西岡田館はどこだ?(岡田町)
西岡田館はどこだ?(岡田町)HP用
城館の名前は知られているが、場所が分からないという例は結構多い。
特に都市化した所では、存在した場所が特定できない場合も多い。
一方で城館候補地が複数ある場合もある。城館名に混乱している場合もある。
この「西岡田館」も候補場所が2つ存在する城館である。
そもそも、館のある岡田台地の南端部は城館の密集地帯であり、西岡田館、西高井館、東高井館、小目館が存在している。「東高井館」を「東岡田館」とも言ったりしており混乱がある。

この館の歴史について茨城県重要遺跡報告書Uによると「源頼朝が鎌倉幕府を開く以前、源義業の子昌義は佐竹冠者四郎二郎といい常州久慈郡佐竹庄の馬坂に住み、昌義の6男親義(1183年没)をこの岡田村字台に封した。親義は岡田冠者親義と称した。
さらに親義の子重義は信濃国に移封したのである。
その後、佐竹義繁の3男が岡田冠者四郎義親と称してここに居城した。さらにその後、佐竹氏から来た岡田右衛門尉義盛と名乗る者が居城し、ここから真崎氏、打田氏に分れたのである。 館の規模、廃館の年代などについては不明である。」
と書かれている。

その場所については、常陸太田市街地の東、里川、茂宮川の東岸、北の多賀山地方面から南に張り出す岡田台地の突端部にあったという。
ところが、この場所については該当する候補地が3説ある。

A:平成13年度茨城県遺跡地図の館位置

B:茨城県重要遺跡報告書Uの館位置

C:「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」
の館位置



1つは茨城県重要遺跡報告書Uでいう常陸太田工業団地南西端Bである。
茨城県重要遺跡報告書Uでは地図を掲載し、その場所について
「日立電鉄「ひたちおかだ」駅の北約0.8km、茂宮川左岸台地上に位置している。
多賀山地の末端の河岸中位段丘で標高40mほどを測る平坦な台地となっている。
館の西崖下には里川や茂宮川沿いに展開する水田地帯がひらけ、水田をこえて北西約3.3kmほどのところに太田城、南西約1.3kmの同じ台地上には東岡田館(注 次項に記する高井館のこと。)がある。
台地の一部は旧家の住宅と畑地になっている。

館跡の西及び北側は大変見通しがよかったが、戦後の植樹や畑の荒廃で見通せなくなっている。
館跡そのものも原野化、荒廃はなはだしく館跡をとりまいていた道や「七曲り」といわれた館への道なども不明な状況を呈している。」と解説し、「柵の前」、「馬立」という寺も存在するとしている。
この解説と掲載地図の場所は一致する。
なお、茨城県重要遺跡報告書Uには縄張図も掲載されている。
(平成13年度茨城県遺跡地図では茨城県重要遺跡報告書Uに示す位置には城址のマーキングはなく、古墳(よい塚古墳群)のマーキングのみである。 )

茨城県重要遺跡報告書Uの示す場所は常陸太田工業団地の造成でほとんど失われており、実際にその場所(36.5357、140.5532)に行ってみると、造成でかなり地形が変わっていた。
茨城県重要遺跡報告書Uの位置図の場所には平坦な場所があるが、これがオリジナルなものなのか、造成に伴うものか判断できなかった。
ところが、工業団地造成前の国土地理院の昭和55年撮影の航空写真を見ると、茨城県重要遺跡報告書Uの位置図の場所に何やら四角いものが見える。どうもこれが、その平坦な場所のようである。
したがって、この平坦地は、工業団地造成に伴うものではないことになる。

茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡を南西側の低地から見る。
手前の堤防が茂宮川の堤防である。この撮影位置付近が十二町田んぼ
と言い、金砂大祭礼で神事が行われる場所である。
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡の平坦地を東側の工業団
地側から見る。

この平坦地は、団地造成以前から存在していたようである。
切岸は若干の改変を受けているようである。
この場所は、工業団地南西端に位置し、東西約50m、南北約80mほどの平坦地であった。
廃館後、江戸時代に工業団地造成前に畑地として開墾した土地のようにも見えなくはない。(右の図の@)内部は栗の木や松が植えられている。
東側は工業団地造成で削られているようであるが、西側に高さ約2mの土塁Aが存在する。 (ただし、本物の館の土塁がどうかは分からない。
平坦地を均した時の残土を台地縁に寄せたものかもしれない。)

この平坦地の南が平坦地から高さ15mほどの山になっており、この山に登ってみたが、古墳が2基存在していたが、改変された様子はなかった。
この山の東が鞍部Bになっており、南に下る道Dがある。途中には平坦地Cが2段ある。

