勝見沢館(城里町勝見沢)36.4609、140.3495
城里町の中心部から笠間方面に県道61号線を約3q行くと勝見沢地区になる。
ここにサザンヤードCCがある。
その北縁部は谷津に面しており、そこにある山に館がある。
しかし、遺構が残っているのは谷津に面した北端部のみであり、南側はゴルフ場となって湮滅しており北端部しか残存しておらず、全貌は分からない。

ここには2010年3月に茨城県遺跡地図を頼りに突入した。
しかし、そこは遺構はなくただの山だった。

↑2010年騙されて突入した山、ニセ勝見沢館、本物の城址の北下から撮影、当然、何もなかった。
そのため、ゴルフ場になって湮滅してしまったと思った。
しかし、茨城県遺跡地図、担当者、マーキングする場所を間違えていたのである。
遺構がある訳がない。
詐欺だ。

正解はその東の山だったのである。
まさに「信じる者は騙される。」である。それから13年が経った。

2023年1月、その東側の山に遺構が残っているとの情報により突入したのであるが・・・・。

↑本物の城址を北下から撮影、斜面には切り倒された木で登るのはに大変である

そこは地獄だった。
御親切に木が切り倒されていた。
倒された木は逆茂木である。
それを乗り越えて登るのであるが、これがとんでもない苦行である。
おそらく、当時の城も切岸や堀には逆茂木を入れていたというので凄い防御効果があったのであろう。
これを突破するにはロシア軍のテルミット焼夷弾が一番であろう。

↑ 城址は小竹の藪、写真を撮っても何が写っているのかさっぱり分からない。土塁に囲まれた主郭内部が何とか撮影できた。

で、ちゃんと遺構は残っていた。
東と西側に横堀があり、北端の最高部には土塁で囲んだ曲輪があった。
ここの標高は84m、北側の今は水田になっている谷津部からの比高は28mである。
遺構は南に延びていたが、湮滅している。
残存遺構から判断すれば、物見台という感じである。
北側の谷津沿いの東方向、西方向を見ている。
横堀を持つことから実際はもっと充実した機能を持っていたのかもしれない。

(以前の記事)

勝見沢館(城里町勝見沢字小屋場)
常北から笠間に向かう県道61号沿いの青山小学校と古内小学校の間の東に勝見沢集落があり、谷津を挟んで南がサザンヤードカントリークラブである。
このゴルフ場の北東側、勝見沢集落方面に突き出た尾根状の比高30mの山が館跡である。

その尾根に登ったが、頂上部はただの山であった。
その南側ではゴルフをしている。
ゴルフクラブの敷地になって消滅したのかもしれない。
しかし、最高地点がただの山というのはどういうことか?
物見台か狼煙台であった可能性もあるが、この山は展望は利かないし、狼煙を上げても伝える者が誰なのか分からない。 

北東側から見た館跡 館の最高個所はただの山だった。 館麓から見た高見沢の集落。
居館を置くならこの場所だろう。

[水府史料」によると「古館」とか「りゅうがい」とも呼ばれているという。
加藤伯耆守の要害であり、子孫の加藤兵庫の時に、佐竹義舜の命で古内一桂齊に仕えた。
古内氏は佐竹氏とともに秋田に移ったが、果たして加藤氏はどうしたのか?

同行したのか帰農したのか。
「諸士系図」では同行説を取っているが。
館のある山から見れば、谷津にある水田を挟んで東下に見える勝見沢の集落は背後、北側に山がある日当たりがよい南向きの段丘上にあり、加藤氏が居館を置くならここだろうなあと思う。

塩子城と御岳、御東、赤沢館(城里町塩子、赤沢)
七会村は現在は石塚町、桂村と合併して今は城里町になっている。
茨城県の北西部に位置し、栃木県茂木町に隣接する。
水戸と栃木を結ぶメインの街道は那珂川に沿った国道123号線であるが、そのバイパス、裏街道が県道51号線であり、ともに茂木町に着く。
その県道51号線やそこから分岐した県道112号線沿いの谷間が旧七会村である。
七会という名前、7つの村が合併してできたのが由来だそうである。

極めて安易なネーミングであるが、吸収合併ではない対等合併の場合の多くはそんなものである。
例によって過疎が進んだ地区であり、合併前は県内で最も人口が少ない村だった。
行きかう人のほとんどが老人である。

かつては激しい村長選で知られ、候補者の家が放火されたり、襲撃事件が起きた。昭和末のことである。
世間では「七会村奇譚」とさえ称されていた。怖い村というイメージがあった。
おそらく、昔あった7つの村間の複雑な利害関係、対立関係が根底に流れているのだろう。

