那珂西城(城里町那珂西)

 那珂西城は那珂川の右岸,石塚台地の南端にあり、那珂川を隔てて対岸の戸村城に相対している。
 戸村城までの距離は直線で約1.5kmに過ぎない。

本郭のすぐ東側眼下には那珂川が流れており、那珂川が自然の大堀となっている。
 南側は西田川の浸食した低地が広がる。城のある台地の比高は30m。

台地の東端を利用した平山城。城には本城(本郭)、中城(二郭)、兵庫坪(三郭)の三つの郭があり、本郭が台地東端に位置し、その南西側を中城(二郭)が、南側を三郭が存在する梯郭式に類似する郭構成を採っている。

本郭は宝幢院の境内となり遺構が良く残っているが、二郭、三郭は畑地となり、国道沿いに三郭の大土塁が一部残るのみである。
 
城の来歴は必ずしも明確でないが、鎌倉時代の承久3年(1221)大中臣系の那珂一族という説が有力である。
 この一族は貞治4年(1365)那珂宗泰の代に尊氏に従って所領替えになり丹波に移った。
当地に残った一族の勢力は振るわず、佐竹氏の勢力に飲み込まれていったと思われる。

 本城の本郭部の規模は付近の城郭に比べて大きく、土塁の高さも3m、櫓台跡では4m程度の高さを有し、堀も深い。
 二郭の規模は分からないが、三郭(兵庫坪)に残る土塁も高さは4m程度あり、城域は広く、規模も大きかったものと推定される。
 本郭の東側には帯曲輪が存在していたようであり、両側を土塁に囲まれた堀底道状の通路がある。
築城当初は本郭部分のみの館であったと思われるが、戦国期に土塁を高くし、堀を深くし、さらに二郭、三郭を増築することで戦国城郭に発展していったものと思われる。

 佐竹氏の那珂西郡支配の拠点に相応しい規模と言える。本城も佐竹氏の秋田移封で廃城となっている。                 

本郭南西端の櫓台跡 本郭北側の堀 右は本郭北部分の土塁 国道沿いに残る兵庫坪西側の土塁
本郭内から虎口付近の土塁を見る。 本郭北側の土塁  本郭虎口を兵庫坪より見る。

 鳥瞰図は「常北町史」に記載された郭配置図から推定したものである。
この図では本郭の西側には防御施設が存在せず城外から城の心臓部である本郭に直接入る構造となってしまう。
東側、南側の防御が固いのに対してこれは不自然であり、本郭西側にも郭が存在していたものと思われる。