戦国時代の常陸国北部における城砦都市について
付 領民避難用の城


「戦国時代の城砦都市」と言えば、北条氏の「小田原城」に代表される城下町も含めて土塁などで囲む「総構え」が連想されるのが一般的であろう。
「総構え」イコール小田原城であり、これが小田原城の代名詞のような感さえある。
これは、小田原の役後、役に出陣した全国の各地の武将が小田原城の堅固さに感心し、小田原城の特徴である城下町を土塁などで囲む「総構え」が全国各地に広がったと言われる。
大阪城、江戸城などの総構えも小田原城の影響を受けているといい、「総構え」が小田原城起源と勘違いしている者も多いのではないかと思われる。
 
しかし、実際は小田原城規模の総構えまではいかないが、城下町(根小屋)も城に取り込んだ防衛体制は、日本各地に小田原の役以前から多く見られる。
伊勢長嶋しかり、石山本願寺、山科本願寺もその範疇に入る。
それ以前では鎌倉がある。鎌倉を囲む山が天然の防壁であり、実際に機能している。
この流れをくんでいるのが越前一乗谷だろうか。

世界各地には町の周囲を城壁で囲んだ城砦都市が古くから存在し、これも総構えであり、世界では一般的な都市形態の1つであると言える。
我が国においても吉野ヶ里遺跡が集落を堀で囲んだ城砦都市であるので弥生時代まで遡ることができるため、戦国時代特有のものではない。
総構えのコンセプトは昔から日本も含んだ世界各地に存在し、騒乱の時代に必要に迫られ技術的に発展したため、必然的にクローズアップされるのであろう。
戦国時代の日本の場合、規模の大小はあるものの、「総構え」と同じコンセプトのものは地域差を持つものの全国各地に存在していたと考えた方がよい。
だだし、そのタイプは必ずしも画一的ではなく地形に合わせ様々なパターンがあったようである。

戦国時代の「総構え」の発想は家臣とその家族のみならず、城下の領民とその住居等の財産も守る考えである。
封建社会は、領民は領主に年貢を納める義務を負うが、その代わり緊急時には領主は領民を守る義務を負うという、一種の暗黙の契約で成り立っていたと考えられる。
(石山本願寺の場合は、宗教によるものなのでこれには当てはまらいが。)
このギブアンドテイクの関係が守れない恐れがある場合は、敵の侵略に住民が協力しない形、あるいは住民の手で領主が見捨てられる形で追放されることもあった。
このため、敵からの侵略を受けた場合に備えて、専用の避難城を整備したり、時として領主は領民を城内に避難させ、一緒に籠城する場合も多かった。

山間部なら深い山中に領民避難用の城を整備しておけば、かなり安全である。
山間部は地形が守ってくれるが、平地部ではそうはいかない。
湖沼地帯であれば湖沼が守ってくれるが、そのような都合のいい場所はそうあるものではない。
結局、適切な避難場所がない訳である。そのため領主の城を避難場所にせざるをえない。
領主の城は何も守るものがない集落よりは安全であり、領主も防衛戦力として期待できる所もある。
これが特に平地部で城砦都市が発達した要因であろう。

当然、リスクはある。
最大のリスクは食料と排泄物処理であろう。
特に後者は疫病蔓延のもととなり、七尾城のようにそれが落城の主要原因となることもある。
また、落城した場合は、皆殺しにされたり、奴隷として売られたりすることもある。

那須氏系の城郭が兵力動員能力以上にやたら広いが、これは大量の領民を受け入れるためである。
これが発展したものが「総構え」に代表される戦国時代の城砦都市であろう。

とりあえず城に近い城下町部分を囲めば、家臣家族、領民ばかりではなくその住居等の財産も守ることが可能となり、領民に対する大きな安全保障となる。
これにより、家臣や領民の安心感と領主に対する支持・忠誠が高まることを期待、想定したものであることは想像に難くない。

そんな「総構え」に代表される「戦国時代の城砦都市」、常陸国には存在したか?答えは「YES」である。
それどころか城砦都市は特異なものではなく、一般的なものであったのである。
以下に常陸国北部の佐竹氏系城郭を中心にその概要を述べる。

