大岩関沢館(常陸大宮市大岩)36.6266、140.2537
2021年に新たに確認された城郭である。場所は小舟城、大岩城がある小舟川が流れる谷沿いである。
この付近では2020年に大岩古内館が確認されているが、その南東約800m、小舟川南岸の標高241m、小舟川からの比高が約80mの山に本館がある。
大岩城とは西に尾根と油河内(ゆごうと)方面に抜ける街道が通る谷を挟んで約350mという至近距離である。

↑ 北東側から見た館跡。この山の後ろ側に大岩城がある。撮影場所の後ろに大岩古内館がある。

城は「瓢箪型」をしており、北側に径約50mの本郭が、その南がくびれ、さらに曲輪を介し、南側の山に続く尾根鞍部を小規模な二重堀切Cで遮断している。
本郭の東側に天幅約13mの竪堀Bがあり、そこから北東に下る尾根@が大手道であったようである。

城内には竪堀Aから本郭Bの東下の帯曲輪を経て北側から入ったと推定され、坂虎口が確認できる。
本郭の南西下に窪地があり、井戸跡と思われる。
曲輪内部は平坦であるが、曲輪の西側の縁部が曖昧であり、簡素で古い印象を受ける。

歴史等は不明である。
大岩城の支城の可能性もあるが、大岩城との間に尾根があり連携が取れない。
狭い範囲に3つの城郭が存在するが、3城同時に機能していたかは分からない。
本館は大岩城や大岩古内館が築かれる前の時代の城郭であった可能もあろう。
あるいは簡素ではあるが広く、井戸もあることから、那須領に侵攻する佐竹勢の宿城の可能性も想定されよう。

@北東から登る尾根筋が大手道だろう。 A大手道を登ると竪堀Bに出る。ここは大手曲輪だろう。
B主郭、曲輪T内部はほぼ平坦である。 C南側は二重堀切Aで南に続く山地と遮断される。

大岩古内館(常陸大宮市大岩)
2020年にM氏により新規に確認された城館である。
この地区には大字を称した「大岩城」が存在するので、この城をさらに小字をつなげ「大岩古内館」と仮称する。

場所は常陸大宮市の北西の山間、小瀬地区西部、栃木県那須烏山市に隣接する大岩地区にある。
この地区は戦国時代、那須領に侵攻する佐竹氏の軍勢の進軍ルートであり、宿営を兼ねた拠点城郭として小舟城がある。
那須領との境目の城である。小舟城の西、小舟川に沿った県道12号線沿いには支城である大岩城がある。
大岩城は緊急時の物見でもあり、那須氏の軍勢が侵入した場合、狼煙などで小舟城に情報を伝達したと思われる。(もう1つの役目が南の油河内方面から延びる三差路の監視である。)

以前から疑問であったのは小舟川の流れるこの谷筋はカーブしており、大岩城から小舟城は直接見れないのである。
狼煙リレーの場合、その途中に中継するための狼煙第が存在していることが想定された。
その中継所の機能が想定されるのが城である。

しかし、規模は狼煙台などではない。どうやら、この城の西で北の鷲子方面からの街道が合流するので、その三差路を監視する役目もあったと思われる。
場所は小舟城の西約3q、大岩城の北東約1qにある三輪神社の裏、北の山、一帯である。
「一帯」という言葉を使ったが、城郭遺構がピークをまたがり3つの部分に存在するからである。
一辺約200mの三角形が城域である。

主郭部の比高は小舟川から約113mある。
予想以上に広く、とても狼煙台のレベルどころか、大岩城よりも大きいのではないかと思われる。

三輪神社↑の裏から道が山に延びる。
この道を登って行けば、城に行ける。

この道はかつて裏山で椎茸栽培が行われており、そこにアクセスするためのものと思われる。
その裏山(標高242.2m、36.6323、140.2594)が1つ目の遺構である。
仮の南出城とする。
山の東斜面で椎茸栽培が行われていたようであり、重機で山の斜面が削られ、一部、城郭遺構も破壊を受けているようである。

城郭遺構は3段の段郭から構成される。
切岸は最大で高さ約4mあり、明瞭である。
頂上部の曲輪Aは8m×20m程度の広さである。
帯曲輪の幅は約10m、頂上から2段下の帯曲輪@には土塁が見られる。
南出城の北側に鞍部(標高240m)があるが、そこはかなり広い。

南出城の西側の帯曲輪内を、あるいは東側を回るように登城路が存在したと思われ、北側の鞍部に出たものと思われる。
この鞍部が大手曲輪というべき場所であろう。
南出城は登城路で迎撃するポイントでもあると言えよう。
鞍部の北にそびえる山の上が主郭である。
鞍部から直接登るのではなく、西側を迂回して登ったようであり、山の西側に登城路らしい道が延び、主郭西下の腰曲輪に出る。

