瓜連城(那珂市瓜連)

1.位置と歴史
 
小田城、大宝城及び関城とともに常陸国の南北朝の騒乱の舞台となった城郭である。
 瓜連市街の東側久慈川を望む台地上にある平山城であり、現在は浄土宗常福寺の境内である。

 現在残っている遺構は北側と台地が切れる東側に堀と土塁が残っているのみであるが、かつては街全体を覆う大城郭であったと言われている。
 この地に城あるいは館が築かれたのは鎌倉時代であるが、現在残る遺構は南北朝時代建武3年(1336)、この地に領土をもらった楠木正成の代官楠木正家が来てから拡張整備したものである。

この地は一見、それほど重要とは思えない場所である。
 しかし、ここ瓜連が水戸方面と大宮、大子方面を結ぶ南郷街道の宿場である他、太田方面や石塚方面にも街道が分岐する地、いわゆる交通の要衝であり、ここに城を置けば、4方面に軍が展開できるのである。
 そのため、南北朝時代は南朝方の勢力範囲だった岩瀬地方や奥羽と連絡、補給ルートが確保でき、北朝方佐竹氏の本拠を突けるここに前進拠点を置いたのであろう。

 この城には楠木正家以下、広橋経泰、小田治久、大掾高幹、相馬胤平、那珂通辰が集まり、佐竹氏の一部も参陣し、1年間にわたり西金砂城、武生城による佐竹氏と数回にわたり激戦を交えた。
 最後は大掾高幹の裏切りにより城は落ち、楠木正家、広橋経泰、小田治久、相馬胤平は領地に戻り、那珂通辰は戦死した。
 その後、高師冬が在城していたこともあったが、まもなく廃城となり跡地に常福寺が移されてきている。

 しかし、常福寺はその後衰えてしまい廃寺状態になったらしい。その跡地を山入りの乱で陣城に利用したようである。
 再利用された理由は、この地が交通の要衝であり、ある程度残っていた遺構を再利用することが可能であり、築城コストが省けるからであろう。
 戦国後期になり、この地方が安定すると城は不要となり、常福寺が再興される。

 ただし、僧兵を常福寺が抱えていたら?
 戦国時代は僧兵も軍事力の一翼をなし、佐竹氏は今宮氏が僧兵を統括していたともいう。
 その場合は寺=城としてその後も城として維持されていたのかもしれない。

2.城の構造
 城の遺構は一部しか残っていないが、堀と土塁は大規模なものである。
 戦国時代の城郭ほどの技巧性はないが規模だけでは凌ぐものもある。
 ただし、大きいが単純という印象を受ける。
 もとろん、この遺構は南北朝時代のものではない。山入りの乱の時に改修されたものである。
しかし、遺構が比較的単純な印象を与えるのは、南北朝期の遺構の残影があるのであろう。 

この城の築城、または再利用し拡張した際に楠木正家は、本拠地河内の楠木氏の城郭設計のノウハウを反映させていると言われている。

 特に、台地上の土塁の下に帯曲輪を設けることにより斜面の勾配を大きくし、帯曲輪の前面にもさらに土塁を設ける手法及び箱堀の堀底がそのまま帯曲輪につながる方式は楠木正家によりもたらされた築城法と言われる。
しかし、楠木氏の千早城、赤坂城は自然地形を活かし、人工的に加工した要素が少ないと言われるため、この説は妥当ではないであろう。

 ただし、当地方の鎌倉時代の城郭にはこのような構造のものはなく、もし、現在残る遺構に南北朝期の残影があるならこの城に見られる技術は、当地方以外の場所からもたらされた技術であることになる。

 もしそうなら、この技術は瓜連城の攻防戦後、勝者側の佐竹氏側の領主階級に強い印象を与えたことは間違いない。

 その証拠に帯曲輪を設ける築城法は瓜連城以降に本格的に整備された佐竹氏系の城郭である前小屋城、小場城、宇留野城、南酒出城にもしっかりと採用されており、堀底がそのまま帯曲輪につながる方式は前小屋城で明確に確認することができる。

 しかし、その逆にこの城址が戦国時代も利用されていたとしたら上記の説は完全に覆る。
 

 常福寺にも兵が養われていたとしたら、寺院も城郭化するであろう。
その時、前小屋城、小場城、宇留野城、南酒出城に用いられた技術がここに利用されたということも十分にあり得る。  

東側の土塁下の帯曲輪、曲輪の前に
さらに土塁が巡っている。
帯曲輪より土塁を見上げる。切岸の勾
配はかなり急である。
北側の大土塁を西より見る。 
大土塁上より東端の櫓台跡を見る。 大土塁より見た北側の空堀、
堀は箱堀である。
堀の東端は帯曲輪につながる。
城址西側に残る土塁。 城址西端の堀。かなり深い。 城址西側、墓地の西にある土塁。

瓜連城出城(那珂市瓜連)

現在、瓜連城というと常福寺境内のみが城域と思われるが、川崎春二氏の瓜連城の図では多くの曲輪が描かれ、瓜連の市街地全体を城としているのである。
この図によると南北朝期以降、街道の宿場を取り込んだ城砦都市が形成されていたことが想定される。
その川崎図の中に「出城」と記された場所が存在する。

常福寺の南西約500m、瓜連小学校の東約100mの地である。
西側は静溜池から流れ出る川が蛇行して流れる低地である。

ここに高さ約5mの土塁が部分的に残存する。
しかし、明確な遺構はこの土塁部分のみであり他はかなり曖昧である。
出城は本来、東西約60m、南北約80mの規模を有していたようであり、南西側の一部はJR水郡線の線路が分断している。
出城と推定される場所は周囲より若干盛り上がっている。
これは土塁を崩した痕跡と推定されるが、土塁が全周していたかは不明である。
周囲には堀が存在していたようであり、若干の窪みが見られる。

なお、遺構の北西端部には道脇に中世のものと推定される五輪塔の残骸がある。
この出城がいつ造られたか定かではないが、南北朝期以降、瓜連の街が城砦都市化する過程で整備されたものと推定される。
立地的に瓜連城の反対側に位置するため、瓜連の街を挟んで南西側を守る役目があったのではないかと推定される。

やや北側の「巣鷲神社」の西側に浅い堀が長さ50mにわたり存在し、これも瓜連の街を守る遺構の可能性があり、瓜連の街が城砦都市であったことを示すものなのかもしれない。
(航空写真は平成24年国土地理院が撮影したものを利用した。)