塩子城と御岳、御東、赤沢館(城里町塩子、赤沢)
七会村は現在は石塚町、桂村と合併して今は城里町になっている。
茨城県の北西部に位置し、栃木県茂木町に隣接する。
水戸と栃木を結ぶメインの街道は那珂川に沿った国道123号線であるが、そのバイパス、裏街道が県道51号線であり、ともに茂木町に着く。
その県道51号線やそこから分岐した県道112号線沿いの谷間が旧七会村である。
七会という名前、7つの村が合併してできたのが由来だそうである。

極めて安易なネーミングであるが、吸収合併ではない対等合併の場合の多くはそんなものである。
例によって過疎が進んだ地区であり、合併前は県内で最も人口が少ない村だった。
行きかう人のほとんどが老人である。

かつては激しい村長選で知られ、候補者の家が放火されたり、襲撃事件が起きた。昭和末のことである。
世間では「七会村奇譚」とさえ称されていた。怖い村というイメージがあった。
おそらく、昔あった7つの村間の複雑な利害関係、対立関係が根底に流れているのだろう。

その旧七会地区にも城は存在する。
いずれも砦規模の小さなものばかり。大きな城はない。
山が多いのでまだ埋もれているものも存在すると思われる。
最近確認された塩子要害もその一つであるが、この城は規模は小さく、戦国前期に使われていたもののようだ。

合併前に七会村の記録として作成された「七会村の歴史」という本がある。
「徳蔵館」「萩原長者屋敷」等、周知の城は掲載されているが、これらとは別に「塩子城」という城館が掲載されていた。
同じ塩子にある「塩子要害」とは違う物件である。

どんな城か知りたかったのでちょっと行ってみた。
しかし、誰に聞いても「そんな城、聞いたことない。」という反応だった。
「もしかしてこれか?」という物件があった。
しかし、とても城というような代物ではなかった。
そこは大きな民家であった。住人にも城はもとより「館(やかた)」という認識もなかった。

でも、住人は「先祖は佐竹氏の家臣、秋田に行くのを断りここに住んだ。」と言っていた。
それで「ああここか」ということが分かった。
ここは城と言うものではないが、その姿は武家の屋敷、居館である。

「塩子城」とは「七会村の歴史」の編者の1名がつけた名と思われる。
で、ここでは何と言おうか?適切なネーミングが見つからない。とりあえず、先行している名称である「塩子城」としておく。

場所は県道61号線を城里中心地の石塚から笠間方面に進み、下古内三差路で県道51号線に入り茂木方面に西進し、7qほど進むと七会小学校があるが、さらに1.2q西に行くと仲郷地区となる。
県道沿い北側に高さ4mほどの見事な切岸が見える。
これが「塩子城」である。

切岸の上は住宅と果樹園である。
地元では「御西(おにし)、御東(おひがし)」と呼んでいる。

御東、綺麗な切岸である。田んぼは堀跡か? 御西、段々が重なる。

その名前の通り武家の屋敷、居館である。
東西に分かれているが本家と分家なのか、関係は分からない。
両者の間には小さな沢がある。
切岸下の水田は堀跡のようである。
背後の山に続く部分には特段の防御施設はない。
山裾を段々に削平した居住を目的とした屋敷である。

御西の当主は子孫である「大座畑」氏であり、前記の証言をしてくれた。
さらに「水戸様(水戸藩主)が日光参拝に行く時はここを通り、行く時は「御東」で休憩し、帰りは「御西」で休憩した。」そうである。
江戸時代は庄屋であったらしい。

この塩子城を訪ねる時、何人かの住人に聞いた。
誰も「塩子城なんて知らない。」という反応だったが、何人かの人は「もしかして、あそこの山のことじゃないのか?」とある山を指さした。

「御西」の住人もそうだった。
確かにその山、山頂部が尖がり、この付近では一番目立つ山である。
山頂からの眺望は良く、特に塩子川の下流方面、東方向が良く見えると思われる。

北から見た御岳、比高は120m。 @山頂は平坦。御岳神社が建つ。 A山頂から西に広い尾根がなだらかに下るが、段差はない。

しかも山の東下で茂木と結ぶ県道51号線から笠間方面に向かう県道39号線が分岐する。
いい場所にある。山頂(36.4933、140.2497)には「御岳神社」が建つという。「おんたけ」が「御館」から来たネーミングの可能性もある。・・・となると見たくなる。
2019年12月6日、この山に行ってみた。

しかし、登り口が分からない。
住民に聞いてみると、親切なことに登り口まで案内してくれた。
ここの住民、皆、驚くほど純朴で親切なのである。
外部の者を疑う感じは皆無、こういう人達が詐欺に引っかかりやすいんじゃないか?