その旧七会地区にも城は存在する。
いずれも砦規模の小さなものばかり。大きな城はない。
山が多いのでまだ埋もれているものも存在すると思われる。
最近確認された塩子要害もその一つであるが、この城は規模は小さく、戦国前期に使われていたもののようだ。

合併前に七会村の記録として作成された「七会村の歴史」という本がある。
「徳蔵館」「萩原長者屋敷」等、周知の城は掲載されているが、これらとは別に「塩子城」という城館が掲載されていた。
同じ塩子にある「塩子要害」とは違う物件である。

どんな城か知りたかったのでちょっと行ってみた。
しかし、誰に聞いても「そんな城、聞いたことない。」という反応だった。
「もしかしてこれか?」という物件があった。
しかし、とても城というような代物ではなかった。
そこは大きな民家であった。住人にも城はもとより「館(やかた)」という認識もなかった。

でも、住人は「先祖は佐竹氏の家臣、秋田に行くのを断りここに住んだ。」と言っていた。
それで「ああここか」ということが分かった。
ここは城と言うものではないが、その姿は武家の屋敷、居館である。

「塩子城」とは「七会村の歴史」の編者の1名がつけた名と思われる。
で、ここでは何と言おうか?適切なネーミングが見つからない。とりあえず、先行している名称である「塩子城」としておく。

場所は県道61号線を城里中心地の石塚から笠間方面に進み、下古内三差路で県道51号線に入り茂木方面に西進し、7qほど進むと七会小学校があるが、さらに1.2q西に行くと仲郷地区となる。
県道沿い北側に高さ4mほどの見事な切岸が見える。
これが「塩子城」である。

切岸の上は住宅と果樹園である。
地元では「御西(おにし)、御東(おひがし)」と呼んでいる。

御東、綺麗な切岸である。田んぼは堀跡か? 御西、段々が重なる。

その名前の通り武家の屋敷、居館である。
東西に分かれているが本家と分家なのか、関係は分からない。
両者の間には小さな沢がある。
切岸下の水田は堀跡のようである。
背後の山に続く部分には特段の防御施設はない。
山裾を段々に削平した居住を目的とした屋敷である。

御西の当主は子孫である「大座畑」氏であり、前記の証言をしてくれた。
さらに「水戸様(水戸藩主)が日光参拝に行く時はここを通り、行く時は「御東」で休憩し、帰りは「御西」で休憩した。」そうである。
江戸時代は庄屋であったらしい。

この塩子城を訪ねる時、何人かの住人に聞いた。
誰も「塩子城なんて知らない。」という反応だったが、何人かの人は「もしかして、あそこの山のことじゃないのか?」とある山を指さした。

「御西」の住人もそうだった。
確かにその山、山頂部が尖がり、この付近では一番目立つ山である。
山頂からの眺望は良く、特に塩子川の下流方面、東方向が良く見えると思われる。

北から見た御岳、比高は120m。 @山頂は平坦。御岳神社が建つ。 A山頂から西に広い尾根がなだらかに下るが、段差はない。

しかも山の東下で茂木と結ぶ県道51号線から笠間方面に向かう県道39号線が分岐する。
いい場所にある。山頂(36.4933、140.2497)には「御岳神社」が建つという。「おんたけ」が「御館」から来たネーミングの可能性もある。・・・となると見たくなる。
2019年12月6日、この山に行ってみた。

しかし、登り口が分からない。
住民に聞いてみると、親切なことに登り口まで案内してくれた。
ここの住民、皆、驚くほど純朴で親切なのである。
外部の者を疑う感じは皆無、こういう人達が詐欺に引っかかりやすいんじゃないか?

てな脱線は置いておいて、早速、御岳神社に向かう。
いくつか登るルートがあるようだが、東下から登る道から登る。
この道、民家裏から登るが地元の人に聞かないとまず分からない。
入口部は湧き水が多く、グチャグチャ状態の酷い道であるが、途中からきれいな山道になる。
整備はされているようだ。それほど急でもない。
この山から東に張り出した尾根があり、付け根が堀切のようになっている。
この張り出した部分を「前山」というが、そこには何もない。

参道は途中で南からの道と合流する。その先に鳥居がある。鳥居を過ぎると急勾配の参道を直攀することになる。
この急斜面、大子の大草砦、常陸太田市の白羽要害と同程度である。
登っていて、なぜ鳥居があの位置が理解できた。石製の鳥居、あそこまでしか運ぶことしかできない!
鳥居の裏に石碑が建っていたが、やはり持って来れるのはここまでだろう。
この急坂では道も整備はされた感じではない。