1.佐竹氏本拠も「総構え」城郭である。
北条氏と佐竹氏は関東において戦国時代を通じて始終対立関係にあったが、佐竹氏が本拠とした常陸太田城、水戸城が「総構え」城郭であるという認識は薄い。
しかし、常陸太田城、水戸城も小田原城同様、城下町を取り込んだ城砦都市なのである。
それも小田原の役後ではなく、北条氏の全盛時代に既に並行して城砦都市が形成されていたと考えられるのである。


なお、小田原城の「総構え」が大きくクローズアップされるが、今残る姿は、小田原の役直前またはその最中にかなりの部分が拡張整備されたものであり、それ以前は総構え構造は有していたと思われるが、役以前はより簡素なものであっただろう。(なお、ここで言う小田原城、常陸太田城、水戸城は主郭部のみの狭義のものではなく城下町を含んだものである。)

小田原城の城下を囲む堀、土塁を常陸太田市街地、水戸市街地がある岡の縁部の崖に置き換えれば全く同じコンセプトとなる。

違いは小田原城が主に堀、土塁等の人工構築物で防御ラインを構築しているのに対し、常陸太田城、水戸城の場合は城及び城下町を乗せる台地の崖、急斜面という天然地形を利用している点にあるだけである。

台地の崖、急勾配の斜面などは一切、加工は不要である。
台地の崖自体が天然の防御施設であり、この地形を利用することは城郭整備経費の削減につながりコストパフォーマンスを高めることになる。
実際、この崖を目にすると、比高は20m以上あり、攻める立場で見ればかなり手ごわい障害物であることが理解できる。
常陸太田の総構え内に相当する旧市街地に岡の下から登る坂の1つに「板谷坂」があるが、「番屋」が語源であるという。
坂上には木戸があり、総構え内への出入りが管理されたことを示している。

ただし、常陸太田城、水戸城とも城下町の台地続きの部分は定番どおり堀で遮断している。
常陸太田城の場合は旧消防署付近に台地を分断する堀が存在したといい、砦に相当する法然寺が隣接する。
水戸城の場合は梅香トンネルが通る紀州堀がその名残である。

戦国時代、商人、僧、使者は現在考える以上に広範囲にわたり活発に相互に往来していたはずであり、間接的に小田原城の情報が入っていたのかもしれない。
小田原城の情報で総構えを整備した可能性もあるが、その逆であった可能性もある。

さらには築城技術者全てが大名お抱えではなく、石垣技術者のように全国規模で営業を行っていた技術者も存在したであろうし、武田氏のように滅亡した場合、お抱えの技術者が全国に拡散し、例えば福島県北塩原村の丸馬出を持つ柏木城のように武田氏の城郭技術が意外な地で見られたりする例もある。
(築城技術ではないが、常陸の金山の多くも甲斐から移ってきた鉱山技師により開発が進み、生産量が飛躍的に増加したとも言われる。)

水戸城の総構えは常陸太田城と同じ構造である。
水戸城と常陸太田城の城郭都市としての構造は同じである。これは常陸北部の大型城郭が台地縁部を利用して築城されるという地域性の共通点も理由の1つである。
もともと同じ立地のコンセプトのうえ、さらに常陸太田城をベースにその発展版として水戸城を整備したから当然、似た感じとなるのであろう。

台地縁部での築城を選択した理由は、河川に沿って平坦で広い台地が発達し、河川の流れる低地に面した台地縁部は天然の切岸であり、築城においては、もっとも安価でかつ広い曲輪の確保が可能で防御も満足できるというコストパフォーマンスを考慮した結果であるということは前述した通りである。

このような台地縁部を利用して築城された佐竹系城郭としては、部垂城、宇留野城、前小屋城、小場城、山方城(以上、常陸大宮市)、額田城、南酒出城、
戸村城、門部城、瓜連城(以上、那珂市)那珂西城、石塚城(以上、城里町)、石神城(東海村)、などが挙げられる。
いずれの城郭も居館や政庁機能、倉等が置ける広い曲輪を有し、どの城も似た印象を与える。

