竜子山城(高萩市字下手綱舘の内)

「松岡城」、「手綱城」とも言う。松岡小学校を含めた北側の山一帯が城址である。
 築城時期については諸説あってはっきりしないが、「高萩市史」等では平安中期天徳3年(959)常陸介平盛員が築城したという。
 その後、大塚氏が城主となり南北朝時代には南朝に組し、北朝方の佐竹氏に対抗した。
室町時代応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱で勝者側となった大塚貞成が城を拡張したが、文明17年(1485)岩城氏の軍門に下った。


慶長元年(1596)岩城氏の知行替えにより大塚氏は折木城に移り、その後、梶原政景が入り、佐竹氏の移封後は戸沢政盛が入り、水戸徳川氏の家老中山備前守信正が陣屋を置いた。
 明治に至り松岡藩として独立したが、明治4年(1871)廃藩置県で廃城となり、900年近い歴史に終止符を打った。

 竜子山城は山城部分と平城部分に分かれるが、このうち、平城部分は江戸時代に陣屋が置かれていた地区であり、現在、小学校、幼稚園、中学校の敷地となっている。
 陣屋跡の公園には土塁が残る。ただし、麓の部分は江戸時代に整備されたものであり、戦国時代には根小屋があったのではないかと思われる。

右の図は戦国期の竜子山城をイメージしたものである。

戦国期にも居館がこの地に建っていたものと思われる。
 後ろの山が山城部分であるが、まず、水堀が目に入る。
 この堀が近世のものかは分からない。

山を登ると三方を山に囲まれた館跡Aに着く。
この曲輪は内部が平坦であり直径50m近い広さを有する。
南の外れに井戸跡がある。
この部分には門があったと思われる。

 三方を取り巻く山は何れも城の曲輪跡であり、館跡の正面北側山上が本郭である。その間には天水溜のような池のような場所がある。
 

本郭には西側の尾根筋を登る。
途中に曲輪があり、そこを抜けると堀切Bとなる。
 両側は竪堀となる。東側の竪堀は館跡に通じる堀底道となる。 

 ここを過ぎると曲輪Wがあり、北側に段々状の曲輪が展開する。途中には井戸跡もある。そして本郭の西側の曲輪Vに着く。
 1段高い曲輪に上がると、東側に土塁が迫る。
 この土塁は王塚土塁Dといい古墳を改変したものと言われ、ここが城の最高地点である。
 土塁には頭ほどある石が含まれる。

 石垣ではないと思うが、土塁の補強に使ったものか。
 ここに瓦のかけらがあった。何かの建物があったようである。

 本郭には土塁間の西虎口から入る。内部は40×60mの平坦地であり鬱蒼とした杉林である。
 北側には土塁がないが、南側と東側には土塁があり、東側に井戸跡と思われる窪みがある。

 東側にも虎口があり、そこを抜けると一段低くなって曲輪Uとなる。
 虎口は土橋となり、その両側は堀がある。
 本郭の東から南に堀がまわる。ただし、堀の中には枯れた竹が捨てられており形はさっぱりわからない。
 曲輪Uも本郭と同じ位の広さである。
 曲輪Uの南側にも2つの郭があり、一番下の曲輪は竹林となっている。
 この部分は館跡の東に見える尾根部に相当する。

 曲輪の内部は平坦であるが、斜面は急勾配でありロープが張られていた。
 竹の子取りはこのロープを伝わって行っているらしい。

曲輪Vから本郭、曲輪Uの北側斜面には横堀が構築される。
また、曲輪Vの西端に深さ10mの岩盤堀切Eがあるが、ここには曲輪Vからは危険で降りられない。
当時は木橋がかかっていたのではないかと思われる。
この堀切から西側の尾根筋が西城となる。

なお、小学校北の三神社の地にも土塁があり、ここは迎賓館のような施設があったのではないだろうか?

 山城の部分には18の郭があると言われるが、杉と竹が鬱蒼としており、確認できるのは10程度である。
 近世まで使用していた城とは言うが、山城部分は完全に中世の山城であり、近世の影は感じられない。
 多少の建物はあったかもしれないが、江戸時代には使われていなかったと考えられる。
「茨城の城郭」「茨城県重要遺跡報告書U」を参考にした。)

@南山麓にある水堀。 A曲輪がある尾根に囲まれた居館跡 B居館跡から主郭部に登る道は岩盤堀切を通る。
C曲輪W内部。ここまでは草が刈られていたが・・。 D曲輪Vから本郭の王塚土塁を見る。 E曲輪V西側の西城間にある岩盤堀切。深さ10mはある。

←三神社境内、南側に土塁がある。