高久城(城里町桂寄居)

 県道錫高野・石塚線の寄居T文字から常北町方面に向かい、600mほど行き、台地が下りになる付近を左折するとしばらくして台地を下りる付近に城址の説明板がある。

 城は台地突端部に築かれ、東、南、西の3方向は急な斜面であり、台地下の水田からの比高は約30m。
 北側のみが台地に続く。

城祉は畑や墓地になっており、遺構はかなり失われているが、本郭(曲輪T)の北側の横堀や東側の腰曲輪は完存しており、曲輪U北側の堀跡も明瞭に確認できる。

 永仁元年(1293)大氏家臣、鈴木五郎高郷の後裔高範が築城したという。鈴木氏没落後、廃城になったが、佐竹8代行義の孫義有が嘉元年間(1303−1305)に復興し、高久氏を称した。

その子義本と孫の義景は山入の乱で山入方として挙兵し、正長元年(1428)大山義通に攻められ落城したが、その子義時が再びこの地を確保した。
 天文4年(1535)には再び佐竹氏に叛いて敗れ、以後は佐竹氏に従服した。
天文12年(1543)義時以下一族は陸奥久保田関山(白河市)で揃って討死し、城は廃城になった。写真は城の本郭部があったと言われる台地先端部。現在は畑となっている。
@本郭から見た南側の曲輪V、堀切が道路になっている。
A本郭北東端の櫓台?
B本郭東下の帯曲輪・・・藪! C本郭と二郭間の堀・・・これも藪!
D主郭部北側の堀跡。 E外郭北の堀
FEの堀は東側に行くと深くなる。