佐竹氏が水戸城を求めた理由は、


@常陸太田城が常陸国の北に偏っており、周囲に山が多く、常陸1国の統治に不便であったこと。
A水戸城は那珂川の水運が利用でき、物資の大量流通に有利である。
B常陸太田城では常陸国主としての政庁と城下町を置くのに手狭であり、限界が生じたため。
の3つが大きな理由であり、城から西側により広い台地が続き発展性がある水戸を選択したのであろう。

常陸太田城、水戸城にも小田原城の影響がないとは言えないが、常陸国の城に係る「総構え」構造は全国各地に存在するものと同様、必要性に応じて各地方で独立的に発生し、独自に発展してきたものではないかと思われる。
結局は城下町も防御施設で囲むという発想はまったく同じであり、それを地形に合わせアレンジしているだけの違いである。


現在、常陸国北部で「総構え」構造を持つ中世城郭としては、佐竹系城郭では、常陸太田城、茅根城、馬坂城、額田城、石神城、大山城、小場城、石塚城、山方城、門部城(門部要害城と合わせて)、戸村城などが挙げられる。
石神城は外郭に土塁が残存し、額田城や戸村城は曲輪が非常に多く、これは近隣の領民を避難させるためのスペースも兼ねているのであろう。
本郭、二、三郭等の城主要部と根小屋が融合しているようでさえある。
佐竹氏に係る小田城、真壁城、江戸氏の水戸城、大掾氏系の三村城、府中城なども該当するであろう。

いずれも城下町も城域に入っており、防御性を持たしている。特に小田城、真壁城は完全な平城であり、小田原城と非常に似ている。

県南の鹿行地方などに行くと、武井城、林中城等、領主の実力以上に広大な城郭が多いが、これらはすべて総構えの城と捉えれば良いであろう。

2.山城-根小屋タイプに見られる総構え形態
一方、麓に居館、根小屋があり、山上に詰めの城を持つタイプがある。
これは日本全国に一般的に見られ、山間または山が近い地域には古くから存在する。
平野部以外の中小土豪の城はほとんどこの形式である。

多くの場合、一見、居館、根小屋はそれほどの防御機能を有していないことが多く、緊急時には根小屋地区は放棄して領民ともども背後の山城に避難する構想だったと思われる。
そして、背後の山城が攻撃を受けた場合の防御の他、敵による麓の居館や根小屋地区への攻撃を牽制する役目を担う。
山上の詰めの城と麓に城と居館、根小屋が若干離れている場合が多いがこの山城-根小屋構造も地形を組み合わせて見れば「総構え」の1形態である。
この代表例が越前一乗谷だろう。


山間の城の場合、詰めの城の牽制機能と周囲の山と谷部を流れる川等の地形を上手く利用すれば、根小屋部を守ることは比較的容易である。
崖端城の崖や平城の場合の川や沼、湿地帯を置き換えれば同じことである。
古くから存在していた山城-根小屋タイプと平城、岡城・崖端城で見られる総構えは領民保護という目的で同じであり、地形に合わせてやり方が違うだけと言えるだろう。

常陸国北部においては、小瀬城、高部城、河内城、小舟城、大門城、内大野館がその代表的な例である。
いずれも麓の居館、根小屋の周囲は山や川を防御に上手く利用している。
高部城、河内城、小舟城、大門城の場合には、詰めの城の他に谷の対岸、あるいは居館と根小屋地区を囲むように「向城」と言われる出城を持ち、谷部の一定範囲を守るための防御システムとしている。
ただし、この形式は常陸国北部だけでなく、全国各地共通であろう。

○ 領民を城内に避難させる那須氏系城郭に見られる巨大山城は存在するか?