鳥居から山頂まで比高約50m、急坂の参道を息を切らして登る。途中には平場もない。
堀切なんか造る余地はない。急傾斜が続く。
そして山頂@、意外なくらい広い。
しかも平坦である。南北約30m、東西約20mの楕円形をしている。
標高は三角点があり269.5m、東下が150mなので比高は120mほどとなる。

南西側、参道脇に約2m低く腰曲輪のようなものがある。
神社社殿はかなり痛みが激しい。この神社はこの付近の郷社らしい。
この場で大勢の住民がやってきて神事が行われていたようである。
地元は建て替えをしたいようだが、急激な過疎化で対応できないのが悩みという。

この山頂部から西下に幅10〜15mの比較的広い尾根Aが下っている。
ここを少し下ってみる。曲輪のような切岸は確認できない。堀切もない。
(完全に下まで下った訳ではないので、ないと断言はできないが)尾根の傾斜は南から登る参道に比べてかなり緩やかである。
社殿建設の資材はこの尾根から運び上げたのではないだろうか。

さて、この山、城かどうか?堀、土塁はない。形としては東方に位置する塩子要害の雷神出城にそっくりである。
物見台、狼煙台としてなら十分に使える。
山頂部の広さは後世に広げた可能性もあるが、比較的多くの人間を駐屯させることも可能である。
城館とは断言できないが、その可能性を否定できない。
もし城館なら、西方から登りやすく、それ以外の方向が急傾斜であるため、西側の者が運用したことが想定できる。
その可能性としてはまだ佐竹氏とは従属関係ができていないころ、山入の乱の時期、茂木氏が東と南を警戒したものではないだろうか?
戦国時代末期には狼煙台として使った可能性もあろう。

もう1つの山を挙げた人もいた。
御岳神社のある山から塩子川の流れる谷を挟んで南西約800m、標高270mの山である。
この山、東西に3つ並ぶピークの西端のピーク(36.4870、140.2566)であり、御岳神社の地と同じ標高であり、この山塊の最高箇所である。
ピーク上には「御東様」と地元が呼ぶ祠があるという。
(注:塩子城の「御東」と混同しないように!同名の別物です。)

「あそこじゃないかな?」なんて聞くと行きたくなる。
「百聞は一見に如かず。」である。現場を見なくては語れない。
ここには南側を通る県道39号線沿いに小さな木製の鳥居があり、そこから登る。
この道もほぼ直攀の道であり、きつい。
途中の標高220m地点に南に張り出した平坦地Bがある。
中継の場所か?西側は崖になっている。
北の山頂側への鞍部に堀があればよいが・・「ない。」さらにその先を比高約50m登る。
山頂近くになっても堀切も曲輪状の場所もない。
そして山頂である。
東西15m、南北5mほどのそれほど削平度は良くない平坦地であり、「御東様」の石の祠があるC。

B南の中腹にある平坦地。中継の場か? C山頂部は狭い。御東様の石祠が建つ。

道は東にある267mの三角点のあるピーク部に続く鞍部に下る。
そこの堀切があれば城館の可能性があるが、「ない。」。結局、ここも城館であったのか分からない。

ここからは御岳神社のある山も県道51号線と県道39号線の分岐も良く見える。やはり物見に使った可能性は残るだろう。
山のピークには多くの場合、社や祠があり、平坦になっていることが多いが、祠があるのは何等かの謂れや理由があるのであろうが、共通点は木がなければ眺望に優れる点である。
(だから麓から望むことができるので祠が祀られるのであろうが。)どこも物見には使える場所ではある。
一時的、臨時的に城館として使った可能性は残るだろう。

さらに「七会村の歴史」には「赤沢館」というものが掲載されている。
場所は七会村の南西端、赤沢地区である。
ここには藤井川の上流にあたり徳蔵地区から県道226号線が笠間方面に延びる。西の山を越えると栃木県茂木町の小貫地区である。
すでに徳蔵地区もかなりの山間である。
谷も狭い。さらに上流になれば谷は渓谷状になるのではないかと思うが、そうではない。
けっこう広い水田地帯が広がる。谷というより小盆地である。意外なものである。
赤沢館は笠間市との境、南端部の上赤沢地区の藤井川東岸の丘の上にある。

西には茂木側から山中を抜けて県道226号線に合流する道がある。その合流点を真正面から見る位置(36.4420、140.2150)にある。
明らかに茂木からの街道を監視する役目である。
館跡は立派な民家になっている。館主等については分からない。
(地図は国土地理院のものを利用)