古内城(城里町下古内)

城里町古内地区にあったという「古内城」は名は知らており、いくつかの史料にも登場するが、どこにあったか分からないといういわゆる「行方不明」「迷子」の城の一つである。

現地の解説板には次の様な主旨が記される。
「清音寺は平安時代初期大同4年(809)に弘法大師が草庵を設けたのが始まりとされ、佐竹義篤(義敦)が父、貞義の追善のため、復庵大光禅師を招いて開いた臨済宗の寺である。
常陸における南北朝の争乱が終息した文和元年(1353)のこととされる。
佐竹氏の菩提寺となったため、佐竹氏10代義篤、清音寺開山復庵大光禅師、9代貞義の三基の宝篋印塔が立っている。
凝灰岩製で立方の型、下方の蓮華五弁の深彫り形式が特徴とされる。
(清音寺が開山した地が現在の地であったかは不明であるが、宝篋印塔が存在していることと、寺を置きそうな山に囲まれた地形の特異性から推察し、始めからこの場所であったのでは?と思われる。)
戦国時代、天正8年(1580)には火災に会い、佐竹氏が秋田に去るとスポンサーがなくなって勢力が衰える。
江戸時代には水戸徳川家の加護を受けたが、明治時代に廃仏毀釈の影響を大きく受け、社領等を失って困窮し、この時、貴重な仏像の多くが国内ばかりか海外にまで流出してしまったという。」

寺のある地の南側を城里町石塚から笠間方面に通じる県道61号線が通る。
この地区で城里町役場から南西約4qが下古内地区、ここで水戸方面と茂木、七会方面を連絡する県道51号線が交差する。

今は山間の田舎の風景が広がるが、戦国時代はいわゆる交通の要衝と言われる重要な場所だったと思われる。

この地にあった古内城の性格としては、この地が山間であり農業生産も多くなく、林業はそこそこ活発だったとは思われるが、経済的理由というより、交通を抑えるための側面が強かったと思われる。

ここには戦国時代、1500年代始め頃、佐竹一族、佐竹義舜の子、一渓が興し地名を採って興した古内氏の領地であり、古内氏が構えた城が古内城という。
しかし、前述したようにこの地区を探しても古内城らしい場所、遺構が発見できない。

常北町史でも「竹の内」「堀ノ内」という城郭に関わる地名はあるが、特定できないと記載している。
上古内の「竹の内」に城館があってもよさそうな山、「権現山」があり、そこを探してみたけど「ハズレ!」。
古宿の「堀ノ内」の地も城館とは断言できないものであった。
他の場所を探した人の話でも「違う!」ということで結局、見つからない。

城を置くなら街道が交差する場所付近である場合が多い。
それなら、この地の名刹「清音寺」(36.4508、140.3339)の裏山あたりが怪しい。
裏山辺りに城が存在しているのでは?
ということで清音寺付近を探索。

ところで、この清音寺、非常に面白い場所にある。
谷戸にあるのだ。
周囲が山に囲まれ、南側のみが開けている。

寺のある付近は藤井川が寺のある山の周囲を北から東、そして西へと大きくU字を描いて流れ、藤井川が水堀の役目を果たし、それなりの要害性を持つ。
寺の裏山は西側のみが山地に続くため、西側に続く山の尾根を遮断すれば城として機能すると思われる。

清音寺参道。撮影位置の横に「白蓮池」があるが、堀か? 清音寺本堂、周囲を山に囲まれる。 佐竹氏に関わる宝篋印塔が寺西側の谷間にある。

寺のある場所の標高は91m、背後の山は148.1m、比高は約50m、ちなみに南を通る県道61号線の場所の標高は61.5mである。
栃木県那珂川町馬頭の武茂氏の菩提寺兼居館があった乾徳寺の立地と似た感じである。
その開けている南側には「白蓮池」という名の池跡があるが、これ堀じゃないのか?

