常陸太田の小城館

白羽館(白羽町)はどこだ?
白羽館は常陸太田市街から里川を隔てて東岸、田渡城の北約2qの東から里川に向けて張り出す台地にあったという。
この白羽地区には2つの城館があったとされ、1つが根本館、もう1つが白羽館である。
2つの城館のうち、根本館の場所は特定されているが、白羽館がどこか分からないのである。
「水府志料」には「二重の堀あり。今其地を要害と称す。共に何人の居なるや知らず。」と記載されている。
さらに永正14年(1517)薩都神社奉加帳に「白羽七郎太郎」という者の名があり、この者の居館であったと考えられる。


白羽氏は、ここにある「天志良波神社」(あまのしらわじんじゃ)とも関係していたものと思われる。
とすれば白羽氏の居館は天志良波神社の近くにあったのではないかと思われる。
今宮氏などと同様、神官であったかもしれない。

この館の場所は特定されていないが、常陸太田市発行の「佐竹氏関連城館」では字「馬場」の地が館跡と推定している。
その場所はちょうど天志良波神社の門前にあたる西側一帯である。
「馬場」は城郭に係る地名としてよく登場する。
その場所に館が存在した可能性は十分に考えられる。

2020年10月9日、地元に住まわれるO氏とS氏の案内で、その「馬場」を探索した。
この場所は「天志良波神社」から西の里川にかけての台地にあたり、緩やかに西に向かって扇状地のように傾斜している地形である。
標高は44〜49m、緩斜面は段々に区画し、宅地や畑になっている。

一部、道が切通しになっているような場所もあったが、土塁や堀が存在したような形跡は確認できなかった。
この地区は神社の門前町のような場所であったようであり、宿坊や職人が住んでいた地区であったようである。
結局、ここには居館はなく、馬を飼ったり放牧したりする文字通りの「馬場」があったのかもしれない。
もしかしたら、白羽七郎太郎は神社には関わった檀那衆の一人ではあろうが、天志良波神社の神官ではなく、地名を姓とした武家だったのかもしれない。
それなら、天志良波神社の近くに居住していなくても不思議ではない。

一方、水府志料は白羽館の場所を「里川の東十町」としている。十町は約1.1qである。
この距離と「要害と称す。」という記述(「要害」という名は既に知られていない。)及び二重と言えるか検討すべきであるが、堀の存在、
これらの記載と事実(白羽要害は里川から最短距離で約1.1〜1.2qの距離にある。)を考慮すれば、「白羽要害」のある場所こそが「水府志料」でいう白羽館となる。

でも、白羽要害は標高230m、「天志良波神社」からの比高も約165mある急峻な山城であり、緊急時の避難城、物見、狼煙台的な性格の城館である。
平時の居住用の城館ではない。
当然、居住用の館は生活に便利な麓にあったはずである。
白羽七郎太郎は麓のどこかに館を構えて住んでいたはずである。

しかし、天志良波神社の西側、里川との中間部に「中屋敷」と呼ばれる場所があることを知った。
その場所は天志良波神社から南西約400m、台地の北側と南側が沢による浸食され谷津状になった幅約100mの細長い尾根状の岡である。
(36.5707,140.5472)
標高は約38m、約400m南西は里川である。

里川からの比高約20m、里川の水運による経済効果を考慮すれば、この場所の方が「天志良波神社」近くよりメリットは大きい。
中屋敷の場所は現在、畑と宅地になっているが、北側に土塁の残痕と思われる盛り上がりがあり、井戸跡もある。
さらに台地に続く東側に横堀が存在した痕跡と思われる竪堀らしいものが斜面部に残される。
西側は岡が細まり下りになって行くが堀の痕跡はない。
館があったとすれば、約100m四方の広さと思われる。内部は3段になっている。


