東金砂神社は果たして城か?

頼朝による佐竹氏攻撃、いわゆる「金砂合戦」それから常陸の南北朝の騒乱「瓜連合戦」、さらに佐竹氏の内乱「山入の乱」この3つの合戦に佐竹氏が篭った城として登場するのが「金砂山城」である。
現在の西金砂神社の地である。

西側が崖であり、残り3方が急斜面の山上の小さな平坦地が城であるが、そこは地形だけで城として成り立つので、はっきりした城郭遺構はほとんど確認できない。
この西金砂神社、このような経緯があるので佐竹氏の崇拝を受けている。

西金砂神社があれば、対として当然、東がある。
それが東金砂神社である。

両者の関係は、西金砂神社は女神、東金砂神社はその弟の男神を奉っているという。
両方とも元々は古代にこの地に渡来した海洋氏族によって開かれたと言われ、その伝承が72年に一度開催される「金砂大祭礼」という形で伝わる。
戦国時代、東西の金砂神社、ともに佐竹氏の崇拝を受けているが、西金砂神社は後に水戸徳川氏も強く係っており、「金砂大祭礼」では佐竹色と徳川色の姿が半々である。
これに対して東金砂神社は佐竹色一色であり、徳川色は感じられない。

写真は2003年3月19日常陸太田市幸久小学校会場で開催された東金砂神社の神事である。
神輿の担ぎ手の背には佐竹紋が・・

↑大祭礼の行列は佐竹紋を配した幟や道具が使われ、佐竹氏の軍事パレードの感を呈する。


一応、東金砂神社の解説には次のように書かれる。
『東金砂山の頂上に位置する神社で,祭神は大己貴命と少彦名命。
山田川の谷を挟んで西金砂神社と対をなす。

創建は西金砂神社と同じく延暦25年(806)、平城天皇の勅願によって宝珠上人が社殿を造営し、祭壇を設けて、近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀し、国家安泰,五穀豊穣の祈願所としたのが始まりとされる。

その翌年には、坂上田村麿が蝦夷征伐の際に多宝塔を建立。
中世には源頼義とその子義家が奥州征討の際に勝利を祈願したほか、祈願所と定めた佐竹氏は神領1,200石を献じ、家紋の扇を当社の紋章に使用することを認めた。

近世に入っても、徳川3代将軍家光が社領24石を寄進するなど創建以来手厚い保護を受けてきた。
樹齢約500年を誇る御神木のモチノキは茨城県指定文化財。
72年ごとに行われる大祭礼や毎年2月11日(旧暦正月3日)に行われる嵐除祭,また,それらの際に奉納される田楽舞などでも知られる。
(茨城県及び常陸太田市のHP参考)』

↑は仁王門までの石段D

東金砂神社は西金砂神社の地ほど合戦には登場して来ないが、山入の乱の最終場面で舞台となっている。
山入の乱において、山入氏の攻撃を受け孫根城を脱出した佐竹義舜(よしきよ)はまずこの東金砂山に籠城する。
しかし、山入氏の攻撃に耐え切れず金砂山城に逃れ、ここで山入氏を破ったと伝えられる。

ここで疑問なのは、なぜ、佐竹義舜は先祖が2度使用した金砂山城を最初に使わなかったかという点である。
孫根城からは金砂山城の方が近く、こちらの東金砂神社の地は孫根城からは山入氏の本領を横断しないとたどり着けないのである。
信仰の観点から東金砂山神社に籠城したか、神社関係者が佐竹義舜に近い者であったのかもしれない。
または西金砂神社がこの時点では山入氏側に抑えられていたのかもしれない。

ともかく、食料確保が可能であり、防御機能が少ない場所に籠城することはありえない。
神社関係者が佐竹義舜の支援者であったから食料は確保できたのであろう。
もう1つの要素である要害性、確かに東金砂神社のある地は深山の中であり、容易には近づけない場所ではある。

←は本殿までの途中にある田楽殿E、この場所も曲輪と言えばそんな感じである。
また、明らかに東金砂神社への道を抑える城として北西の天下野(けがの)からの道の入口部に「追野平城」が存在している事実もある。
城の立地する山への入口部を抑える城が存在するのは、金砂山城へつながる道沿いに天下野館、赤土圷館等が立地する例と同じである。
(東の東染方面からの道を抑える城は未確認であるが、もどこかに存在している可能性がある。)

しかし、神社の建つ場所はそれほど険しい地形ではない。
←の本殿Fは山の頂上ではない。
山の斜面部に段郭状に平坦地を設けただけである。

要害性だけを着目すれば金砂山城よりはるかに劣る感じがする。
本殿の北には山が続いているのである。この山側から攻撃されたら一たまりもない。
この北側に延びる山になにかあるのではないか?そこで本殿の北側の山に突入。

その結論、『城として使われた可能性あり。』
まず、この神社に参拝する人は本殿までにしか行かない。
その先まで行く人などほとんどいないだろう。
本殿のある場所Fの標高は467m、駐車場が417mなので比高は50mほど。
その間には標高430m地点に社務所があり、急な石段を登ると山門や田楽舞台の田楽殿などがある平地Eがある。
山の東側には本殿裏まで通じる山道がある。
その途中にも帯曲輪のような場所もある。

