え昭和2年に
建設された和洋の要素を取り入れたデザインの建物。

駿府城(静岡県静岡市)
徳川家康と言えば、日本史の中の超有名人物の1人。
日本人で知らない者はまずいない。
しかし、人気と言えば、余りない。
年配者にはファンはいるが、一般人には受けない。
一般に受けているのは、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信だろう。
家康は伊達政宗、真田幸村にも後れを取っている。一歩、二歩も後ろである。精々、明智光秀、毛利元就並みかな?
成功者ではあるが、何しろ派手さがない。
渋いし、地味だし、信康を殺害したり、豊臣秀頼を殺したりした陰湿で暗い面があるからだろうか。

でも、三河からこの静岡にかけては違う。
彼は英雄中の英雄なのである。どこに言っても「神君 家康公」なのである。
この駿府城もその家康がかかわる城の1つであり、城内には家康の銅像が建つ。
そして、静岡県庁がある場所が、駿府城の三の丸なのである。つまり、現在も駿府城は駿府の府中、静岡県の中心なのである。
静岡駅の直ぐ北側、ここが静岡県の中心地であり、官庁街のど真ん中である。

今残る城は、徳川家康の隠居城として有名であるが、もともとは今川氏の本拠「駿府館」(府中館、今川館ともいう。)が前身である。
かつての本丸が、方形の武家の館であったこの駿府館の主要部そのものであったと言われるが、正確な位置については分かっていない。

駿府館の築館は、応永18年(1411)今川範政によると言われる。それまでの葉梨荘から移って構えたのがこの駿府館であったと言う。
戦国時代のこの館の主で有名なのは、今川義元であるが、彼はここから駿河、伊豆、遠江、三河を支配し、今川氏の絶頂期を迎えた。
ここには人質となっていた徳川家康もいたのであろう。
北条、武田の使者も訪れたことであろう。

そのころの館は平和そのものであったが、義元が桶狭間で戦死し、氏真が跡を継いだ後から、館は暗雲に包まれる。
弱体化した今川氏に対して武田の侵略の手が延びる。
永禄11年(1568)12月武田信玄の侵略が開始される。
信玄は、甲駿相三国同盟を破棄し、駿河に侵入。
弱体化した今川氏はろくな抵抗もできず、駿府への侵入を許してしまい、城下町が焼かれる。
駿府館は信玄の命令で焼失は免れる。
館の主である氏真に至っては、早々と逃亡し、夫人(北条氏康の娘)は乗り物にも乗れず、徒歩で逃げたと伝えられる。

駿河は数度にわたる武田氏の侵攻で武田領となるが、駿河は江尻城を本拠とした穴山梅雪が支配する。
その後、武田氏は滅亡。駿河は徳川家康の領土となる。この頃には館は焼失していたか、廃墟状態であったようである。

家康は、天正13年(1585)から松平家忠に命じ、駿府館の改修をはじめ、駿府城として天正17年に完成する。この時、天守が築かれたという。

しかし、だが、翌年の小田原の役後、家康は関東に移封となり、駿府には、秀吉の臣中村一氏が入る。掛川の山内一豊同様、関東の徳川家康を抑える目的である。
ところが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、駿河は徳川領に復帰し、家康は、部下の内藤信成が入る。
さらに慶長10年、将軍職を秀忠に譲ると家康は、内藤信成は近江長浜へ転封にし、この駿府を隠居地に定める。
人質時代に暮らしていた駿府に思い入れがあったことによるともいう。
その頃の駿府城は、現在の本丸と二の丸までが城域であったらしいが、三の丸以下に拡張される。
奉行は、三枝助右衛門昌吉、山本新五郎正成、滝川豊前守忠任らであったといい、家康は毎日、現場を見に行ったという。
城は慶長13年(1608)に完成をみる。しかし、完成直後に焼失し、直ちに再建工事が行われた。
この時、六重七階の天守が建てられた。
家康は大阪夏の陣後、元和2年(1616)にこの城で死ぬまで、江戸の秀忠との2元体制であったとはいえ、この城で実質的に日本を支配した。
駿府の町も、政治・経済の中心地として繁栄したという。