南側にある八坂社前から中屋敷を谷津腰に見る。
中屋敷内部は畑と宅地になっている。

この地が白羽館であったか断定できないが、地名と地形、広さ及び神社付近に他に可能性を有する場所が存在しないため、有力な候補地と言えるであろう。

この中屋敷の地であるが、2本の小河川(途中で合流する)が開析した谷津を挟んで南南西約300mが根本館である。
かなりの至近距離である。

←さらに根本館との間の尾根状台地の先端に八坂社がある。
昔、疫病が流行った時にそれを鎮めるために置いたということである。
この地は古墳を転用した物見のようでもある。

この立地を考えると根本館の北を守るための出城を兼ねた家臣の居館のようにも思われる。

以上、まとめると「水府志料」でいう「白羽館」は「白羽要害」のようであるが、ここは居住用の城ではない。
居住用の城館は麓にあったものと思われるが、「天志良波神社」付近にはそれらしい場所はない。
しかし、神社と里川の中間点に「中屋敷」という地名があり、館があったような痕跡がある。
ここが白羽七郎太郎の平時の居館であった可能性がある。

天志良波神社(白羽町)

この神社の名前はまずは読めないであろう。
「あまのしらわ」と読むそうである。
珍しい名前であり、おそらく我が国でここだけの名前であろう。

名前からして歴史が有りそうな感じを受ける。
名前が長いので略して単に「白羽神社」と呼ぶことも多い。
常陸風土記には南約3qにある長幡部神社や西の里川対岸にある佐都神社は登場するが、天志良波神社は登場しないが、平安時代に編さんされた延喜式に名前が登場する。
長幡部神社とも機織の技術集団の守り神であったようであり、ともに律令時代には成立していたらしい。

神社の由緒には以下のように書かれている。
御祭神は天照大神天岩戸にかくれましゝ時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神天日鷲命は白和幣を作られた。
弟神健葉槌命と共に麻を植え織物をされた。白羽は衣服のことである。
一説に延暦14年坂上田村麿将軍東征の時、創建すと云ふも詳かでない。
天志良波神、又長白羽神(古語拾遺)貞観8年5月27日正六位上天志良波神従五位下、
同16年12月29日従五位上の神階(三代実録)式内小社久慈郡七座の一、天文13年12月11日佐竹義篤社殿修営遷宮式あり。
(棟札)元禄中水戸藩徳川光圀公の命で大聖院の社務をやめ神職の奉仕とす。
享保12年9月徳川実 公社殿の営修あり、神宝を献じ圭田2石6斗3升7合を納る。
天保15年斎昭の命により白羽、田渡、西宮、三才、小沢五ヶ村の鎮守となる。


坂上田村麻呂の名前が出て来るが、平安時代始めの頃の人物である。
田村麻呂伝説は義家伝説同様に各地にあるので、創建の話も伝説の域はでないであろう。
しかし、付近からは奈良平安時代の土師器も出土するので、創建はその頃、あるいはおそらくもう少し古く、奈良時代まで遡るのではないかと思われる。

神社本殿が建つ場所付近は東の山の裾野部の最上部にあたり、境内は段々状になっており、社務所付近には堀と思えるような窪みが見られる。(旧参道らしい。)
集落が神社の西下に形成される。
神社裏、東の山を登って行くと、白羽要害に通じる。

立地からして神社が置かれる場所としては理想的であり、創設当初から神社の場所は動いていないのではないかと思われる。
神社北側には登窯が発見されており、祭祀用及び生活用の土師器を製造していたとのことである。

麻織物がどこで製造されていたのかは分からないが、製品を水に晒したということと、搬出も里川の水運を利用していたと言われるため、里川に近い場所に織物の工房があったと思われる。
なお、白羽地区の丘からはどこでも奈良平安期の土師器の出土は多く、機織りをした場所の特定は難しそうである。

赤須館(茅根町)