しかし、この神社のある山の最高地点Bは481m、本殿より15mほど高い。
その場所はこの山系では最も標高が高い場所である。
本殿からそこまでは幅10mほどの比較的広い緩やかな尾根が続く。


@本殿北側、山頂部との間にこのような窪みが・・。
これは道の跡のようにも見えるが・・
あるいは堀跡である可能性も残る。
A山頂に向かう尾根から見た本殿 Bここが東金砂山山頂。大きな石が2つある。 C山頂北側に幅広い平坦地が続く。

尾根続きの本殿北側には堀跡と思えるような場所@もある。
道跡の可能性もあるが、道なら西側で行き止まり状態となり途切れてしまう。

最高地点Bは径8mほどに過ぎない。
ここが「東金砂山」の山頂である。

そこは特段何もないのだが、削平されている感じであり、一抱えある岩が2つある。
門か物見の礎石であったような感じである。
何らかの建物が建っていたのではないだろうか。
果たして、佐竹義舜、ここに立っていたことがあったのだろうか?

その北側は幅10mほどの広い尾根が下って行き、平坦地Cが2段ほどある。
東西の斜面部は急である。
当然ながら遺構のようなものは確認できない。

結局、それだけなのだが、この平坦な尾根部、十分に小屋も建てれると思われる。
もしここが城郭だったとしてもこの程度の城郭は珍しくはない。
近辺の入四間館、白羽要害等もこの程度のものである。
以上からここも城として使われた可能性は否定はできないのではないかと思われる。
だいたい、西金砂神社の地である「金砂山城」も明確な城郭遺構はない。

・・・とは書いたが、単なる自然地形も城郭遺構に見えてしまう病気の可能性もある。
この手の俺より酷い重症患者、少なからず存在するのである。
いや、願望が城を造ってしまうのか?
それじゃあ、半島人の願望に基づく「正しい歴史認識」と同じじゃないか!
どなたか、暇があったら、この山深い由緒ある神社を訪れ、ついでに本殿北側に続く山にも行ってみてください。

東金砂神社2022
前の文章、凄く曖昧な表現である。
2016年に書いた記事である。あれから6年が経った。、
どこかすっきりしないので2022年3月、再度行ってみた。
今までどこか引っかかっていたのだ。

城なら堀切が存在するんじゃないか?それを探すために。
行けるのは今、3月が最適でラストチャンスである。
以前、行った時、山頂北側Cは酷い藪だった。
でも、今回、藪が刈られJ綺麗になっていた。
これなら良く見れる。

その標高472mの平場の北端が尾根状になり、高度が下がって行く。
その尾根を行くと「あった!」堀切Kである。
切通の道じゃない。片側は急斜面である。
もう一方は林道になっているが、その先の鞍部で林道が分岐Lする。ここの標高は459mである。
両側斜面に竪堀の痕跡がある。
どうやら二重堀切だったようである。

なお、ここを過ぎて北に行くと、標高は再び高くなる。東金砂山の標高は481mである。
しかし、そこがこの山系の最高箇所ではない。最高箇所はこの堀切跡から少し北のピークである。
その標高490mのピーク付近、特段、何もない。

山の尾根鞍部に堀切が存在するということは城として合理的である。
この堀切は北の山地からの攻撃を防ぐ施設であり、東金砂山が城郭である証拠となろう。

Jすっかり藪が刈られた山頂側の平場。 KJの平場から北に延びる尾根にある堀切。 LKの尾根の先は鞍部となり道が分岐するが、堀切があったようである。
M本殿の場所から東に延びる尾根上は曲輪のようになっている。 NMの先には土塁付の横堀が・・いや、これは旧道のようである。 OJの平場の南西下に位置する社務所の場は居館跡か?

山頂北側の平場に戻り、平場から西に下る尾根を見るが、その尾根には堀切はなかった。

一方、本殿に戻り、南下の尾根を見ると、曲輪Mのようになっている。
果たしてこれは遺構なのか?
当然ながら本殿や田楽殿の地も曲輪であろう。
社務所の地が居館であろう。
Jの平場は居館の背後を守る場所であろう。
この構造、谷戸式城郭と言えるだろう。
以上より東金砂神社の地は城郭と言えるだろう。

この東金砂山も修験の地と言われる。
修験者と佐竹氏は関係が深く、山入の乱で山入氏の攻撃を受け孫根城を脱出した佐竹義舜(よしきよ)はまずこの東金砂山に籠城し、さらに金砂山城に逃れるが、これは修験者ネットワークによるものであろう。
佐竹義舜は修験者を味方に取り込んだのだろう。

修験者のいた修験の場はその地区の最高箇所である。
武生山、男体山、八溝山、真弓山、高鈴山、神峰山、堅割山がそれらである。
小里富士山も修験の地と伝えられたが、そこは完全に城だった。
同じ修験の地であるこの東金砂が城であっても不思議ではない。

これらの山は木々に遮られてなかなか見えないが、本殿北側からは東の神峰山(左の山)、御岩山、高鈴山(右の電波塔が建つ山)が良く見える。↓
おそらく、これらの山とは狼煙などで情報の伝達を行っていたのであろう。