家康の死後、徳川秀忠の弟、頼宣が在城するが、紀州和歌山へ転封。その後は、家光の弟忠長が城主となるが、例の騒動により失脚、上野へ流される。
その後、駿府城は幕府の直轄領として城代がおかれる。寛永12年(1635)に城下町で発生した火災が延焼、天守閣や御殿、櫓などの大半を焼失してしまう。
それ以後、天守閣は再建されなかった。、さらに宝永4年(1707)の宝永大地震、安政元年(1854)年の安政大地震でも大きな被害を蒙むる。
やはりこの地方は、東海地震の巣なのである。
慶応4年(明治元年、1868)徳川家達が城主になって藩が成立するが、すぐ明治を迎え廃藩となる。

明治維新で徳川慶喜は、江戸城を明け渡しから駿府に移る。この時、駿河府中は不忠に通じるということで、恭順の意味を含めて、地名を静岡に改名した。
明治3年(1870)城内の建物の大半が撤去され、城域は明治29年(1896)陸軍省の管轄となり、歩兵第三十四連隊本部を置くため、本丸が破壊される。
戦後、静岡市の管理となり、二の丸内が駿府公園として整備される。
三の丸には官庁や学校などが立地し、二の丸内には、二の丸巽櫓、東御門(櫓門)と続多聞櫓が復元され、明治時代にに埋められた本丸の堀(内堀)が復元されている。
現在、未申(ひつじさる)櫓や本丸堀の復元工事を行っている。

典型的な輪郭式城郭であり、正方形を3つ重ねた単純明快な形である。
所々に折れを持ち、名古屋城とも似ている。さすが石垣や土塁は天下普請の城だけあって立派である。
本丸は失われてないが、意外に小さい感じがした。武田氏館などと良く似た感じであったと思われる。
もっともこれが、典型的な武家の方形館であったのであろうが、おそらく今川氏の居館でプライベートな空間。政庁等は現在の二の丸付近にあったのであろう。
復元された東御門は、ニの丸の東に位置する正門であり、東御門橋と高麗門、櫓門、 南と西の多門櫓で構成される複合型の桝形門で、要所に石落としや鉄砲狭間、矢狭間等を持つ戦闘的な門で、戦国時代の面影を残しているという。
この門は慶長期に築かれ、寛永12年(1635)の火事で焼失し、寛永15年に再建されたものという。
最近の城郭復元建築物は、コンクリート造りではなく、木造工法によって復元しているのがうれしい。
左の図は古池氏所蔵の「惣指図」。

 
三の丸南側の堀。
正面の建物は静岡県庁。
三の丸の大手枡形。 三の丸側、県庁敷地内の土塁。 @再建された二の丸巽櫓、東御門(櫓門)
A二の丸南側の堀。左が県庁。 B本丸東側の堀。先が本丸跡。 C本丸と二の丸の堀を結ぶ水路。 D北門跡
E二の丸北側の土塁上 F二の丸西側の堀 G本丸にある家康お手植えという蜜柑 H この付近が天守台だったらしい。

浜松城(静岡県浜松市)
徳川家康が今川領の遠江を侵略する拠点として、岡崎城から移った城である。
しかし、当初は侵略どころか武田氏の攻撃に対する前線基地であった。
その前線基地として機能は、元亀3年(1573年)に発揮される。
武田軍迎撃戦として名高い、三方原の戦いは、この城の北で展開され、徳川軍はこの浜松城から出撃し、惨敗してこの城に逃げ帰っている。
この時、家康は馬上で脱糞したなどのエピソードを残している。

その浜松城であるが、この城は家康の築城ではない。
前身は曳馬城(引馬城)という。
この曳馬城の主要部は本丸の東側国道152号線の反対側、後の樹木屋敷と言われた場所に相当するという。