里川の左岸、里川を望む多賀山地から延びる尾根の末端部にあり、南1qに茅根城がある。
 地徳館からは南に2q、谷津を挟んで直ぐ北側の台地には春友館がある小城館集中地帯にある。
 (なぜか里美地区まで里川の東側に城館が集中しており、西側にはほとんど城郭はない。)
 小野崎通成の子 通頼が居館し、赤須氏を称し、その子孫が永正から大永年間(1504〜28)ころ外郭に二重の堀と土塁を構築して城館にしたと伝えられる。
 現在でも赤須姓は多く子孫と思われる。
 館のある山は西側に里川が流れ天然の水堀をなし、東側は谷津。
この2方面は急勾配である。
 館のある山は南側に頂点を持つ、鋭い二等辺三角形である。
 標高は約90m、里川からの比高は50mほどである。
北側は広がり山地に続くが館の主郭部のある場所は北側より若干高くなっている。

 館へ行く道は2つある。1つは南側の三角形の先端の鋭角に当る細尾根から登る道、もう1つは北西側の春友町側から登る道である。
 いずれも山の上に建つ鉄塔のメインテナンス用の道を兼ねる。この館へは後者のルートで行った。要するに鉄塔を目指せば良い。
 この鉄塔が本郭と推定される曲輪1の背後、曲輪4の南端に建っている。
 山に登って行くと曲輪4の北側の堀底に出る。
 この堀底は三角形の底辺に相当する部分であり、東に続いている。一見、ただの道にしか見えない。
 この南側が曲輪4であるが、内部はやぶ状態。
 結構大きく、70m四方はある。内部は3段位に段差があり、南側に向かって高くなっている。
 堀底から南端までは10mの高度差はあろう。
 西側に道があり、そこを南に進むと鉄塔がある。
 その南側に幅5m位の堀がある。堀の両側に土塁があるが、鉄塔のある場所は破壊されているようである。
 この南側が曲輪1、本郭と推定される場所である。
 西側を除いて三方に土塁が巡っている。
 大きさは30m四方と小さい。東側にも腰曲輪か犬走のような小さな曲輪がある。続いて曲輪2がある。
南北15mと狭く、曲輪1とは土塁1本で隔てられているだけである。 
どちらかというと曲輪1の馬出という感じである。
 この先に曲輪3があるが、曲輪の幅は段々狭まる。曲輪3は南北30mほどであり、東側に腰曲輪がある。
 この先は二等辺三角形の頂点に当り、南に向けて細い尾根が下る。そこに二重堀切がある。
 規模は小さいが良く形状を残している。両側は竪堀になっている。おそらくこの道が大手道であろう。
 曲輪1の北端からこの堀切までは90m位の距離である。
 主郭部は一面の小竹が密生している状態であり、小道があるだけである。
 かつてはここも畑であったといい、かなり土塁が崩され、堀も埋められてしまったという。
 この山の上に居住するのは何かと不便であり、ここは非常時の詰めの城ではなかったかと思う。
 山の下の南側に日当たりの良い今も民家が建つ場所がある。
この付近に平時の館があったのであろう。
 この3つの曲輪が主郭であるが、ここが城主である領主階級の避難場所ではないだろうか?
 その北側、広大な曲輪4は領民の避難場所ではなかったかと思う。
 それにしても北側が平坦であり、この方面から攻撃された場合は、長い堀1本では防御に非常に不安があるがどう考えていたのだろう。
 念のため北側にも進んでみたが、堀や土塁のようなものはなかった。
北側から見た館址。鉄塔付近が本郭
北側に当たる。
南側の細尾根の途中にある二重堀切。 曲輪1、2間の土塁。
曲輪1、4間の堀を1側から見る。 曲輪1東側の堀と土塁。 曲輪4北側の堀、館の最北端。

茅根城(常陸太田市茅根町字舘の上)

