河内上の城(常陸大宮市鷲子)
河内城のある鷲子は那須領との境にあたり、多くの城郭が存在する。
その中心の城が河内城である。
拠点城郭に相応しい城である。

しかし、行ってみて気が付くのだが、城の末端部が非常に中途半端なのである。
小さな堀切を過ぎれば山は登りになるだけであり、その先に城郭遺構はないのである。

これでは背後、東側に回り込まれれば簡単に攻略できてしまうのではないか?
そこで東側の山に行ってみる。
しばらくはただの山が続く。そしてやはりあった。

河内城から続く尾根上の北東約400m、比高約60mの地点(36.6626、140.2549)の標高334mのピーク付近に城郭遺構が・・・。
ここが河内城の背後を守る砦である。

↑南側の河内向館付近から見た河内城と上の城

でも、尾根伝いの侵攻を防ぐだけなので尾根に堀切を入れただけの簡素なものに過ぎない。
主郭に比定される場所Aはピーク部であるが、南北に径約10mの平場があり、その間が2mほど低く、通路の平場になっているだけ。
長さは約40mである。
そこから約20m北に堀切Bがある。
その先にくぼみがあるが、倒木跡にしては大きい。
でもこれが堀跡かどうかは何とも言えない。

@南側、河内城側にある堀切 Aここが主郭部であるが・・藪! B主郭北下の堀切

一方、南側、河内城方面は約70m南、比高で約20m下の場所に堀切@がある。
全長約120mであるが、城郭遺構はごく一部、他はほとんど自然地形である。

立ノ山館(常陸大宮市鷲子)36.6520、140.2650
城郭が密集する栃木県境に近い緒川が流れる鷲子の谷筋にある。
この地の西は佐竹氏と何度も抗争を繰り返した那須氏の領土であり国境地帯である。


「道の駅みわ」を出て、国道号線を栃木県方向に走行すると、正面に山が迫る。
この山が「立ノ山」、ここが館である。
山頂に愛宕神社がある。ここからの比高は約100mである。

下野で異変が起きたら狼煙リレーでその情報を常陸太田城に伝えたと思われ、この谷筋にも狼煙リレーに関わる城郭が存在していたのは間違いない。
しかし、この緒川の谷筋、谷が湾曲しているため、狼煙が伝えにくい部分がある。
特に河内城-高部城間は直接見ることが出来ず、どこかに中継ポイントがないとリレーが成り立たないのである。
その中継ポイントと推定される城郭が本館である。

本館がある山からは、北西約1.6kmに河内城が、東約4.2kmに高部城が直接見ることができる。
この山は「立ノ山」と言うが、「立」は本来「館(たて)」という意味であろう。
館跡には愛宕神社が建っており、東から参道が着いている。

@山頂の主郭に建つ「愛宕神社」 A主郭から北に下る尾根にある堀切。
唯一の明確な城郭遺構。

神社の建つ場所は直径9mの平坦地@である。
その場の標高は295m、緒川からの比高は約100mである。
狼煙台であるから遺構は乏しい。
明確な遺構は山頂部から北に派生する尾根に土橋付きの堀切Aが確認出来る程度である。

西に尾根が続くが、神社の西側が平場になっており、ピーク部があるがそこから北に竪土塁が下る。
また南下には竪堀が下る。
その西側は幅2〜3mの比較的広い尾根が山地に続いて行く。

小田野新城(常陸大宮市小田野)
「新城」と名付けたが、これは仮名である。
戦国末期の比較的新しい時代の城という意味ではない。
最近、見つかったのでそう名付けたに過ぎない。

場所は旧美和地区の国道293号線沿いにある「道の駅みわ 北斗星」の北350mにある標高287mの山が主要部である。
「道の駅みわ」からの比高は約100mである。
発見したのはI氏とT氏、完全シーズンオフの2021年5月という。なんでこんなシーズンオフに藪の山に入るかというと2人ともビョーニンだからである。

その情報に基づき、地元、常陸大宮市職員、茨城県中世城郭総合調査委員会の調査員のメンバーで6月6日に確認に行った訳である。
この人達もまあビョーニンである。俺もその1人であるのが悲しい?いや、同病者がこんなにいて嬉しい!

