真崎浦周辺の城館2

多良崎城(ひたちなか市足崎字館)


 太郎崎という名の真崎浦南岸最大の半島状台地にある。今は水田地帯に突き出た細長い小山に過ぎないが、かつては東、北、西を真崎浦に囲まれた要害の地であった。
 真崎城からは南西に2.5kmの位置にある。
 立地条件は真崎城と似ている。

 しかし、城域は真崎城に比べればはるかに広く、堅固である。
 一の木戸付近から四郭先端まで500m、幅は最大で100m程度、低地からの比高は25m程度である。
 西側に3方が台地に囲まれた船溜りがあり、真崎城同様、湖上交通を管理する城であったと推定される。

 ただし、城のある地は要害の地ではあるが、領内統治や生活には不便な場所であり、城主は普段は別の場所に居住しており、攻撃を受けた場合の詰めの城の意味もあったものと推定される。
 城は普段は家来が交替で湖上交通の管理を含めて城を管理していたものと思われる。

 築城年代は鎌倉時代末期1330年頃と推定される。
 築城者は常陸大掾吉田太郎広幹の三男里幹、通称多良崎三郎とされ、この地で地頭をしていたが南北朝の騒乱で南朝に味方して没落し、次いで江戸通重の次男平沢通村の子孫、足立五郎左衛門通義、又五郎通定が城主となり、代々足崎氏を名乗った。
 天正18年(1590)常陸統一を目指す佐竹氏に攻略され落城し、廃城となったとされる。

 大掾氏や江戸氏の家臣がこの地に居住したことは真崎浦の湖上交通権及び谷津の水田開発の支配を狙ってのことにあるのは明白である。

 対岸の真崎城の佐竹系真崎氏とは佐竹氏、江戸氏が決定的な対決を天正18年までしなかったため、真崎浦の支配権は両者間で均衡状態にあったものと思われる。

 城は三方が湖で一方が山であるため、攻撃がしにくい。
 そのためか土塁は低く、堀も浅く、城郭の造りは佐竹系の連郭式平山城郭に比べて貧弱である。た
 だし、これは真崎城も共通である。
 このため、佐竹氏に攻められた時は僅か1日で落城している。

 おそらくは湖上から真崎氏の水軍が、陸上からは佐竹義重指揮の大軍が攻撃したものであろう。
 四方から攻撃されてはこの程度の城郭ではひとたまりもないであろう。
 城跡は城址公園として管理されているため、非常に見学しやすい。
 城郭遺構はほぼ完存している。
  
 陸から本城に行く場合は、南側の尾根より入るが、尾根の最高位置に尾根上の道を抑えるための木戸が2箇所あったとされる。
 その場所には空堀、土塁があったとされるが、一見そのようには見えない。
 土塁といえば言えないこともない盛り上がりが見られるのみである。この場所から北に進むと道は下りになり、切通に至る。
 この切通は明らかに防御用のものであり、この場所から高さで10mほど登った所に本郭がある。

 本郭の虎口は東側にあり、内部は約55m四方の広さを有し、周囲は高さ2.5mの土塁で囲まれる。標高は約30m。
 この場所からは屋形跡が検出され、常滑焼きの大甕が出土している。
 遺物からは鎌倉から南北朝時代の築城が推定されている。

 二郭は本郭の北側にあり、広さは本郭の半分程度、三角形をしている。
 やはり周囲の土塁を持つが土塁の高さは2m程度である。
 一部に櫓台跡と思われる部分がある。本郭との間にも堀があるが浅い。
 本郭との連絡は本郭虎口より出て本郭の東の犬走りを通り二郭に入ったと思われる。(現在は本郭から直接、二郭に行けるようになっているがこれは後付けらしい。)

一の木戸跡 二の木戸跡 本郭南の堀切
本郭、二郭東の犬走り、各郭は犬走りで
連絡されていた。
本郭内部。虎口付近を見る。 本郭内部、高さ1m程の低い土塁が全周を
取り巻いている。
本郭虎口入口 二郭(右)と三郭間の堀跡 二郭内部
三郭内部、緩い斜面であり土塁はない。 先端部に位置する四郭 四郭にある烽火台跡
城址下の旧真崎浦の水田  西側低地より城址を見る。