ここから西の尾根を行くと西側のピーク(標高258.0m、36.6329、140.2574)に行ける。
そこが西出城である。眼下に鷲子方面からの街道が合流する三差路が見える。
ここは主郭部の西を守るとともに西方と三差路を監視することが役目であろう。
段郭からなり、西下を横堀が覆う。

@南出城の腰曲輪、土塁を持つが埋没が激しい。 A南出城の主郭

一方、主郭部西下の腰曲輪から東に登った場所が主郭(標高268m、36.6332、140.2585)である。
主郭へは一度、周囲の帯曲輪に出て、さらに南側の曲輪Bから上がる。
直接、主郭には上がれない構造になっている。
主郭Cは東西約15m、南北約50mの大きさであり、内部は平坦である。
北側に堀切Dがある。

B主郭部南下の曲輪。 C主郭内部、平坦で広い。 D主郭北の堀切、ここが一番はっきりした遺構。

この堀切がこの城で一番、メリハリがある遺構である。
ここは一見、2重堀切に見えるが、主郭側は竪堀にはならず、主郭周囲を回る帯曲輪に合流する。
土塁付きの曲輪と言える。
北下の堀切は幅約8m、深さ約4mの規模、竪堀が東西に下る。

この堀切の先の尾根を下って行くと標高255mの鞍部に堀切Eがあり、さらに尾根が登りになる場所にも土橋付きの堀切がある。
さらにその先の標高286mピークに何かあるかと思ったが、そこは平場になっているだけ。
周囲に堀切もなかった。

おそらく山続きの北方面からの攻撃を警戒する見張る物見の場として使っていた程度のことが役目の場と思われる。
城域からは外れると思われる。

E Dの堀切の先の尾根鞍部にある堀切 F主郭東のピーク部は平場になっているが遺構はない。
ここは物見の場だろう。
G集落北の山にも城郭遺構があると思ったが・・ない!

さらにここから南東に尾根が延びるが、この尾根筋にも堀切は存在しない。
先端部、標高266mのピーク部(36.6338、140.2600)は径約15mの平場Fになっていたが、ここも物見程度には使っていたと思われる。

一方、南出城の南東、三輪神社東、集落北にもピーク(標高217.4m、36.6316、140.2615)がある。
ここのにも出城があるのではないかと言ってみたが、平場8があるだけであった。
ここも物見を置いた程度であろう。

以上が城の概要であるが、この規模と構造からは一時的に必要な時に使う城ではなく、しかるべき管理がされていた城であったと思われる。
おそらく、麓に城主、城代がいて部下を使って、城の管理をしていたのではないかと思われる。

三輪神社付近が一段、高いのでその付近に居館があったのではないかと思われる。
この場所は南向きの場でもあり、居住性も良い。しかし、記録はない。
城の規模から考えると大岩氏の主城は大岩城ではなく、この城ではなかったかもしれない。

大岩城(常陸大宮市(旧緒川村)大岩)

小舟城から烏山方面に県道12号線を走り、大岩地区に入ると南側にお堂があり、そこに「大岩城」の標識が立っている。

この背後の山の上が城址である。比高は70m程度である。
お堂の脇から道が山に延びているのでこの道を進めば、簡単に城址まで行けると思ったら大間違い。
とんでもない目にある。

道は途中でイバラの道となり、そのうちになくなってしまいどうにもならなくなる。
そういう時は、藪の中を強行直攀する他手はない。
結果から言えば、この城に行くには東側の谷津筋の道を南に進み、途中から尾根に出て、城址のある北側に向かうルートが距離は長くなるが、望ましい。

もし、行きたいという物好きな方がおられたらこのルートをお奨めする。と言ってもこの城、苦労して行くまでの価値がある遺構があるかというと、はっきり言って「ない」。

一応、城郭遺構はあるが、ごく普通の小規模な尾根城に過ぎない。
城は尾根先端のピーク部に主郭を置き、尾根続きの背後を2本の堀切で区切る典型的な尾根城のパターンである。

北側から斜面を強行直攀すると主郭部に出るが、意外と広い。
頂上部の曲輪は50m四方程度の広さを持ち、周囲の派生する尾根に段郭状に腰曲輪を持つ。
先端の主郭部だけで直径100mほどの広さがある。北端の曲輪の先は崖状の急斜面である。

主郭部背後の南側には4mほど下に長さ20mほどの曲輪があり、その南に深さ5mほどの堀切がある。
良く見ると西側には横堀がある。
お堂から延びる山道は本来はどうもここに合流していたようである。


