岩戸砦(常陸大宮市上伊勢畑岩戸)
城マニアM氏が見つけた物件である。
でも遺構は堀切1本。それを求めて比高100m以上の急傾斜の道なき藪の中を行くほどの価値があるものか?
それなりの時間も要する。腹も減る。喉も乾く。おまけに斜面を落ち葉で転ぶ。
挙句の果ては下山中、道に迷い予想外の場所から麓に出る始末。
踏んだりけったりである。

もし、行こうとする物好きな者がいたら、よく考えていただきたい。
管理人はもうこんなコストパフォーマンスの悪い城に行くのはごめんこうむる。
2度と行かない。でも、せっかく行ったので記事にはする。

↑東から見た岩戸砦、ごつい山である。まともな道などない。

那珂川が流れる栃木、茨城県境付近、メインルートは国道123号線が通る那珂川北岸、ここに茂木街道が通過していた。
一方の南側にも街道がある。茂木街道のバイパスだろう。現在の県道212号線である。
この街道は片倉山(193)から張り出す尾根が那珂川にぶつかる場所が非常に峻嶮になっており、街道の難所となっている。
このため、茂木街道のパイパスはここを通っていたのではなく、今の県道291号線に沿って檜山方面に向かっていたのではないかと思う。


東の中腹に建つ「天照皇大神宮」。
名前に圧倒されるのであるが、実態は?

檜山には檜山城がある。その片倉山(193)から張り出す尾根が那珂川にぶつかる場所に目立つ山がある。
片倉山から北に張り出した尾根が那珂川にぶつかり、東に向きを変えた尾根の末端が盛り上がった山である。
那珂川を挟んだ北の山には野田城が見える。
国土地理院の地図ではこの山に163mの標高が記入されている。
その山が砦である。

東の麓(から高さで20mほど登った山の中腹、標高79.2m)に天照皇大神宮という凄い名前の神社がある。
略して天照神社とも言う。
しかし、名前とはうらはらに「悪いけど」超しなびた、田舎の神社である。
この山の麓(神社参道入口部)の標高は60.8mであるので比高は約100mである。
ちなみに北下を流れる那珂川の水面の標高は30mである。
なお、神社側からの道らしいものは存在しない。

@神社側の山の山頂部、
 平坦ではあるけど、自然の山
A鞍部にある堀切、唯一の確実な城郭遺構である。 B西側、片倉山側の平坦地。兵の駐屯スペース?
または住民の避難スペース?

誰かが歩いたような痕跡があるのでそれをたどる。
若干南側は笹竹が斜面に生えているので、それに掴まれば比較的登りやすい。
しかし、比高100mの道なき急斜面を登るのは体力の消耗は激しい。
ちょっと神社社殿から山頂までの斜度を計算してみた。
比高は84m、水平距離は150mであるので平均斜度は約30°である。
スキーのジャンプ台の最大斜度が35°、ダウンヒルコースの最大斜度が30°くらいなので結構急である。

で、息も絶え絶えになって到達した頂上部@、けっこうなだらか。平坦ではない。
三角点の建つ場所の北は崖である。
戦国時代以降、地震や風化で崩落が起き地形が変わっている可能性もある。
しかし、この山頂部には城郭遺構はない。
城郭遺構があったのはそこから西、尾根の鞍部である。

山頂から20mほど下、水平距離で80mほど行った場所、標高146m付近に小さいながらも幅4m、深さ3mのちゃんとした堀切Aがあった。
北側は崖であるので切通しの道ではない。南に竪堀が下り、下に井戸ようなくぼみがあった。遺構と言える人工物はこれだけである。

西に向かうと驚くくらい広く平坦な場所Bが展開していた。
結局は鞍部にあった堀切1本のみの城であり、他は自然地形である。
あくまで物見程度のものである。

ただし西側に展開する広い場所Bは住民の避難場所か軍勢の駐屯地のようにも見える。
さて、この砦の性格であるが、北の眼下と東の那珂川の下流方面は見える。
南も見える。しかし、西は見えない。東から登るのは困難である。
でも西側からは比較的登りやすい。
眼下の那珂川沿い、茂木街道の交通を見ていた城である可能性もあるが、東を見ていた城である可能性もある。
その東は山入の乱の山入氏側の拠点の1つ、長倉城がある。
山入の乱後はり佐竹氏の本土地区である。長倉城包囲網の1つ(西側のスペースが駐屯地)、茂木氏が佐竹氏を警戒するための城、住民避難の城、これらが想定できる。
時代によって城の目的は変わったいったのであろう。

野田城(常陸大宮市(旧御前山村)野田)

水戸と茂木をつなぐ国道123号線沿い、栃木県との県境付近にある。
眼下に那珂川を望む比高100mの山にあるが、意外に簡単に行ける。
野田地区から山王山自然公園に林道が延び、この道を行く。
道はくねくねとした道を登って行くが、途中から下りとなる。

この下りとなる道の最高地点の東側が主郭であり、そこから段々に南に曲輪が展開する。
主郭は南北50m、東西最大30m程度の三角形をしており、内部は緩やかに南に傾斜している。

北側は細尾根となり、堀切があるかと探したがなかった。
一方、南側に展開する曲輪群は3,4m程度の段差があるだけで、堀や土塁は確認できない。
林道側に降りる道があるが、これが当時のものかは分からない。
城のタイプとしてはかなり古い感じである。


戦国時代後半はこの地は佐竹氏の支配が確立しており比較的安定していたため、佐竹氏の支配地には住民の避難城のようなものは見当たらない。
そのため、戦国時代前半の山入の乱のころの城郭ではないかと思う。
少し東に長倉城があり、この城を巡って攻防戦が行われているが、攻城のための陣城ということも想定できる。