てな脱線は置いておいて、早速、御岳神社に向かう。
いくつか登るルートがあるようだが、東下から登る道から登る。
この道、民家裏から登るが地元の人に聞かないとまず分からない。
入口部は湧き水が多く、グチャグチャ状態の酷い道であるが、途中からきれいな山道になる。
整備はされているようだ。それほど急でもない。
この山から東に張り出した尾根があり、付け根が堀切のようになっている。
この張り出した部分を「前山」というが、そこには何もない。

参道は途中で南からの道と合流する。その先に鳥居がある。鳥居を過ぎると急勾配の参道を直攀することになる。
この急斜面、大子の大草砦、常陸太田市の白羽要害と同程度である。
登っていて、なぜ鳥居があの位置が理解できた。石製の鳥居、あそこまでしか運ぶことしかできない!
鳥居の裏に石碑が建っていたが、やはり持って来れるのはここまでだろう。
この急坂では道も整備はされた感じではない。

鳥居から山頂まで比高約50m、急坂の参道を息を切らして登る。途中には平場もない。
堀切なんか造る余地はない。急傾斜が続く。
そして山頂@、意外なくらい広い。
しかも平坦である。南北約30m、東西約20mの楕円形をしている。
標高は三角点があり269.5m、東下が150mなので比高は120mほどとなる。

南西側、参道脇に約2m低く腰曲輪のようなものがある。
神社社殿はかなり痛みが激しい。この神社はこの付近の郷社らしい。
この場で大勢の住民がやってきて神事が行われていたようである。
地元は建て替えをしたいようだが、急激な過疎化で対応できないのが悩みという。

この山頂部から西下に幅10〜15mの比較的広い尾根Aが下っている。
ここを少し下ってみる。曲輪のような切岸は確認できない。堀切もない。
(完全に下まで下った訳ではないので、ないと断言はできないが)尾根の傾斜は南から登る参道に比べてかなり緩やかである。
社殿建設の資材はこの尾根から運び上げたのではないだろうか。

さて、この山、城かどうか?堀、土塁はない。形としては東方に位置する塩子要害の雷神出城にそっくりである。
物見台、狼煙台としてなら十分に使える。
山頂部の広さは後世に広げた可能性もあるが、比較的多くの人間を駐屯させることも可能である。
城館とは断言できないが、その可能性を否定できない。
もし城館なら、西方から登りやすく、それ以外の方向が急傾斜であるため、西側の者が運用したことが想定できる。
その可能性としてはまだ佐竹氏とは従属関係ができていないころ、山入の乱の時期、茂木氏が東と南を警戒したものではないだろうか?
戦国時代末期には狼煙台として使った可能性もあろう。

もう1つの山を挙げた人もいた。
御岳神社のある山から塩子川の流れる谷を挟んで南西約800m、標高270mの山である。
この山、東西に3つ並ぶピークの西端のピーク(36.4870、140.2566)であり、御岳神社の地と同じ標高であり、この山塊の最高箇所である。
ピーク上には「御東様」と地元が呼ぶ祠があるという。
(注:塩子城の「御東」と混同しないように!同名の別物です。)

「あそこじゃないかな?」なんて聞くと行きたくなる。
「百聞は一見に如かず。」である。現場を見なくては語れない。
ここには南側を通る県道39号線沿いに小さな木製の鳥居があり、そこから登る。
この道もほぼ直攀の道であり、きつい。
途中の標高220m地点に南に張り出した平坦地Bがある。
中継の場所か?西側は崖になっている。
北の山頂側への鞍部に堀があればよいが・・「ない。」さらにその先を比高約50m登る。
山頂近くになっても堀切も曲輪状の場所もない。
そして山頂である。
東西15m、南北5mほどのそれほど削平度は良くない平坦地であり、「御東様」の石の祠があるC。

B南の中腹にある平坦地。中継の場か? C山頂部は狭い。御東様の石祠が建つ。

道は東にある267mの三角点のあるピーク部に続く鞍部に下る。
そこの堀切があれば城館の可能性があるが、「ない。」。結局、ここも城館であったのか分からない。

ここからは御岳神社のある山も県道51号線と県道39号線の分岐も良く見える。やはり物見に使った可能性は残るだろう。
山のピークには多くの場合、社や祠があり、平坦になっていることが多いが、祠があるのは何等かの謂れや理由があるのであろうが、共通点は木がなければ眺望に優れる点である。
(だから麓から望むことができるので祠が祀られるのであろうが。)どこも物見には使える場所ではある。
一時的、臨時的に城館として使った可能性は残るだろう。

さらに「七会村の歴史」には「赤沢館」というものが掲載されている。
場所は七会村の南西端、赤沢地区である。
ここには藤井川の上流にあたり徳蔵地区から県道226号線が笠間方面に延びる。西の山を越えると栃木県茂木町の小貫地区である。
すでに徳蔵地区もかなりの山間である。
谷も狭い。さらに上流になれば谷は渓谷状になるのではないかと思うが、そうではない。
けっこう広い水田地帯が広がる。谷というより小盆地である。意外なものである。
赤沢館は笠間市との境、南端部の上赤沢地区の藤井川東岸の丘の上にある。

西には茂木側から山中を抜けて県道226号線に合流する道がある。その合流点を真正面から見る位置(36.4420、140.2150)にある。
明らかに茂木からの街道を監視する役目である。
館跡は立派な民家になっている。館主等については分からない。
(地図は国土地理院のものを利用)