寺を囲む山を歩いてみるが、尾根上は結構広い。
その尾根上には土橋を持つ堀切が2本と片側のみに下る竪堀が1本存在していた。

竪堀は城郭遺構かどうか検討する余地はあるが、2本の土橋を持つ堀切は城郭遺構である。
この堀切は広い尾根が西に続き、この尾根を遮断するものである。
この堀切の先の尾根は広く、もし、清音寺を攻撃しようとすれば西側の尾根伝いに侵攻し、寺の背後から攻撃するのが一番確実である。
もちろん、これは清音寺が攻撃対象なら・・ということであるが。

寺裏山東側にある土橋を持つ堀切 寺裏山西側に続く尾根にある土橋を持つ堀切

しかし、堀切は単品が2つ存在するだけで、尾根上は曲輪もなければ、土塁もなく、城館の形態にはなっていない。
あくまでも尾根上の移動を阻止する目的のものである。
尾根に城郭のパーツがあることは、清音寺の地を守るため以外の目的は考えられない。

一方、「秋田藩家蔵文書十」に小山孝哲(秀綱)が岡本禅哲に宛てた書状があり、
その中には「古内宿の城で火事があり、陣屋、大膳、中務、刑部太輔の家は残ったが、実城の西の門が焼けた。」
という内容が書かれている。
当時、小山秀綱は北条氏に小山城を奪われ、佐竹氏に亡命しており、古内城に滞在していたようである。
この史料の記載と寺の解説板に記載される「天正8年(1580)の火災」が同じことと思われる。
すなわち、清音寺こそが古内城ではないのか?

さらに清音寺の解説板の裏を見ると、境内の一角、入口部近くの場所に「古内氏居館跡」が記されている。
←古内氏居館跡とされる場所、規模的に狭すぎる気がするが。
古内氏の成立は1500年代始めである。
清音寺開山から150年ほど後のことである。

この地に館を置いたなら、寺が先に存在し、後からやってきてその一角に館を構えたことになる。
これは、義舜の子、今宮永義が今宮氏を興し僧兵を統率したと同様、ここに居館を構えた理由は清音寺が抱える僧兵を統率するためではなかっただろうか?

古内氏の祖の一渓は始め仏門に入っていたが、還俗して古内氏を興したというので寺社とのつながりが始めからあったようである。
一方で清音寺の地は、背後の山に城郭遺構が存在し、谷戸式城郭として城として十分成り立つのである。

以上より、古内城は清音寺の地としていいのではないかと思われる。

(地図は国土地理院地図を切り抜いて使用)

孫根城(城里町桂孫根宿)

 大山城の支城と言われているが、肝心の大山城よりはるかに立派である。
谷津を隔てて2つの城からなる。いわゆる「1城別郭」形式を取る。

 大山城の西1.8km岩舟川右岸の台地北端にあり、城域は東西350m、南北250mほどである。
若干、台地続きの南側が高く、南側から城内が見透かされてしまうという欠点がある。

 北と東は低地に望む崖面であり、低地からの比高は約30m近い。
本郭に相当する曲輪Tの周囲は土塁に囲まれ、西側の土塁が残存する。南側と西側は堀が築かれる。南側の堀は侵食谷を拡張したものと思われる。 東側の曲輪Tは出城とも言うべきであり、北端が櫓台状に盛り上がり、西側から南側にかけて土塁を持つ。この土塁は高さ3mほどある立派なものである。
 築城は室町初期応永年間大山義孝の子、義通という。

 この城が歴史に名を残すのは山入の乱で常陸太田城を追われた佐竹義舜が外祖父である大山義長を頼り、この城に匿われたことによる。
 義舜はこの城で13年間を過ごし、西金砂城、大門城を経て最後には常陸太田城に復帰し、山入氏を滅ぼしている。

大手口の位置より本郭部(民家の場所)を見る。 大手口より西側の土塁を見る。手前の畑は掘跡。 本郭 櫓台が見られる。 曲輪Uの土塁。

以上は2003年の記事
以下、2007年の再訪結果。
本郭と二郭が離れているため「1城別郭」の城のように思えるが、どうやらかなりの遺構が湮滅してしまっているようである。
東側の「宿」地区にも土塁が見られ、西側にも土塁や堀跡が確認できる。
さらに南側の戸の内地区も外郭であったようである。したがって、かなり巨大な城郭であったことが想像される。
↓の想像復元図は上記の情報を元に描いたものである。



A本郭東の堀

@本郭南側の巨大土塁

B 二郭西側の土塁

仲丸城(城里町大字孫根)
旧桂村から旧七会村を結ぶ県道112号線沿いに「仲丸城」という変わった名前の場所(36.5035、140.3397)がある。
なお、「なかまるじょう」ではなく「なかまるき」と読む。
字からすると「城」(しろ)に関わるような気もするが、そもそも戦国時代には「城」という字はあまり使っていない。
当時、城館は多くの場合、「要害」とか「館(たて)」と言っている。
ただし、古代では「城」を「き」と発音しているので古代の城館があったのかもしれない。
でも、古代の城は主要街道とか大きな河川沿いの交通の要衝に造られることが多い。この地は主要街道や大きな河川からは離れた山間である。
古代城館が置かれるような場所とも思えない。
・・・と、地図を眺めてアレコレ詮索し妄想しているのも楽しいが、まずは現地を見てみる必要がある。