堀切の南側にもう1本の堀切があり、ここが南端である。

その先にはピークがあるが、物見台か何かがあったようである。
城跡と聞いて山に登るとほとんど自然地形という山城が良くある。
こういう時はガックリきて疲労も倍増する。

この城は、規模は小さいがそれでもメリハリの利いた堀切、竪堀などが揃っており、一応の満足感を与えてくれる。
堀切は土塁を持ち、深さを稼いでいる。この形式は小舟城など佐竹系の城に多く見られ、この城も佐竹系であることを暗示しているようである。

築城時期や城主ははっきりはしないが、烏山大須木の松倉山観音堂の仏像(栃木県重要文化財)の内側に「応英永2年(1395)大岩治部小輔入道善藤」の銘があり、大岩氏という土豪がおり、その城であったとも思われる。
しかし、四恩院文書、小瀬義春旧臣録には大岩氏の名は無く、大岩村の家臣としては大沢和泉、田沢玄蕃の名が見えるだけであり、大岩氏の名は出てこない。
佐竹家臣録にも大岩氏の名はない。

しかし、この記録からはこの地区は佐竹一族小瀬氏の領土であることは明白であり、大岩城も小瀬氏の支配下にあり、小瀬城、小舟城の支城であったことが伺える。
那須氏の本拠、烏山と佐竹方の小舟城の中間地点にあるが、烏山との間には山があるが、小舟城までは谷沿いの道であり障害はない。

この城の西6qに那須氏の対佐竹最前線基地大木須城があるが、それに対抗する佐竹氏の城である。
しかし、那須氏が常陸国の佐竹領に侵攻することはなかったこと、また、城下は佐竹氏が那須氏を攻撃する際の侵攻路であったことから、宿城と連絡のための城であったものと思われる。

城址北山麓にあるお堂前に城址の標柱があり、
道が延びる。
しかし、その道を行くと・・・。
これが本郭内部である。
結構広いが内部は微妙に傾斜している。
しかし、藪が酷い。
本郭の南側4m下に曲輪があり、
その南に大きな堀切がある。
大岩城の堀切。
非常にはっきりしている。
堀切の南側には土塁があり、堀を深くしている。

岩戸砦(常陸大宮市上伊勢畑岩戸)
城マニアM氏が見つけた物件である。
でも遺構は堀切1本。それを求めて比高100m以上の急傾斜の道なき藪の中を行くほどの価値があるものか?
それなりの時間も要する。腹も減る。喉も乾く。おまけに斜面を落ち葉で転ぶ。
挙句の果ては下山中、道に迷い予想外の場所から麓に出る始末。
踏んだりけったりである。

もし、行こうとする物好きな者がいたら、よく考えていただきたい。
管理人はもうこんなコストパフォーマンスの悪い城に行くのはごめんこうむる。
2度と行かない。でも、せっかく行ったので記事にはする。

↑東から見た岩戸砦、ごつい山である。まともな道などない。

那珂川が流れる栃木、茨城県境付近、メインルートは国道123号線が通る那珂川北岸、ここに茂木街道が通過していた。
一方の南側にも街道がある。茂木街道のバイパスだろう。現在の県道212号線である。
この街道は片倉山(193)から張り出す尾根が那珂川にぶつかる場所が非常に峻嶮になっており、街道の難所となっている。
このため、茂木街道のパイパスはここを通っていたのではなく、今の県道291号線に沿って檜山方面に向かっていたのではないかと思う。


東の中腹に建つ「天照皇大神宮」。
名前に圧倒されるのであるが、実態は?

檜山には檜山城がある。その片倉山(193)から張り出す尾根が那珂川にぶつかる場所に目立つ山がある。
片倉山から北に張り出した尾根が那珂川にぶつかり、東に向きを変えた尾根の末端が盛り上がった山である。
那珂川を挟んだ北の山には野田城が見える。
国土地理院の地図ではこの山に163mの標高が記入されている。
その山が砦である。

東の麓(から高さで20mほど登った山の中腹、標高79.2m)に天照皇大神宮という凄い名前の神社がある。
略して天照神社とも言う。
しかし、名前とはうらはらに「悪いけど」超しなびた、田舎の神社である。
この山の麓(神社参道入口部)の標高は60.8mであるので比高は約100mである。
ちなみに北下を流れる那珂川の水面の標高は30mである。
なお、神社側からの道らしいものは存在しない。

@神社側の山の山頂部、
 平坦ではあるけど、自然の山
A鞍部にある堀切、唯一の確実な城郭遺構である。 B西側、片倉山側の平坦地。兵の駐屯スペース?
または住民の避難スペース?