 多賀山地から里川方面に延びる尾根状台地の先端部に築かれた2連郭式の城。
 現在の佐都小学校の北の台地が城址である。
 城址の南側に常陸多賀方面に通じる県道37号が通り、その南側は侵食谷となっている。
 城址の西側には里美方面に通じる国道349号が通り、里川が東側から西側に大きく蛇行して流れる。
 主郭部の標高は60m、里川からの比高は30〜35m程度である。
 遺構はかなり失われているが、一部が残存している。

 小学校の地から主郭部のある地は12m程高く、南側に展開する幅10〜20mを持つ2段の帯曲輪と本郭と小学校の地を結ぶ通路と虎口が畑となって明瞭に残る。
 大手口は東側より登る道であり、農道となって残る。北側の虎口には土塁も一部残る。
 本郭と二郭からなる主郭部はほぼ平坦であるが、東から西に向かって緩斜面である。
 二郭の東側に土塁と堀があったというが、民家の地がくぼ地状になっていることから堀が存在していたことが伺える程度である。
 本郭(T)は70m四方、二郭(U)は南北100m、東西70m程度の広さがある。
 戦闘時に退避する場所というより、明らかに居住を目的とした郭である。

 主郭部の北側は里川の崖であるが、南側の台地下は佐都小学校の地となり、ここは東西150m、南北250mの広い平坦地である。
 字名も「根小屋」である。
ここに家臣団の屋敷等の小さな城下町が形成されていたものと思われる。

 この地も西側の低地より比高が15m程度あり、ある程度の防御性を有する。
 一種の総構えであったと思われる。佐都小学校の東側にも高台があり、「仲の内」という字名である。
 ここが城域であったという記録はないが、地形的に郭が置かれるべき場所であり、郭を置かないと防衛状支障が出るはずである。
 3つ目の郭があったと見るべきであろう。
なお、二郭と仲の内の間に洪沢が流れ谷状となっており、沢の水が主郭内に引かれていたといわれる。

 北、西、南についての防御性を有するが、東は多賀山地に続く緩斜面であり、この方面の攻撃には弱い。
そのため東方は土塁が2重になっていたというが、この程度の防衛施設では余り防御効果は期待できないと思われる。
東の尾根筋技から見れば、城内は丸見えである。
あくまでもこの城は、居住を目的とした大型の館と見るべきであろう。
 下の図は現状を示した鳥瞰図である。

ここに「佐竹氏関連城郭」(常陸太田市教育委員会)掲載の図に示される堀、土塁の位置を入れてみたのがその下の推定鳥瞰図である。
上の鳥瞰図を基に建物を描き入れて見たのが左の鳥瞰図である。
こんなに立派な主殿があったのか、櫓が建っていたのかは皆目見当はつかない。
もっと粗末であったかもしれない。

小野崎通長の三男通景が築城し、十六代通忠の時に佐竹氏に従い秋田に移住し廃城となったという。一説には小貫氏の知行地を山入の乱の時、小野崎一族が奪ったという説もある。

 城は里川が山間から平野部に出る場所にあり、常陸太田城の里川上流方面の防衛拠点という位置付けもあったと思われるが、この程度の防御性ではその目的は達せられないであろう。
この方面の防衛拠点は、里川の少し下流側に位置する田渡城であろう。

本郭南の櫓台跡。向こう側の平地が館跡。 本郭南側の腰曲輪の跡。 大手口跡。右が二郭。道は堀底跡を通る。


地徳館(町屋町)
 