なお、常陸北部の山城には、領民を城内に避難させて一緒に籠城するような巨大な城は見当たらない。
(那須氏系の千本城、烏山城などは広大であるが、領民を受け入れる目的もあるからであろう。
山城ではないが、稲積城、沢村城もその機能がある。那須氏系ではないが茂木城も?)ほとんどの山城はコンパクトな造りである。
常陸中央部では桜川市の「羽黒山城」などが、領民も収納するような那須氏系の城と同じものに該当するのではないかと思われる。
かすみがうら市の「権現山城」の西側の広い平坦地「坂戸城」(桜川市)のある山の東側の平坦部も領民避難場所かもしれない。(軍勢の宿営地の可能性もあるが。)

該当する山城は少ないが、台地縁部に築城された城郭の総構えは緊急時に近隣の領民を内部に避難させることになっていたのであろう。

○領民避難用の専用城、「逃げ込み城」は存在したか?
領主も不明であるが曲輪が広い城がこの範疇に該当すると考えられる。

そのような城としては「伊勢畑南要害」「高館城」「氷の沢館」(常陸大宮市)、「相川要害」、「戸中要害」(大子町)、「石岡城」(北茨城市)がこれに相当するような感じであるが、確証はない。
「伊勢畑南要害」は古い感じであり、戦国時代以前のものかもしれないし、長倉城攻撃のための「陣城」の1つであった可能性もある。

「高館城」も陣城または未完成の城のようにも思える。
その緒川対岸の「氷の沢館」は狼煙リレー用の城だった可能性がある。
一番、可能性が高いのが「戸中要害」のような気がする。
ただし、この城は大子地方を佐竹氏と白河結城氏が争っていたころのもののようである。
すでに使われなくなった古い城を避難用の城として転用、再利用していた場合もあったであろう。

戦国時代にこの手の領民逃げ込み用の山城が全国各地に出現するが、常陸北部の場合、佐竹氏の支配が安定しており外敵の脅威が少なく発達しなかったのかもしれない。
 
常陸国北部ではないが、笠間市の「館岸城」、佐竹氏が対北条用に整備する前のつくば市の「多気山城」が「逃げ込み城」に該当するかもしれない。

逃げ込み城は多くは山間にあるが、特異な例が東海村の真崎城であろう。
真崎城は吃水湖である真崎浦と細浦の中に突き出した半島にある城であるが、生活遺物がなく、村松虚空蔵堂が岩城に攻撃された時、本尊を避難させたという記録もある。
また、最近は西側の陸部から城への整備された通路や出城のような場所も確認されている。
この城などは防御物を山から湖沼に置き換えた例であろう。

2-1 ハイブリッドタイプ
山城-根小屋タイプの中には、平地、崖端に立地する総構え要素を持つものがある。
これは、地形的に山城と崖端城の両方の要素を持つので、両方の特徴を具備していると捉えた方がよいのだろう。

利員城は典型的な山城-根小屋構造であるが、山麓の根小屋地区に堀、土塁等の防御施設を持つ。
小規模ながら根小屋地区自体が総構えと言えるであろう。

久米城は古くから存在する山城であるが、城主がこの山城に住んでいたとは思えない。

居館は南西山麓の現在の久米集落にあったと推定され、根小屋もこの地であろう。

この久米集落の西側は山田川の低地であり、台地上にある。遺構は確認できないが、南の久米十文字からの入口部は坂になっており、木戸が存在していたと思われ、この久米集落だけで、城砦都市の要素を備えていたと推定される。

また、山方城と高館城、町付城と荒蒔城は、山方城、町付城が政庁を兼ねた大きな居館である。

それぞれ高館城、荒蒔城との間には広い平坦な場所があり、しかも要害性のある台地である。

ここに根小屋が存在していたと想定され、これも山城-根小屋タイプの総構えのバリエーションの1つと言えるであろう。


2-2. 城砦群タイプ。
上記以外にも変則的なタイプが存在する。
多くの城館からなる城砦群である。
山方城(と高館城)、町付城と荒蒔城の場合もこのタイプに含めるべきかもしれない。

「向城」を持つ高部城、河内城、小舟城、大門城の場合もこれに該当するかもしれない。
いずれにせよ各タイプの境界は曖昧である。
山城-根小屋タイプの大型版というべきであろうか。

その1つとして、小里城砦群(常陸太田市大里町)が挙げられる。
里美地区にある小里城は小さな城であるが、背後の山に盾の台館と羽黒山城の2つの小城館を配置している。

この2城は小里城の支城であり、小里城の背後を守る役目がある。
この2城と里川により小里城が立地する里川の東岸一帯の河岸段丘上をある程度の安全が確保されたエリアとしている。