で、行ってみたのだが・・・分からん!というのが結論である。
南に桂川が流れ、渓谷状になっている。その北側の台地である。
この付近の桂川水面の標高が37mに対して台地上は67m、30mも高い。
台地の北側と南側に谷津が入り、西が山であるので、この台地は独立性があり、今の状態でもそこそこの防御性がある。
さらに台地上は比較的平坦で広いため、居住性もある。
しかし、そんな場所、どこにでもあると言えば「ある」。

台地の北西側は山である。県道112号線は山裾を東西に貫いている。(現在の県道はもちろん後付けである。)
台地は決め手がないので背後の山に何かあるのではないか?と考え、行ってみる。

山に入って行く道、ちょっとおかしい。
わざわざ、山を削って造った横堀を拡張したような堀底道である。
この道は途中までは車道(県道112号線の旧道であった。)であるが、山に入る部分はほとんど横堀のような感じとなる。
普通、山に向かう道なら斜面を均して斜面に道をつければ十分であり、横堀状にする必要はない。
この部分、山と台地部を遮断する堀のようにも見えるが、古道もこんな感じであるので何とも言えない。

どちらかと言えば、古道ではないかと思うが。
この道は西にある「桂ヶ丘CC」方面に伸びていたようである。
肝心の背後の山、平坦であるが、墓地以外、特に何もない。
しかし、尾根続きの北西側に向かうと・・。標高100mの最高箇所に何かある!

高さ3mほどの盛り上がりがいくつかある。
古墳か?小さいものも含めて7基の土壇、土饅頭がある。
その北側は開け墓地になっている。
どうやら墓地は寺跡のようである。土壇は密集しており、古墳ではないようである。
多分、これは「経塚」ではないだろうか?江戸時代初頭のものか?
ということでここは戦国時代の城館の可能性はないと思う。
ただし、台地上に武家の居館、屋敷くらいはあってもおかしくはないが・・・。

春園神社(城里町春園)
城里町の中心石塚から県道61号線を南西の笠間方面に向かうと、県立桜ノ牧高校常北校(旧常北高校)がある。
その北西約500mに春園神社(34.4830、140.3544)がある。
神社がある場所の字名が「古屋」である。「古屋」は城館に関わる字名として多く見られ、「古屋城」という名の城館も多い。
・・なので、ここも城館候補地と言える。
春園神社は元々はここにあったのではなく移ってきたという。
よく、城館跡に神社が移転してくることがあるらしいが・・。
神社移転前に何があったかは分からない。
で、その神社に行ってみたのだが・・・。

境内に土塁などは見当たらない。
堀らしいものもない。ごく普通の神社である。

この神社のある場所、北から伸びた台地の東西が侵食され、南の谷津部に三角形状に突き出た感じである。
神社のある場所、標高は64m、南側は水田になっている低地であり標高が58m、神社の東西の谷津部の標高が60〜62m、神社北側は標高64mで続いている。
神社東側の谷津部は堀状であり、自然の谷津を掘り込んでいるような感じである。

これで台地続きの神社北側に台地と遮断する堀でもあったら城館とみて間違いないが、どうもないような感じである。
もしかしたら埋められている感じもあるが、藪が少ない冬場に確認しないと何とも言えない。
ただし、堀がなくても台地続きの北側に柵列を置けば、城館として成り立つが・・・城館は存在したのか?真実は如何に?


青山館(城里町上青山)仮称
城里町の中心石塚から県道61号線を南西の笠間方面に向かうと、常北小学校(旧青山小学校)がある。
小学校の南、西田川を渡った南側、松山地区に堀跡のような遺構が見られる。

県道61号線はその堀跡部分を通っており、県道沿い南側に堀が残り、西側では堀は県道を横断し、北側に伸びている。
県道の1つ南側の道が旧道であり、旧道と西田川に間に館が存在したらしいが、旧道と県道南側間の集落内には遺構らしいものは見られない。
(民家の敷地内に残っているかもしれないが)