東側はまた山になり、その頂上は墓地になっている。この地形は、茨城県重要遺跡報告書U掲載図と一致する。
なお、鞍部の西側の山寄りに横堀のようなものがある。これがどうも「七曲り」という登城路のようである。
以上を総合するとこの場所が茨城県重要遺跡報告書Uの記載どおりなのである。

茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡Aの
位置の土塁。
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡@
の平坦地
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡B
の切通し。
これは後世のものであろう。
ここの右手上に大手道がある。
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡C
の腰曲輪?
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡D
の部分。
ここは門跡のように見えるが?
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡南
の山にある
「よい塚古墳」。藪で分からん。
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡。
古墳東下の横堀
状遺構。
これが大手道の「七曲道」と思われる。
茨城県重要遺跡報告書Uに記載された館跡の
東の山に向かう
途中にある土橋状遺構。

古墳のある南側の山からこの平坦地は丸見えであるが、ここを曲輪として使った形跡もないのは不思議な感じである。
平坦地南側の鞍部も後世の手が入っているようである。 少し西にある「七曲り」と思われる横堀状のものが、城郭遺構らしい感じがするだけである。
この場所、どうも今一つ納得がいかない。

一方、平成13年度茨城県遺跡地図は、常陸太田工業団地の南側、普門寺の北西裏の台地縁(36.5278、140.5564)Aを「岡田館」としている。
前記の場所からは南東約600mの位置である。

しかし、その場所は民家になっており、明確な遺構は確認できない。
南側に向かって若干傾斜しており、台地に続く北側の方が若干高いが堀があったような痕跡はない。
ただし、民家北側が土塁のようになっている所があり、完全に否定はできない。
また、東側が谷津状になっており、堀跡にも見える。

この場所からは岡田台地の南と西に広がる水田地帯の低地部を270度、一望に見ることができる。眺望的には非常に優れる。
しかし、ここも今一つ疑問が払しょくできない。

「茨城県遺跡地図」記載の館跡北西端には
立原稲荷が建つ。
茨城県遺跡地図」記載の館跡、北端。
この道が堀跡?
竹林の部分が土塁状になっている。
奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史記載の
館跡(右)
に西から登る道。これが搦め手道らしい。
奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史記載の
館跡北にある
という「一枚岩」はここにあった
「入浄塚古墳」の石室の石らしい。

しかし、川崎春二氏の「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」に記載される場所は上の2つとも違う。
川崎氏は簡単なスケッチを残しているが、その場所が分かりにくかった。


↑ 昭和23年アメリカ軍撮影の航空写真

「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」
記載の川崎図

工業団地の造成やそれに伴う国道239号線との接続道路の工事や道路拡張等で地形が変わっていたからである。
しかし、昔の航空写真を見ていたら、川崎図とそっくりな場所が見つかった。

そこは平成13年度茨城県遺跡地図で岡田館とされる場所に接した北西側である。(36.5286、140.5554)
その場所の近くは何度も通っているが、館の場所はもの凄い竹藪であり、さらにそこは台地平坦部より低いので、低い場所にある訳がないと思い、無視していたことによる。
その場所、何ということはない、前記の茨城県遺跡地図の館範囲に接した北西側Cである。
館の中心地間距離は僅か約100m!。
灯台下暮らしとはこのことである。
←川崎図に描かれる西岡田館縄張図
その場所に突入してみると・・・主郭部Aは外見どおり、凄い孟宗竹の林、倒竹で満足に歩けないが比較的内部は平坦であった。
驚いたのは東側以外を高さ約3.5mの鋭い切岸が覆い、下に帯曲輪@が存在することである。

@北側の腰曲輪と主郭の切岸 A主郭内部、平坦だが、孟宗竹が密集、倒竹で歩けないほど。 B腰曲輪の南西端部、右が主郭部切岸、虎口がある。
C館南側の腰曲輪は畑になっている。 D館東側は一段低いが、ここに堀があったと思われる。

この帯曲輪は西側は幅20mほどあったようであるが、北西端部は工業団地の造成に伴う取り付け道路工事で削られ、北側@は「柵の前」から登る道路の拡張工事で削られている。
南西端部Bには虎口らしいものがある。窪んでいる場所があり、井戸跡らしい。

一方、館の東側は台地に続くが、台地側が一段高いDのである。
台地側より館が低いのである。これは非常に不利である。
館東側に堀と土塁がないと館の防御は成り立たない。
堀が存在していたようであり、川崎図にも堀らしいものが描かれ、中央部に虎口らしいものが描かれている。
3つのうち、ここがもっとも城郭遺構が残る場所と言える。