蛇行して流れる里川を遡り、町屋に入ったすぐ東側の標高140m、比高100mの山上にある。
 町屋の中心部の東側、河内小学校から見て南東側の山に当たる。G7というコンビニの国道349を挟んだ向かいに山に登る道があり、その道を登る。
 山の上に鉄塔があるので分かりやすいと思う。途中に墓地があり、そこを東に迂回して登ると目の前に一面のぶどう園が広がる。
 この付近の標高は90〜100m。ここまでは軽自動車なら登って来ることは可能である。(対向車が来たら責任は持てないが。)
 ぶどう園の中に人が立っている。良く見たらマネキンである。一瞬ドキッとする。
 ここは東から西にかけて傾斜しているが、一番山側の東のはずれに作業小屋がある。
 そこにも人影が。1人は横になっている。良く見ると廃棄したマネキン。周囲には誰もいない。思わず背筋が寒くなる。
 ここが館の中心部であり、ぶどう園となって遺構は失われたと思っていたが、遺跡地図を見ると館址はもっと東側の山に付いている。
 ぶどう園東の作業小屋の北側からさらに東側の山に登って行く。
 途中までは道はあるが、途中で道だか何だか分からなくなる。ここまで来たらヤブレンジャーしか手段はなく、やぶを掻き分け登る。

 しばらくして平坦地に出る。
 後で分かったがここが曲輪4。(曲輪4は緩斜面であり、とりたてて城郭らしい雰囲気はない。曲輪と言って良いのかどうか?)
 廃寺跡という説もあるので、やはり何もないのかと思いながら、ここまで来たんだからもっと進んでみるかと思い前進。
 やぶの中からいきなり堀切と曲輪、その向こうに高さ5mほどある鋭い切岸が現れる。
 切岸上の曲輪が、主郭に当る曲輪2であり、堀切の東の曲輪3は主郭を取り巻く帯曲輪である。
 曲輪2には曲輪3を北から東に迂回して登るようになっている。
 この付近から山は尾根状となり、南北両側の勾配はきつくなる。
 この尾根上に主郭部が展開する。
 曲輪2は20×10mほどの大きさであり、南西側に大きな竪堀が下っている。東側に1mほど高く本郭に当る曲輪1がある。大きさは曲輪2と同じ位であるが、何しろやぶが酷くとても入れる状態ではない。
 曲輪1の南下7mに堀切があり、その南に尾根が下る。
 この尾根筋にも曲輪がいくつかあるようである。
 曲輪1の東側は山地につながる尾根であるが、一旦下って、また登りになる。この尾根筋はやはり厳重に防御されている。 

曲輪1の東側は深さ5mほどの切岸になって堀切があり、さらに小曲輪が3つ展開し、最東端の堀切まで合計4本の堀切がある。
 最後の堀切までは曲輪1からは50m程度である。ここもやぶが酷く、良く見ないと堀切が確認しずらい。
城として明確なのは曲輪3西の堀切付近からであり、大きさは東西100m位の小規模なものである。
 南北朝期に福地豊後という者が居館していたと言う説もあり、廃寺の跡という説もある。
 現在も福地姓はこの地に多いので、館主の名前としては納得がいく。
 しかし、この館は小規模ながら立派な尾根式直線連郭式の戦闘を意識した城である。廃寺の跡というのは完全に否定できよう。
 時期も築館は南北朝期かもしれないが、今残る姿は戦国期のものである。里川に沿ったルートの攻撃を防御するための砦であろう。
 この付近は里川が蛇行を繰り返し、西側の山までの平地幅は300mほどしかない。敵を防ぐ場所としては理想的である。
 立地条件や尾根式城郭の特徴、規模が北に位置する十殿坂館と良く似ている。
 山入の乱の時期に十殿坂館と並行して整備されたのではないだろうか?
 なお、西山麓のぶどう園の地は居館に最適な場所である。もし、寺があったという伝承もあるが、寺があったとしたらこの地であろう。

ところでこの館のある山は「たらの芽」の宝庫である。棘がある「たらの木」や茨が多く、おかげで歩くのに難渋するが、人が歩いた形跡もある。
人が採取に入っているのだろう。と言うことで別の意味で訪れるなら春先が良いだろう。

西側から見た館址。 曲輪3から曲輪2を見上げる。高さ4m。 曲輪3、4間の堀切。埋まっている。 曲輪1南下の堀切。