茨城県北部の南北朝期の城郭
 常陸国は南北朝時代、小田城、関城、大宝城や瓜連城を舞台に南朝方と北朝方が激しく戦った。
 戦国期まで続いた城で当時、既に存在していた城も多いが、南北朝期にしか使われなかった城がいくつかあり、戦国期とは異なる姿を今日まで伝え、その違いを知ることができる。
 瓜連城については別にページを起こしているのでここではそれ以外の南北朝期のみの期間使われた城をまとめてみる。

御前山城(城里町桂赤沢) 

 旧桂村最北端、御前山大橋の西にある標高180mの御前山山頂部に城址がある。
 麓の御前山大橋付近からの比高は150mほどである。
城址には御前山大橋付近からの自然遊歩道を登る。
 杉の大木が生い茂った城址までの道は1km位続き結構きつい。

 城址付近は西から張出した尾根上にあるため比較的平坦である。
 東側には物見台跡と言われる平地@があり東屋が建つ。
この西側のやや登った所が本郭である。

 東側に土塁が見られるが藪がひどくて良く確認できない。
 しかし、本郭の西側の尾根を遮断する切岸Aと堀Bは良く残る。
切岸は高さ3m近くあり、西に虎口が開いている。

 その西側が二郭であり、やはり西側に尾根を遮断するように土塁Cと堀Dがある。
この部分は食い違い虎口になっている。
 ここの土塁も3、4mの高さがある。

さらに西に向うと平坦地が続き、途中に堀切Eが2箇所ほどあるが、結構、埋没状態にある。

 本郭から500m程行くと、道が2つに分岐し、西側の尾根に続く道と鐘付堂に向う道に分かれる。
ここにも堀切と土橋がある。
鐘付堂Fはその分岐点より南西に100mほど行った場所にある尾根の高まりであり、そこにも東屋が建てられている。

 この城は西側以外に攻め口はない。
このため、本郭を東に置き、西側の尾根筋の防備を固めている。
鐘付堂は西方向を監視する物見台であり、来敵の際には鐘を鳴らして味方に知らせたのであろう。

 規模が大きい城にも係わらず、戦国期まで下っても資料にこの城の名前は見られない。
築城時期は鎌倉時代と推定されるが、築城者等詳細は不明。南北朝の騒乱では南朝方がこの城に篭城したという言い伝えもある。

 当時はこの周辺は那賀城に本拠を置く那珂氏の領土であり、城の遺構も南北朝期のものと思われるのでこの説が真実に近いと思われる。

 城は東西に800mの長さがあり、連郭式と言える。
 単純かつ壮大な点では南北朝期の城郭の特徴を備えている。

 
 700年近い歳月を経ているにも係わらず遺構は良く残っている。
 場所的に那珂川が山地を越え、平野部に出る地点であり、眺望も良い。

 戦国期は山入の乱における長倉城攻撃での陣城として活用されたと思われる。
この地は佐竹氏重臣大山氏の支配地であり、山間を抜けた那珂川が平野部に出る場所に当たる要衝の地でもあるため、砦や物見台程度の施設はあったものと思われる。
また、対岸が野口城であり、御前山城とペアで那珂川沿い、茂木街道の交通を遮断できるので、野口城の向城の役目も想定されよう。
 本郭、二郭の西側の虎口やその西側の堀切は戦国期のもののように感じる。

@ 東の物見台跡 A本郭西虎口 B本郭西虎口の堀 C二郭西虎口と土塁
D二郭西虎口の堀 E鐘付堂跡との分岐点の土橋 F鐘付堂跡。西方面の物見である。 麓から見た御前山

櫛形城(日立市(旧十王町)友部)

十王には代表的な3つの城郭があり、北から櫛形城、山尾城、友部城が500〜600mの距離を置いて並ぶ。
 いずれも十王友部にあるため別名を「友部城」というややこしいことになっている。

 この櫛形城は鎌倉時代嘉元元年(1302)小田氏の分家、宍戸城の宍戸五郎佐衛門宗時が築城し、2代在城したが、
南北朝の騒乱で小田氏が北朝に降伏すると城を追われ、代わりに佐竹氏の重臣小野崎通胤が入り、南朝方の菅股城、竜子山城の大塚氏に備えたという。
 暦応4年(1343)ころのことと言われる。
その後、小野崎氏は友部城に移り、次いで山尾城に移ったため廃城となった。

 この城は純粋な南北朝期の城といった感じである。
法鷲院の北側の山が城址であり、杉林で覆われている。
南側は十王川の谷であり、川からの比高は50mはある。
他の三方向については比較的緩やかな傾斜を持つ。

 城は南北70m、東西45mの単郭である。
郭内は土塁等もあるらしいが藪状態であり確認できない。
郭の規模は館に近いものであるが、この城の特徴はこの郭の周りを幅、深さとも8m程度はある堀と土塁が南側を除いてぐるりと取り巻いていることである。

総延長は300m近くあり完存している。
堀と土塁は郭の形状に沿ってカーブしているものの横矢等、戦国期の城郭のような技巧的なものはない。直線的に100mも続く堀底は圧倒的な迫力がある。
瓜連城や小山の鷲城の遺構で見るような単純かつ壮大ないかにも南北朝期特有の遺構である。
西側の土塁と堀。右が本郭。 本郭北側の堀と土塁。東に向けてカーブしている。 本郭内部。平坦ではあるが藪状態。

戦国時代後期は小野崎氏の本城、山尾城の北を守る城として活用されたと思われる。

上岩瀬館(常陸大宮市岩瀬) 

 平安時代末期、上野国安曽郡飯川の領主、安曽五郎義昌の孫、義教がこの地に任ぜられ岩瀬氏を名乗って築館したという。
 その子与一太郎は源頼朝の金砂攻撃に佐竹氏に従って敗れたが忠孝を認められ領地を安堵されたことが吾妻鏡に書かれている。
 その後、3代後義光は南北朝の騒乱で南朝に組して没落して廃館になったと言う。
 館址は大宮町南東端部の久慈川の右岸河岸段丘上にあり、西側は一面の水田地帯である。
 館址は誕生寺の境内となっており、東西200m、南北250mの広さを持つ。南側に土塁と堀が確認できるのみ。
南側に残る土塁と堀 誕生寺 山門 境内に幼稚園がある。


梶内城(常陸大宮市(旧緒川村)大字那賀)

 那賀城の南側、侵食谷を挟んで立地する。
 来歴は明確でないが、那賀城の外郭、出城ではなかったかと思われる。
 城址は平坦であり縄文中期の遺跡である梶内遺跡、陣向内遺跡と複合し、土器、石器が大量に落ちている。石斧、石剣、石鏃等を見つけて拾うのに思わず夢中になってしまった。
 陣向という地名からも城館との関係が示唆されるが明確な遺構は確認できない。

那賀城側から侵食谷を挟んで梶内城側を見る。道は虎口のように見える。 城祉内部。