誰かが歩いたような痕跡があるのでそれをたどる。
若干南側は笹竹が斜面に生えているので、それに掴まれば比較的登りやすい。
しかし、比高100mの道なき急斜面を登るのは体力の消耗は激しい。
ちょっと神社社殿から山頂までの斜度を計算してみた。
比高は84m、水平距離は150mであるので平均斜度は約30°である。
スキーのジャンプ台の最大斜度が35°、ダウンヒルコースの最大斜度が30°くらいなので結構急である。

で、息も絶え絶えになって到達した頂上部@、けっこうなだらか。平坦ではない。
三角点の建つ場所の北は崖である。
戦国時代以降、地震や風化で崩落が起き地形が変わっている可能性もある。
しかし、この山頂部には城郭遺構はない。
城郭遺構があったのはそこから西、尾根の鞍部である。

山頂から20mほど下、水平距離で80mほど行った場所、標高146m付近に小さいながらも幅4m、深さ3mのちゃんとした堀切Aがあった。
北側は崖であるので切通しの道ではない。南に竪堀が下り、下に井戸ようなくぼみがあった。遺構と言える人工物はこれだけである。

西に向かうと驚くくらい広く平坦な場所Bが展開していた。
結局は鞍部にあった堀切1本のみの城であり、他は自然地形である。
あくまで物見程度のものである。

ただし西側に展開する広い場所Bは住民の避難場所か軍勢の駐屯地のようにも見える。
さて、この砦の性格であるが、北の眼下と東の那珂川の下流方面は見える。
南も見える。しかし、西は見えない。東から登るのは困難である。
でも西側からは比較的登りやすい。
眼下の那珂川沿い、茂木街道の交通を見ていた城である可能性もあるが、東を見ていた城である可能性もある。
その東は山入の乱の山入氏側の拠点の1つ、長倉城がある。
山入の乱後はり佐竹氏の本土地区である。長倉城包囲網の1つ(西側のスペースが駐屯地)、茂木氏が佐竹氏を警戒するための城、住民避難の城、これらが想定できる。
時代によって城の目的は変わったいったのであろう。

野田城(常陸大宮市(旧御前山村)野田)

水戸と茂木をつなぐ国道123号線沿い、栃木県との県境付近にある。
眼下に那珂川を望む比高100mの山にあるが、意外に簡単に行ける。
野田地区から山王山自然公園に林道が延び、この道を行く。
道はくねくねとした道を登って行くが、途中から下りとなる。

この下りとなる道の最高地点の東側が主郭であり、そこから段々に南に曲輪が展開する。
主郭は南北50m、東西最大30m程度の三角形をしており、内部は緩やかに南に傾斜している。

北側は細尾根となり、堀切があるかと探したがなかった。
一方、南側に展開する曲輪群は3,4m程度の段差があるだけで、堀や土塁は確認できない。
林道側に降りる道があるが、これが当時のものかは分からない。
城のタイプとしてはかなり古い感じである。

戦国時代後半はこの地は佐竹氏の支配が確立しており比較的安定していたため、佐竹氏の支配地には住民の避難城のようなものは見当たらない。
そのため、戦国時代前半の山入の乱のころの城郭ではないかと思う。
少し東に長倉城があり、この城を巡って攻防戦が行われているが、攻城のための陣城ということも想定できる。

Pの遺跡侵攻記を参考にした。
南側、国道123号沿いから見た城址。
中央右に林道のガードレールが見え、その後ろが主郭部。
左の写真のガードレールの脇から撮った那珂川。
対岸は栃木県。左手の岡がが北古屋城。
@主郭部南側に展開する曲輪 A主郭南の切岸

菅又館(常陸大宮市若林字菅又)

常陸大宮市街地から御前山方面に県道21号を直進。
パチンコ屋さん付近の道を緒川方面に北上した仲坪地区にある。
このまま道を北上すると今市市の女児誘拐殺人事件の遺体発見現場である。

600mほど北上した地点、右の写真に示す西側の山の比高25m程度の山が館跡。
館の位置は、茨城県遺跡地図で確認。満を期して突入。
登り道は竹があり、何となく遺構が有りそうな期待を抱かせる。
横堀があるんじゃないかな?と、と、ところが、肝心の山には、城館らしい遺構は何もないのである。
ただの山である。この山は尾根状ではなく、丸っぽい山である。
堀や土塁、横堀とまでいかなくても、段々の切岸がある曲輪位あっても良さそうなものである。
しかし、ただの緩い傾斜の平坦地があるだけである。
山中を放浪しても何も発見できず。

ピークのような場所に左の写真に示す庚申塔だけがぽつんとあったのが印象的。
もしかして山を間違えたのかとも思ったが、ここで間違いないらしい。

城主は、宇都宮八田ノ庶流八田左衛門清重という。
しかし、この話、いったい何時ごろのものか、室町前期、戦国時代以前の話ではないか?
堀、土塁もなく、陣城程度にもあたらない感じであるが。本当にここ?