三郭は二郭の北側にあるが、二郭より数m低い位置にある。このため、三郭から見る二郭の土塁は高さ4m程度に見える。
 三郭の標高は約26m。二郭との間には堀が掘られているがやはり浅い。
 三郭内は若干の起伏がある広い平坦地という感じであり、高い土塁はない。
 どこまでが三郭の範囲なのかも判然としない。
 烽火台のある郭を四郭とするが、この場所は二郭北端より、150mほどの距離にある。郭の入口には土塁と堀がある。
 郭内は広い平坦地であり、50m×100mの大きさ。標高は約20mであり、本郭より10mほど低い。
 先端部西側に烽火台跡という盛り上がりがあり、名のとおり、烽火を上げる施設か、西側の船溜り、真崎浦一帯を監視する物見台があったと思われる。
 久慈川流域の佐竹系城郭に比べると要害の地にあり、湖が天然の水堀で、しかも山城であるためか、堀や土塁はそれほどのものではなく、申し訳程度のものである。
 本格的な攻撃を受けたらすぐに防御を破られる程度のものである。佐竹氏の攻撃で1日で落城したのも納得できる。
 西側には本郭側から張出した尾根があり、絶好の船溜りがあった。それ以外の城下の湖面には、瀬戸内海の海賊城同様、湖中に杭が打たれ、湖上からの攻撃を防御していたものと思われる。                

小山城(ひたちなか市高野)

真崎浦南岸、ひたちなか市の高野地区から真崎浦に張り出した比高25mの台地先端部にある。
東西が侵食された谷津になっており、西の谷津を隔てた対岸に清水城が、東の谷津を隔てた対岸には深茂内館がある。
城といっても単郭であり、堀も土塁もそれほどのものではない。
ただし、藪の中にほぼ完存状態にある。
城へは台地続きの南側からも行けるようであるが、民家の間をとおる良くわからない道であり、藪化している。
北側の先端部から上がって行く道があり、この道の方が迷わない。城は先端部から150mほど南にある。

この先端部はだらだらとした下りであり城郭遺構はない。
この道も藪状態である。
2年ほど前に来たときは十分に歩ける道であったが、ここ2年で急激に藪化したという感じである。
途中で西に分岐する道があるが、この道が北側の堀である。
結構、埋まっている。
この堀は西側から南に迂回し、さらに東に向かい城址を1周している。

レーザー測長機とコンパスで堀沿いに測定して描いたのが掲載している縄張図である。
堀底も藪状態であり、測定に難儀したが、測定開始点と測定終了点が見事に一致した。

城は東西最大70m、南北90m程度の広さであるが、変則5角形をした結構、いびつな形をしている。
郭の外周は全周土塁を持つが、台地続きの南側のみが立派であり、他の3方面は低い。

郭内部は平坦であるが、土塁付近は盛り土を取ったため窪んでいる。
外周の堀も台地続きの南側のみが立派であり、幅は8mほどある。
堀底から土塁上までは精々3.5mほどしかなく、堀はかなり埋没しているようである。
南側の土塁と堀はうねるように構築されており、横矢がかかるようになっており、結構、技巧的である。

土橋と虎口が南側にある。東側に堀を隔てて馬出のような曲輪があるが、これが何なのかは良く分からない。
その東は竪堀状になっている。この城の来歴については全く不明である。
 農民の緊急時の避難場所にしては中途半端な場所にあり、やはり土豪の居館と見た方が妥当と思われる。

北西側低地から城址。 南側の堀と土塁。堀はかなり埋没している。 郭内部から見た南側の土塁。 東の馬出のような部分。
郭の切岸が見えるが、その手前には堀がある。


内城(ひたちなか市高野)

 多良崎城より西側500mの半島状台地にある。
 現在は高野墓地となっている。
昭和52年の調査時に堀跡が確認され、古銭が出土したとのことである。
城主等は不明。弥生時代の遺跡である高野寺畑遺跡と複合する。
「勝田市史」によると、台地に続く部分を堀切で区切り、三方を真崎浦に囲まれた台地突端に4郭が存在していたと言われる。
写真は真崎浦跡の北側の低地から見た城址。