川崎図の場所が最も有力のような感じはするが、印象としては古臭く、防御も今一つという印象である。平安末期に館が存在し、戦国時代まで使われていたようであるが、断絶していた期間もあるようである。
「場所については該当する候補地が3説ある。」と書いたように、再建、再使用された際、館の場所が変わっている可能性もある。
いつの時代のものかは分からないが3説とも時代が違うだけで正解なのかもしれない。
しかし、3説とも城館としては戦国末期まで使われた感じも受けない。茂宮川対岸の幡台地先端に位置する幡館も含めて、この2館も戦国時代中頃には廃館になっていたように思う。

高井館(岡田町高井)
常陸太田駅から国道293号線を東の国道6号方面に約3km進むと、正面に岡が見える。東岡田館、後岡田館とも言う。
この岡の手前で国道は大きく南にカーブし、旧日立電鉄の線路跡を高架で越える。
この岡の上に高井館があったという。
以前のHPの記述では

「後岡田館とも言う。
平成13年度茨城県遺跡地図によると、岡田館(注 前項の普門寺北西にあった西岡田館のこと。)の南東500mの岡田台地上にあったという。
比高は約35m。熊野神社の南側が館址にあたる。
この台地北側は平坦であり、熊野神社との間が窪んだ状態であり、切岸状になっている。
ここに堀があったような感じである。台地南端の南側が崖となる台地先端部に館があったと言われる。
南側低地から館址に登る道は切通しのつづら折りとなっている。
天文年間の築館と言われるが、館主は於曽能氏、中村氏とか佐竹義憲の子小野右衛門義森が居館し、岡田氏を称したなど諸説がある。」
と書いた。
その後、分かったことであるが、この高井館は1つの館ではなかった。
2つの館からなる1城別郭式の城であったか、別々の館が隣接して存在していた形態であった。
以下の解説では、便宜的に熊野神社周辺の遺構を「西高井館」、平成13年度茨城県遺跡地図に載っている館跡を「東高井館」と称する。
(現地の人で前者を西岡田館、後者を東岡田館という人もいた。しかし、西岡田館と呼ばれる館が、西高井館の北西400mに存在するので、混同を避けるため、「西高井館」、「東高井館」と呼ぶことにする。)

東高井館
 
西高井館は明確な堀、土塁を持つ館であった。
しかし、数年前、東高井館があったとされる地に行った時は、遺構は確認できなかった。
したがって、「西高井館」こそが「高井館」であり、平成13年度茨城県遺跡地図は間違っており、「東高井館」は存在しないのではないかとの疑問を抱いた。
このため、再度、平成13年度茨城県遺跡地図に載っている館跡の位置を調査した。
何人かの住民に聞いてみると、やはり神社南側にも館は存在しているのである。

当然、現地の人は「西高井館」の存在も知っているのである。
その「東高井館」であるが、岡西端の民家の敷地そのものであり、周囲を土塁が覆っていたが、土塁一面が篠竹に覆われていたので土塁の存在に気が付かなかったのである。

本郭と推定される場所は東西50m、南北100mほどの広さがあり、北半分の部分の北側、西側、東側を郭内から2mほどの高さの土塁が覆っている。
南半分は3段ほどの段々状になっており、民家の敷地になっているため、土塁があったかは不明である。
この民家の方の姓が、於曽能氏であり、館主の子孫という。館跡の南側は急斜面である。
堀は台地続きの東側と北側に存在していたようであり、東側の堀跡は道路になっているが、一部、北側に堀の痕跡がよく残っている。
北側の堀は、半分埋められて幅が狭まっているものの、明確に確認できる。
堀の西側は山の斜面であるため、竪堀状に下に落ち込んでいる。
本郭の東側が曲輪Uである。ここも民家と畑地である。100m四方程度の広さである。
曲輪の南側と東側は耕作に伴う可能性もあるが、段々状になっている。
民家の北側には道路に沿って低い土塁が残る。その道は、もともと堀であったようである。
本郭と曲輪Uの北側の平坦地が、曲輪Vである。東西150m、南北100mもある広大な曲輪であり、現在は畑である。
曲輪Vの北側は2.5mほどの段差があるが、下に堀があったような形跡がある。
その段差となる縁部から50m北が熊野神社である。

一方、曲輪Uの南東端に突き出た尾根がある。尾根との間が堀切状になっている。
尾根の付け根部が土塁状になっており、土塁の先の尾根側に30m四方の窪んだ場所がある。
現在、そこは畑であるが、かつては民家があったという。
窪んだ場所から北の土塁上までは4mほどの高さがあるが、民家を建てるのにここまで削る必要は感じられない。ここも出丸であり、城郭遺構の一部ではないかと考えられる。

