寺山館(高萩市上君田)
高萩市の上君田、ここは凄いところである。
高萩市内から県道11号を北西の山間に向かい、下君田地区から県道22号線に入り、さらに標高をかせぐと上君田地区である。
典型的な山間の僻地、産業と言えば主に林業である。
所どころに製材所があるが、安い外国産材木に押されて景気は良いようには思われない。

谷間であり、水田もあるが、標高も480mと高く、収穫には不利と思われる。冬場は雪に閉ざされる。
そんな上君田地区であるが、古くから人が住んでいた。
ここに旧石器時代の上君田遺跡があるくらいである。
多分、狩猟の場としては格好の地であったのではないかと思う。

その上君田地区にも中世城館がある。
こんな山間に城を構えても米も採れず、材木はあったとしても運搬手段もなく、まして金が採れたという話も聞かない。
収入を得る手段がない地である。
おそらく、ここを通る街道が海と大子、棚倉などの山間をつなぐ最短のルートであり、物流の要衝だったのだろう。
ちなみに中心部の地名が「宿」である。

街道が存在したそのものズバリの地名である。
おそらく主な荷は海からの「塩」だろう。
その上君田にはいくつかの城館跡が登録されている。

↑の写真は南東側から見た城址である。

ほとんどは自然の山であり、なぜ城館なのか理解に苦しむものばかりという。
多分、物見台のようなものなのだろう。
その中で唯一、城館らしいのがこの寺山館である。
宿地区にある。
ここは南からの県道227号線と高萩方面からの県道22号線が合流する。
その北西の山が館跡である。標高は520m、比高は40mほどのずんぐりとした山である。

ここの南下に茨城森林管理署上君田森林事務所がある。
← ここは廃寺跡ともいう。
さらにここの一段上に薬師堂がある。
ここから緩やかな勾配の斜面を上がると城址である。
と言ってもこの館、立派なのは山中腹の横堀と帯曲輪であり、肝心の山頂部はほとんど自然地形、削平もされていない状態である。
南東側に坂虎口があり、その右は立派な横堀@、左は腰曲輪になっている。
腰曲輪の幅は最大15m。削平は良好である。
腰曲輪から虎口までは高さ5m。この切岸はかなり鋭い。
左の腰曲輪を進むと、下に下りる道がある。
これが本来の登城路ではないかと思う。
さらにその西に竪堀Bが主郭部から下り、腰曲輪を横断し、さらに下っている。
さらに西側に行くと、主郭部西端を分断する堀から下る竪堀と合流し、西下に幅10mほどもある巨大竪堀Aとなって下る。
主郭部は東西60m、南北30mほどであるが、ほとんど自然地形、おまけに藪である。

西端は堀切が1本あり、西に尾根が続くが、先に堀切は存在しない。
この館、部分的には立派な遺構もあるが、それほど堅固な訳でもない。
大きな戦闘には耐えられるものではない。

@東側の横堀、北斜面は竪堀となる。 A南西側の巨大竪堀 B本郭から南に下る竪堀

南下の茨城森林管理署上君田森林事務所のある平坦地が、廃寺跡とは言うが、おそらく寺院が存在する前は館主の居館跡であったと思われる。
そして背後の山のこの館は物見兼、非常時の一時避難施設か、米蔵などの重要物資の保管場所ではなかったかと思う。
館主については分らないところが多いが、豊後国の住人”宇野六郎利仲”という者が立て篭もったという伝承があり、現地にも宇野姓が多い。
この宇野氏、龍子山城の大塚氏家臣ではなかったかと思う。

参考:余湖くんのホームページ Pの遺跡侵攻記

田ノ草館(高萩市上君田)

上君田の中心城郭?寺山館の東南800mほどに見える落葉樹のずんぐりした山が田ノ草館である。
比高は20、30mほどか。でも、ほとんどただの山だった。
掲載するほどの写真もないので、遠景のみ。西側、寺山館前から見た館跡の山である。
字名が「ジョウネー」、多分、「城内」か「城根」がなまったものと思うが、城館に係る地名と思われ、城館は存在していたのだろう。
でもここは物見台程度のものだろう。
ここに旗を立てているだけで、寺山館への直接攻撃は多少けん制できるかもしれない。 


明神山館(高萩市上君田)
寺山館の南西600mほどにある十殿神社のある比高40mほどの山が館跡という。
登ってみたのだが、山頂はただの山、周囲に帯曲輪のような平坦地があるが、これが遺構かどうか分からない。
写真も掲載する気にならず。
しかし、東の中腹にある十殿神社社殿がある20m四方ほどの平坦地、ここは人工の平坦地であり、曲輪であったような気もする。
寺山館の南西、常陸太田方面への街道を押さえる物見台程度のものであろう。


山小屋城(高萩市秋山)
高萩駅から西に3km、県道10号線が花貫川を渡る西側の山が城址である。
山には承殿神社があり、標高は60m、比高は30m、北側から東側を花貫川とその支流が流れ、天然の水堀となっている。
山の西側はジメジメとした谷津、南側が山に続く。

その神社境内が城址である。
しかし、そこまで行くのが大変。車で行けないこともないが、道が狭く、駐車も大変である。
南東下に鳥居があり、石段を登って行くと社殿の地@となるが、狭い。

西に一段高い盛り上がりAがあり、社殿裏からは尾根状の道がある。
北側は土塁となっている。
山全体が杉林であるが管理された状態ではなく、荒れていてジメジメしていて冬場以外は歩ける状態ではない。

ここからは北方向と東方向の眺望が優れ、防衛体制もばっちりである。
こちらの方面には龍子山城や島名城がある。

距離的には龍子山城の大塚氏の支城と言われるが、想定する敵はこの方面である。
逆に十王、山尾城の佐竹氏重臣小野崎氏が大塚氏に対して築いた城であったとも思える。

↑北東側、花貫川の対岸から見た城址。
@承殿神社社殿、境内はかなり荒れている。 A北西側に物見台のようなピークがある。

参考:余湖くんのホームページ

島名城(高萩市島名字小屋)
高萩駅から南西2kmほどの島名地区にある鏡神社のある丘が城址である。
この丘、比高は東側からは30mほど、長さ南北300mほど。

全体が森なので遠くからも目立つ。鏡神社付近がもっとも城らしい雰囲気があるが、この部分の規模は小さい。

神社社殿の地は15m四方程度の広さ、北に突き出したような部分がある。
南側は鞍部のようになっている。
その南側、花貫川付近までも城域であったようである。
神社南のピークに、近世は庄屋屋敷があったという。
しかし、例のイバラで行けるものではない。
ここにも堀が存在するらしいが、城の遺構であるか分からない。
おそらく改変を受けているのであろう。
 さらに南側の宗教団体の施設の場所も城域だったようである。

「松岡地理誌」では、鎮守府将軍源満の子、滝(多気)兵部実基が天徳3年に築いたと書かれているが、あくまで伝説だろう。
おそらく龍子山城の大塚氏の支城というのが妥当であろう。