戦国前期、この地で斯波氏と今川氏の抗争が展開される。
当時のこの付近の領主は大河内貞綱であったが、彼は斯波氏に味方し、今川氏に敗れたため没落。

その後、この地は今川領となり、家臣の飯尾氏が領主となり、この引馬城が飯尾氏により築城される。
城は飯尾氏が代々城主を務め、桶狭間には飯尾乗連が出陣する。
今川義元戦死後、飯尾氏も乗連から子の連竜に継がれる。
今川氏の衰退を見た飯尾連竜は、今川氏真に反旗を翻すが反撃を受け、城を包囲され破れて降伏して殺害される。
その後、城は、連竜の未亡人のお田鶴の方を中心とした飯尾氏の残党によって維持される。
しかし、永禄11年(1568)徳川家康によって、飯尾氏内を内部分裂の工作が行われ、それに乗じて攻略され、飯尾氏は滅亡。

家康は、織田信長との同盟により、西側の脅威を解消、東の遠江への侵攻を画策し、元亀元年(1570年)、岡崎城から本拠を移し、岡崎城には長男信康を置く。
この時、曳馬、引馬という名は「馬を引く」、つまり敗走(敗北のこと。当時は戦闘は徒歩で行い、馬は敗走する時の逃走用に主に用いられたという。)につながり、
縁起が悪いため、この付近がかつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、その名を取り「浜松」と改めたという。

三方ヶ原の戦いは移転後3年目で起きるが、その前後から城の拡張工事が続けられ、天正10年(1582年)ごろ終了する。
その4年後、武田氏滅亡により家康は駿河を手に入れ、天正14年(1586年)、駿府城に本拠を移した。
結局、家康はここを17年間居城としていた。

天正18年(1590)家康が関東に移ると、秀吉の家臣堀尾吉晴、忠氏親子が11年間居城とするが、関ヶ原後、松江に移封。

城は再び徳川のものとなり、徳川頼宣が、継いで譜代大名が次々と藩主を務める。
現在、本丸には天守曲輪があり、模擬天守が建てられているが、近世には天守は存在しなかったようあり、本丸にあった二重櫓が天守の代用とされていたという。
ただし、中世、家康の時代には存在していたらしい。現在の模擬天守より1回り大きいものであったらしいが、その姿は分かっていない。

明治維新後に城の建物は破壊され、「浜松城公園」となり、桜の名所になっている。
模擬天守は昭和33年(1958)造られた鉄筋コンクリート製である。

もともとは広い城域であり、500m四方あったというが、現在、城の遺構が残っているのは、模擬天守のある天守曲輪と本丸、清水曲輪程度である。本丸の北側の庭園の池が堀の跡という。

城は比高25mの三方ヶ原台地の南端端が若干盛り上がった部分にある。
最高箇所にある天守曲輪の石垣の石は、白っぽい珪岩主体の野面積みであり、これは堀尾氏時代のものという。
ただし、一部は家康時代のものと推定される石垣も存在するという。

石間の隙間が大きく、忍者なら容易に登れそうである。
天守曲輪、本丸、清水曲輪はいずれも狭く、不整形であり、これが築城当時の形を伝えているという。築城当時の浜松城はおそらくこの部分であったのであろう。
御殿のあったという二の丸は、浜松市役所と元城小学校の地となり、堀は道路となっている。
二の丸(市役所)南の道路は堀跡。 天守曲輪への登城路。
石垣は中世のものという。
天守曲輪に建つ復元天守予算不足で本来のも
のより、1回り小さ目に建てた。
天守曲輪西下の清水曲輪 本丸北下の庭園の池は堀跡。 作左曲輪内はただのなだらかな山という感じ。

北側の作左曲輪は公園になっているが、ほとんど城の遺構らしいものはなく、内部はなだらかである。
ここは捨て曲輪といった感じである。
当時はこの部分は深い谷であり、特別な防御施設はなかったという。今の姿は、谷が埋められたものだろう。
東側、南側にかけて武家屋敷があったというが、大部分は市街地になってしまっている。

上の図は城址にあった安政年間の古図だが、本丸周辺以外はほとんど分からなくなっている。
本丸南西側の図書館裏の岡は武家屋敷になっているが、ここは城域ではなかったようである。
しかし、ここに出城があってもおかしくない