曲輪V内部は畑である。 本郭内部は宅地。周囲を土塁が巡る。 本郭(左)と曲輪U間の堀跡は道
になっている。
本郭の東側の堀は埋められているが
痕跡は残る。
本郭北側の土塁と堀であるが、
草が酷くて分からん。
曲輪U北の土塁。小道は堀跡か?
正面が本郭。
南東端に突き出した尾根付け根に
ある土塁。ここは出城だろう。
左の土塁の内側はくぼ地になっている。
かつては家があったという。


西高井館
平成19年4月、常陸太田市在住のP氏から、「熊野神社から西側に延びる尾根台地先端部に城郭遺構を見つけた。」との連絡をもらった。
そこは、平成13年度茨城県遺跡地図にもマーキングされていない場所である。

熊野神社から西に延びる尾根の先端に城郭遺構が存在するとなると、以前来た時、神社付近にも北側に犬走りのような場所、堀のような感じの場所があるように感じたように、神社境内が外郭に相当する可能性があることを暗示しており、直感があながち的外れではかったことを意味している。
西側から神社境内へ上がる石の階段も途中に3段ほどの曲輪を思わせる平地も当然、城郭遺構の可能性が高いことになる。
このため、平成19年4月21日、再度、突入を試みた。
熊野神社へは、西の麓にある「セブンイレブン岡田店」の駐車場に車を置きかせて北側の参道を歩く。
一度、神社境内に出てから、今度は境内から西に延びる尾根を行く。
すると神社社殿から30mほど先に段差があり、幅30m位の平坦地(図の曲輪U)が70mほど続く。

この平坦地が、神社参道側に回りこんでおり、そこが参道の石段になっている。
この平坦具合は人工的であり、ここに居館や倉庫が置かれていたとしてもおかしくはない。
曲輪Uの西端には、幅7mの堀があり、高さ4mの土塁がある。堀はかなり埋没しているようである。
堀の南側に土橋があり、本郭の土塁間に虎口が空いている。本郭は25m四方程度の小さな曲輪であり、堀に面する東側と南側に土塁がある。
南西端が南に張り出しており、物見台があったようである。本郭の尾根続きの西側下に長さ20mほどの曲輪Wがある。
ここは墓地になっているため、改変されているようであるが、遺構と見てよさそうである。
なお、本郭と曲輪U間の堀の南下斜面に土塁と堀のようなものがあるが、これが遺構であるかどうかについては判断できない。
堀が館側(山側)にあるのも不自然である。
どうも山から流れる雨水が直接、下の民家の敷地に流れ込まないようにするための水溜のように見えるのであるが?
以上のように見てくると、熊野神社境内も城域でないと不自然である。
神社境内の方が、曲輪Uより標高が若干高いからである。
神社境内を北に行くと切通しの道があるが、これは堀切ではないかと考えられる。
その道に降りる場所が虎口状であるが、現在の降り口に少し東に本来の降り口が残っている。
また東側には犬走りのような道があり、井戸跡のような窪みがある。
神社境内の南側は一段低くなり、幅50mの畑がある。その南側が東岡田館の曲輪Vである。こちらの方面にも堀があったのかもしれない。

南の低地から見た西館。 曲輪Wの先端部に物見台のような
土壇がある。
本郭(左)と曲輪U間の堀。
手前に土橋があるが、埋もれている。
本郭南下斜面に土塁と堀があるが、
これは遺構ではないと思われる。
曲輪UとV間の段差部分なのだが、
良く分からん。
曲輪Vには熊野神社が建つ。
ここまでの参道の段々も曲輪らしい。
曲輪V北の切通しの道は横堀
の跡だろうか。
曲輪Vの南は平坦地。その向こう側
に東館の曲輪Vが一段高く位置する。

さて、東高井館と西高井館の関係であるが、両館の本郭間は直線でわずか200mに過ぎない。
最も接近した部分では50m離れているだけである。
独立した館と考えるには近すぎる。
(もっとも東隣りの小目間と東高井館の間は300mほどであり、必ずしも近すぎるからどうのこうのはないかもしれないが。)

東高井館から防衛の観点から見ると、南、西は急坂であり、この方面からの攻撃には問題ない。
北側が岡続きであり、この方面から及び北東側の登り道沿いに攻撃されると弱い。
これに対応する出城として置いたのが、西高井館ではないだろうか。
西高井館には分家を置いたのではないだろうか。

一方、東側も小目館との間に谷津があるだけであるが、この方面の防衛を考慮したのが、先に述べた南東に張り出した尾根にある城郭的な遺構であろう。

左の鳥瞰図は高井館の現状から想像したものであるが、東高井館は畑と宅地となっているため、改変されているようであり、本当にこうであったかは自信はない。
いずれにせよ。西高井館から出城までは500mもある。館内一帯は、1種の小型城砦都市であったのであろう。この形式は瑞竜城砦群と良く似ている。
また、台地上と斜面部に漫然と曲輪がある感じは馬坂城とそっくりである。