日立市十王地区にある山尾城、友部城、櫛形城に囲まれた地区も同様であろう。

上君田城砦群(高萩市上君田)は山間の小盆地中央に寺山館という中心城郭があり、周囲の山に4つほどの小城館を配置し、小盆地全体の安全を確保している。

また、山入城を中心とした曽目城、西染城、町田城、松平城、棚谷城、山小屋城からなる水府の谷の城砦群も上君田城砦群と同じコンセプトであるが、谷全体という広域を守る目的のものであり、支城群とか城砦ネットワークというべきものであり、上君田城砦群等とともにこの項での論議の対象からは外すべきであろう。


3.特異なタイプ
総構え構造でもあり、城砦群タイプにも属するが特異なタイプが存在する。

その1つとして瑞竜城砦群が挙げられる。

佐竹氏の本拠地、常陸太田城のある鯨ヶ丘台地の東側の南北に長い比高25m程度の半島状台地、瑞竜台地の南端部がその場所である。
この台地、幅は400mほどである。

城砦群と書いたが、小さな防衛用の砦も兼ねた館が周辺部に3つ、あるいは4つ(4つ目の小野館の場所は旧瑞竜小学校の地とも言われていたが発掘では遺構が確認できず特定できていない。)存在し、各小城館を櫓のように隅部に配置し、台地続きの北側部分を堀と土塁で区画している。
これも城砦都市と言うべきであろう。

館と堀、土塁で区画された内部は現在、宅地と畑であるが、武家の住居が存在していたものと思われ、旧棚倉街道も通っていたようなので宿もあったと思われる。

常陸太田城に隣接していることから、常陸太田城の防備を担当する佐竹氏の旗本クラスの居館団地、あるいは奥州に出陣する佐竹軍の軍勢集合地・宿営地ではなかったかと思う。

瑞竜城砦群と似た感じのものに門部城とその周辺城館が挙げられる。
東西に長い台地の東端に門部城を置き、台地続きの西側を長塁である門部要害城(谷津を挟んだ南の台地にある小屋場館や白河内館も南方向からの攻撃に対する防衛施設としてその一部の可能性がある。)で遮断し、その間の東西約1q、南北最大300mの地域を安全が確保された区域、すなわち城砦都市としている。

そして、この区域内を瓜連街道が通過している。
この区域内には宿もあったのであろう。
なお、中心となる門部城、遺構は少ないが、同規模の曲輪が4、5つほど台地北側縁部に並んだ武家住宅団地のような主郭が特定できない特異な形式の城である。

那珂台地中心部にも平地城館が近い距離で集中する場所がある。
しかし、各城館が有機的に連携している状況はなく、それぞれの城館が独立しており、瑞竜城砦群、門部城のような例とは異なる。

まとめ
以上の論点を以下にまとめる。

○ 佐竹氏系を始めとした常陸北部の台地に立地する大型城郭の多くが城下を取り込んだ総構え構造を持つ。
○ 総構えの防御施設として台地縁の崖、急斜面が利用される。
○ 佐竹氏が本拠とした常陸太田城、水戸城は同じコンセプトで造られ、ともに総構えを持つ。
○ 山間地に多い根小屋―山城タイプの城館も川なども利用し、場合によっては向城を設け、谷間の特定範囲を防御するタイプのものがあり、これも総構えの一種と見なせる。ただし、これは全国各地で確認され、常陸国北部特有のものではない。
○ 複数の城館で一定範囲を囲む、あるいは長塁を併用する城砦群タイプの城砦都市が確認される。

なお、台地縁部に築かれた総構えを持つ城の総構えは緊急時の近隣領民の避難場所としての機能もあるのが、同じ領民保護の観点から避難城について検討した結果は以下のとおりである。

○ 常陸国北部には緊急時に領民も城内に避難させ伴に籠城するタイプの大型の山城は確認できない。
○ 領民のみが避難するための専用の城の可能性を有する城はあるが、確証できるものはない。

これはこの地域において、特に戦国後期において佐竹氏の支配力が安定していた要因もあるのではないかと思われる。