でも当日は小雨模様、当然、ちゃんとした道などはない。
比高も100mほどあり傾斜も急、凄い湿度で汗はダラダラという最悪のコンディション、やはり、藪の山城に行くのは冬場が理想である。
そんな最悪のコンディション下で行ったのであるが、それに見合う遺構じゃなかった。
やはり苦労に見合う遺構は拝ませてもらいたいものである。
コストパフォーマンスは最低である。
もっとも空振り三振でないだけいいけど。内野安打級かな?

堀切は何本かあり、全て本物、切通しではなかった。切り札は二重堀切である。堀切の位置は上の図の通りである。
しかし、曲輪は明確ではなくかなり曖昧な感じであった。

城には東側の小田野川沿いにある貯木場付近から急な作業道をあがり尾根上に出、そこから尾根上を西に進む。
まず、堀切@がある。幅約7m、深さ約3mの比較的明瞭である。ところが、堀切の前後にはなにもない。この堀切は境界堀か?

@尾根に突然、出現する堀切を越える調査隊。
この堀切の前後には遺構はなく、境界堀か?
ATの南東端の堀切と土橋、ここからが城域。 BTの最高箇所、一段高く、上は平坦になっている。

そこから尾根を北西に行くとピークがあるが、上は平坦化されており曲輪のような感じである。
でも付近に遺構はない。
さらに尾根を進むと土橋を持つ浅い堀切Aがあり、西側は犬走りとなる。
犬走りは下にもう一段ある。

Aの北側が城郭の主体部(T)であるが、段々状になっているだけである。
標高287mの最高箇所(36.6585、140.2796)Bも平坦にはなっているがメリハリはない。

これまでの遺構ではここが城郭なのか、判断できないが、決定的な遺構はそこから尾根を北に下った場所にある二重堀切Cである。
2本とも幅は約3m、深さは約1mに過ぎないが明瞭な城郭遺構である。
さらに北にピークがあるが、そこも上は平坦である。

CTの北西側尾根にある二重堀切の1本目。 D Uの南側尾根にある3本の堀切の2本目。

ここから東に尾根が延び、その尾根筋に堀切が2本Dがあり、さらに1本の堀切を越えると石の祠がある平坦なピーク(281.8m 36.6605、140.2793)に出る。
ここも曲輪らしい。ここから東は急な尾根となり、小田野川方面への下りとなる。

この部分はTとは独立した別の城(U)と言った感じではあるが、出城のような感じでもある。
果たして独立した城か、連携した城か?

城の歴史は分からない。
立地からして北にある小田野城の南を守る城のようにも見えるが、それなら小田野の谷の入口部であるもっと東側にあるのではないかとも思うが?
あるいは西側の河内城方面から高部城方面への狼煙リレーの中継所であったかもしれない。
緒川が流れる河内城のある鷲子地区と高部城のある高部地区は谷がカーブしており、山もあるので直接、狼煙リレ−はできない。
その間に中継する場所が必要と考えられたが、それらしい場所が確認できなかった。

なお、この谷筋の南側の山、花立公園がある山がそれではないかと思えたが、この山、公園化により遺構があったのかどうかは分からなくなっている。
(ちなみに、「花立」は「旗立て」が訛ったという例もあり、城郭に係る地名の可能性がある。)

遺構の規模からすれば狼煙台のような役目ではなかったかと思うが?果たして?
(地図は国土地理院の地図を切り抜いて使用)

小田野城(常陸大宮市(旧美和村)小田野)

 美和支所の西にある小田野の十字路を県道234号線に入って2kmほど北上すると西側に三浦神社がある。

この神社がある山の1つ南側の山が城址。標高は280m、比高は50m程度。城のある山は山麓部の勾配が急であり、登り口も良く分からないが、城址入口の標のある所から藪状態の尾根に上がると歩ける道に出る。

城のある部分は緩やかな尾根である。
この尾根に沿って直線連郭式に郭が展開するが郭も狭く、遺構も大したことはない。
どうも戦時の避難城程度のものであったと思われる。
居館は山麓に営まれていたのであろう。