Pの遺跡侵攻記を参考にした。
南側、国道123号沿いから見た城址。
中央右に林道のガードレールが見え、その後ろが主郭部。
左の写真のガードレールの脇から撮った那珂川。
対岸は栃木県。左手の岡がが北古屋城。
@主郭部南側に展開する曲輪 A主郭南の切岸

大岩城(常陸大宮市(旧緒川村)大岩)

小舟城から烏山方面に県道12号線を走り、大岩地区に入ると南側にお堂があり、そこに「大岩城」の標識が立っている。

この背後の山の上が城址である。比高は70m程度である。
お堂の脇から道が山に延びているのでこの道を進めば、簡単に城址まで行けると思ったら大間違い。
とんでもない目にある。

道は途中でイバラの道となり、そのうちになくなってしまいどうにもならなくなる。
そういう時は、藪の中を強行直攀する他手はない。
結果から言えば、この城に行くには東側の谷津筋の道を南に進み、途中から尾根に出て、城址のある北側に向かうルートが距離は長くなるが、望ましい。

もし、行きたいという物好きな方がおられたらこのルートをお奨めする。と言ってもこの城、苦労して行くまでの価値がある遺構があるかというと、はっきり言って「ない」。

一応、城郭遺構はあるが、ごく普通の小規模な尾根城に過ぎない。
城は尾根先端のピーク部に主郭を置き、尾根続きの背後を2本の堀切で区切る典型的な尾根城のパターンである。

北側から斜面を強行直攀すると主郭部に出るが、意外と広い。
頂上部の曲輪は50m四方程度の広さを持ち、周囲の派生する尾根に段郭状に腰曲輪を持つ。
先端の主郭部だけで直径100mほどの広さがある。北端の曲輪の先は崖状の急斜面である。

主郭部背後の南側には4mほど下に長さ20mほどの曲輪があり、その南に深さ5mほどの堀切がある。
良く見ると西側には横堀がある。
お堂から延びる山道は本来はどうもここに合流していたようである。


堀切の南側にもう1本の堀切があり、ここが南端である。

その先にはピークがあるが、物見台か何かがあったようである。
城跡と聞いて山に登るとほとんど自然地形という山城が良くある。
こういう時はガックリきて疲労も倍増する。

この城は、規模は小さいがそれでもメリハリの利いた堀切、竪堀などが揃っており、一応の満足感を与えてくれる。
堀切は土塁を持ち、深さを稼いでいる。この形式は小舟城など佐竹系の城に多く見られ、この城も佐竹系であることを暗示しているようである。

築城時期や城主ははっきりはしないが、烏山大須木の松倉山観音堂の仏像(栃木県重要文化財)の内側に「応英永2年(1395)大岩治部小輔入道善藤」の銘があり、大岩氏という土豪がおり、その城であったとも思われる。
しかし、四恩院文書、小瀬義春旧臣録には大岩氏の名は無く、大岩村の家臣としては大沢和泉、田沢玄蕃の名が見えるだけであり、大岩氏の名は出てこない。
佐竹家臣録にも大岩氏の名はない。

しかし、この記録からはこの地区は佐竹一族小瀬氏の領土であることは明白であり、大岩城も小瀬氏の支配下にあり、小瀬城、小舟城の支城であったことが伺える。
那須氏の本拠、烏山と佐竹方の小舟城の中間地点にあるが、烏山との間には山があるが、小舟城までは谷沿いの道であり障害はない。

この城の西6qに那須氏の対佐竹最前線基地大木須城があるが、それに対抗する佐竹氏の城である。
しかし、那須氏が常陸国の佐竹領に侵攻することはなかったこと、また、城下は佐竹氏が那須氏を攻撃する際の侵攻路であったことから、宿城と連絡のための城であったものと思われる。

城址北山麓にあるお堂前に城址の標柱があり、
道が延びる。
しかし、その道を行くと・・・。
これが本郭内部である。
結構広いが内部は微妙に傾斜している。
しかし、藪が酷い。
本郭の南側4m下に曲輪があり、
その南に大きな堀切がある。
大岩城の堀切。
非常にはっきりしている。
堀切の南側には土塁があり、堀を深くしている。

菅又館(常陸大宮市若林字菅又)

常陸大宮市街地から御前山方面に県道21号を直進。
パチンコ屋さん付近の道を緒川方面に北上した仲坪地区にある。
このまま道を北上すると今市市の女児誘拐殺人事件の遺体発見現場である。

600mほど北上した地点、右の写真に示す西側の山の比高25m程度の山が館跡。
館の位置は、茨城県遺跡地図で確認。満を期して突入。
登り道は竹があり、何となく遺構が有りそうな期待を抱かせる。
横堀があるんじゃないかな?と、と、ところが、肝心の山には、城館らしい遺構は何もないのである。
ただの山である。この山は尾根状ではなく、丸っぽい山である。
堀や土塁、横堀とまでいかなくても、段々の切岸がある曲輪位あっても良さそうなものである。
しかし、ただの緩い傾斜の平坦地があるだけである。
山中を放浪しても何も発見できず。

ピークのような場所に左の写真に示す庚申塔だけがぽつんとあったのが印象的。
もしかして山を間違えたのかとも思ったが、ここで間違いないらしい。


城主は、宇都宮八田ノ庶流八田左衛門清重という。
しかし、この話、いったい何時ごろのものか、室町前期、戦国時代以前の話ではないか?
堀、土塁もなく、陣城程度にもあたらない感じであるが。本当にここ?