石塚城(城里町石塚) 

常北台地の最北端、水田低地より比高20mの台地辺部に5つの郭を巡らした平山城。
 城里町中心部の石塚の北に当たり、現在は宅地化が進み台地縁部に遺構が残るのみであるが、東西500m、南北200m程度の城域を持っていた。

 現在は四郭の真中を国道123号線(茂木街道)が走り、台地下からはS字状に登る手這坂と呼ばれる交通の難所となっている。
 坂の途中からは四郭と五郭間を仕切る堀が確認できる。

 当時は本郭と四郭の堀底が茂木街道であったと言われ、山方城同様、街道を取り込んだ関所城であった。

 築城は正平17年(1362)南朝勢力を駆逐した佐竹氏10代義篤の3男宗義によると言われ、以後、石塚氏を称し、以後、佐竹氏の重臣として活躍したが、同族である大山氏と領地争いを起こすことがあった。
 石塚氏はその後、佐竹氏の常陸国統一後、文禄元年(1592)片野城に移され、代わって佐竹氏の筆頭家老である東義堅が山方城より移って城主となったが、慶長7年(1602)秋田に去り、廃城となった。これにより足掛け240年の歴史に幕を閉じた。
 鳥瞰図は常北町史記載の縄張り図より作成したものである。台地辺部に3郭が並び、台地平坦部に続く部分に2郭を配している。
 六郭は城下町、宿場町を取り込んだ総構えであったと思われ、現在もこの地が常北町の中心街である。
三郭より二郭内を見る。 二郭内部 三郭東側の空堀跡
本郭、二郭間の堀は深さ6m、幅15mほどの
巨大なものである。
本郭の西側には土塁が巡る。 本郭と四郭間の堀も深さ6m、幅15mほどの
大きさがあり、堀底が茂木街道であった。

石塚大堀(常北町石塚)
石塚城から南に1.5km、那珂西城から北に2.5km、常北の台地中央部、石塚小学校南側の雑木林の中に堀がある。
この地の字名はずばり「大堀」である。確かに堀の存在を暗示する地名である。

この堀の存在は鉾田市在住の石崎氏から聞いて始めて知った訳であるが、石崎氏は大堀という地名から追っていって、堀があるはずと確信し、堀の存在を現地で確認したということである。
「堀の内」、「龍蓋」、「内堀」、「館」という地名は館跡を示している場合が多いが、大体、城館があったという伝承が残っていたり、現実に遺構が存在していたりする。

しかし、ここの「大堀」という地名は、堀の存在を暗示しているが、ここに城があったという記録も伝承もはない。

近くの城と言えば、石塚城と那珂西城である。
したがって、地名は「大堀」であるが、余程の感性がないと堀の存在は大概、気付くことはないだろう。
それに着目し、現実に堀を発見するのだから、石崎氏の着目は凄い。
地名から遺構を追うという方法もあるんだと改めて感心した。
しかし、現地に行ってみるとどこに堀があるのかさっぱり分からなかった。
林は結構あるが、人家が多く、人も多い。
どうも林の中に1人で入って行くのはこのご時勢少し抵抗がある。
(半月ほど前の平成17年12月、近くの常陸大宮市で雑木林の中で女児の殺害遺体が発見されたばかり。)
国道123号線東側にこのような溝を見つけた。 左の先を辿ると林の中にこのような堀が・・。

付近の道をうろちょろしていると、国道123号の東側の脇に左の写真のような溝を見つけた。
ちょうど、石塚小学校とその南にある「エコス」というショッピングセンターの間である。
もしかしてこれがそうか、と思い写真の先に写っている林の中に突入。すると間違いなく堀が延々と東に延びていた。

堀は深さ3m、幅12mほどのものであるが、堀底は落ち葉が厚く溜まっておりかなり埋没しているようである。
もともとは深さは5m程度あったのではないかと思われる。
この堀は国道脇から東に150mほど続いているが、東の端に行くほど浅くなり曖昧になる。果たして完成品であったのか疑問が残るところである。

一方、国道の西側は失われているようであるが、堀の延長先の地勢が若干浅くなっているので埋められているようである。
石崎氏によるとより西に行くと残っているとのことであるが、確認できなかった。
もし、台地の西の縁まで続いていたとするとかなりの総延長があったことになる。

この堀についてはいつ、誰が築いたか分からない。
街道閉塞の目的用であるのだろうが、那珂西方面から来る敵を阻止する目的なのか。
石塚方面からの敵を阻止する目的なのか不明である。
また、遺構からもそれを読み取ることもできない。

前者なら南北朝期かその少し後、那珂西城に拠った大臣系那珂氏が築いたことになり、後者なら戦国時代に入ったころ石塚城の石塚氏が築いたことになる。
ただし、前者の場合、那珂西城から遠過ぎるし、大臣系那珂氏にそれだけの勢力があったか疑問である。
後者の場合、当時は那珂西城も佐竹氏の支配下にあるので敢えてこの場所に堀を築く必要性は少ないように思える。
余りに直線的で、単純な点も気になる。
単なる領地の境界線として堀を築いたのかもしれない。
この付近で街道閉塞用の堀、土塁は那珂市の門部要害城位しかなく、県北では珍しい遺構であることには違いない。