最東端の曲輪 本郭内部。直径15m程度。
北側の土壇がある。
西側の二重堀切西側。深さ3m程度。 最西端の堀切。
この先は尾根道が続くのみである。

 南北朝期那賀城の那珂一族を滅ぼした佐竹氏が領土であったこの地を山入氏の一族小田野氏に与えて築城したという。
 その後、山入の乱が起こるが、この小田野氏は山入氏側には組みせず、佐竹宗家側に立ち、最後は国安城を逃亡した山入り氏義を小田野氏が捕らえて殺害している。

 以後、小田野氏は佐竹氏に従って行動し、城は佐竹氏の秋田移封により廃城となった。
 小田野氏は秋田に移った者と帰農した者に別れ、今でも小田野姓は多い。

小瀬館(常陸大宮市(旧緒川村)小瀬) 

小瀬館は佐竹氏八代貞義の三男義春が足利尊氏から小瀬を貰い築城した。
ただし、この城が北にある小瀬城なのか、この小瀬館なのかはっきりしない。
どちらが先かはともかく、尾根式城郭の小瀬城は居住性はなく、詰めの城であろう。

小瀬館の主郭部は緒川総合センターとなっていて、台地周辺に空堀の跡や竪堀を見ることができる。
総合センターの建つ場所はかなりの広さを持ち、小瀬氏の居館や政庁があったのはこの小瀬館であろう。

また、東麓のお菓子のふるさわ周辺は「根古屋(ねこや)」といって、家臣団や小瀬氏が普段住んでいた所と考えられる。
総合センターの建設で館の主要部は大きく破壊されてしまったが、建設前の地形模型が残っていた。

その模型を基に作成したのが下の復元想像図である。
主郭部は北東側が高かったようだが削平されてしまっている。
しかし、周辺部は比較的良く残っていた。
北東端部のA、Bが土壇状になっており、腰曲輪が残る。
東側Cと北側Dに犬走りが残る。西側Eにも帯曲輪が残る。

小瀬義春は足利尊氏の奉公衆として、各地の合戦に従った。常陸では、瓜連城を攻略し、笠間城攻めを行い、武功を挙げた。
小瀬城の北にある江畔寺には、義春の化身仏と伝わる愛宕地蔵尊がある。
小瀬氏は、山入の乱で一時期山入氏側に立ったようだが、佐竹宗家に降伏し、その後は佐竹家臣として各地の戦いに従軍した。小瀬氏は佐竹氏の秋田転封に従ったため、この頃に廃城となったものと考えられる。

@主郭部があった地は
緒川総合センターになっている。
A手つかずで残る北東端の土壇 BAの土壇内部は当時のままの姿、
周囲に腰曲輪がある。
C東側斜面には犬走りがある。道路は堀跡。 D北側の犬走り E西側に残る帯曲輪

(2016.12.10再訪)


以前の記事(訪問2000年8月)

城のある地は独立した細長い台地であり、北端が緒川と舟川の合流点、その北側が小瀬城である。
四方が崖となる要害性を持つ。
この北端部が最も高く、城はそこから南に向かって三段となっており、緒川村総合センターの駐車場ある地が本郭、公民館の地が二郭、緒川中学校のある地が三郭。
東西100m、南北400m程度はある。
本郭 北側 斜面下に帯曲輪がある。 本郭の地 緒川村総合センター駐車場 二郭の地より、三郭(緒川中学校)を見る。二郭の地より、三郭(緒川中学校)を見る。

高倉城(常陸大宮市小野)

 那珂川左岸の低地の水田地帯に望む台地突端部に位置する。
 小場城の北約3kmにあり立地条件はほとんど同じ。
 西側は水田地帯、北と南は侵食谷が天然の要害となる。

 東側のみが台地平坦部に続く。
低地からの比高は約30m。

現在は城祉は畑となり明確な遺構は確認できないが、台地先端部等林に覆われている部分も多く、この中に遺構が存在する可能性もある。

 上小屋館(常陸大宮市北塩子細目)

 常陸大宮市中心部から旧緒川村方面に向かい、北塩子で御前山方面に向かう県道161号線と分かれる交差点の南西側の丘の上にある。
 館主等は不明。