塩子要害と雷神出城(城里町塩子)
水戸市の北西に隣接する町が城里町である。
平成の大合併で旧常北町、旧桂村、旧七会村が合併してできた町である。
水戸のベットタウンであるが、鉄道は通じていない。

水戸から栃木県茂木方面に通じる国道123号線、茂木街道がメインの国道として通っている。
「ほどほどの田舎」と町のHPに書かれていたが、その通り。
「ほどほどの」の意味が微妙、とっても特段問題はないと思うが・・・。自然は豊富、環境だけは間違いなく「良い」。ただそれだけは言える。

この町のネーミング、「城里」、その語源が分からない。
「城」の里である。その「城」とはどこの城を指すのか?
ここには石塚城、大山城、那珂西城、孫根城等があるが、それらを指しているのか?
しかし、その割にはこれらの城、それほど大切には扱われてはいない。
城の存在を知らない町民もかなりいるようである。
となると「水戸城」?まさかねえ?それ隣の市町村じゃない。

まあ、それはともかくとして、タイトルの「塩子要害」、ある場所は旧七会村、合併した3町村の中では一番西側の山間に位置し、栃木県茂木町と隣接する。
少し西に行けば「ツインリンクもてぎ」がある。
塩子要害のある塩子地区は城里町役場から西に直線で約10q、県道51号線を走った場所にある。
那珂川に沿った国道123号線の裏街道にあたる。

塩子という地名、読んで字のごとく、塩の道である。その宿場町として栄えたようであり「上宿」「下宿」の地名が残る。
今は萎びた田舎に過ぎないが戦国時代はここが重要な街道であったことが伺える。

なお、ここは鉱石マニア「トレジャーハンター」の聖地でもある。
北側に「高取鉱山」跡がある。佐竹氏が支配していた時代に「金」鉱山として開発されたが、代表的産物は「タングステン」。
国内唯一の鉱山だった。「タングステン」は硬い金属であるため、砲弾の先端に使い貫通力を高める重要な軍事物資である。
このため戦前戦中は繁栄したという。現在は採算がとれなくなって閉山している。
しかし、廃鉱滓の中から水晶やトパーズ、孔雀石等が採取されるため、マニアがたくさん来る。

肝心の塩子要害であるが、この地の中心である七会小学校などがある地区の南にそびえる山にある。
この地区の東に道の駅「山桜」があるが、そこから北西を見ると目立つ山がある。その山にある。
↑の写真は南東側から見た城址である。
右のピークが本城である遺構Bである。その左の平坦に見える場所が遺構Cである。右の道路は県道51号線。


塩子地区とこの山との間には塩子川が流れる。
国土地理院の地図に203mの標高が記入されている山がBの遺構である。

麓の標高が108mなので比高は100m弱であるが、山の北裾が塩子川が流れ、急勾配であるため、比高以上に手ごわい山である。
↑の図は国土地理院の地図に描き込んだ遺構の位置である。赤の点線が歩いたルートである。

ここに城らしいものがあるとの情報は城マニアのM氏からもたらされ、その確認のために出向いた。
さて、どこから登るか?

山の西側に民家があり、その家の横あたりから登れるようである。
まずは民家の方に挨拶して情報を仕入れる。
だいたい、城の情報を知っているのは爺ちゃんがほとんど、おばあちゃんが知っていることは少ない。

爺ちゃんが見当たらないのでばあちゃんに「この山に城、あるって聞いたんだけど知らない?」と聞いてみる。
大体、「城なんて聞いたことねえなあ」という回答を予想する。

遺構A「雷神出城」の山を西下から見る。 @遺構A「雷神出城」の土壇に建つ社。

そのばあちゃん、Y野さん。
あっさり「あるよ。城って言われているよ。その山だよ。昔は小学校の遠足で行ったもんだ。でも、もう道が荒れ、とてもじゃないけど行けねえと思うよ。」とのことだった。
意外な回答だった。

でも、M氏の言っている山とは違う山をY野さんは指しているのである。
ともかく、確認のため、突入。
しかし、「道が荒れている」というだけあり、登る道は杉の倒木が酷く難儀、倒木を潜ったり、乗り越えたりして進む。すでに道が消えかかっている部分もある。
ともかく尾根に出れば、と思い強引に尾根上に直登して標高163mの尾根鞍部に出る。ここまでけっこうエネルギーを使う。

尾根上は意外と平坦。
登り道が尾根に出る部分は堀切状になっている。
まずはY野さんが言っていた山を目指す。

その山はM氏情報の山がこの山塊の東端だったのに対し、西端の標高184mのピークである。
尾根上は幅8〜10mほどあり、平坦。
藪はそこそこであるが、それほど酷いものではない。

登り切った先が城跡だが、そこまでの間の尾根上に井戸跡と思われる窪みや腰曲輪、道が尾根に出る堀状の場所等がある。
ピーク部は20×15mほどの平坦地に過ぎない。ここが遺構Aである。
西側が少し高く石の社@がある。
Y野さんが「雷神さん」と言っていたものだ。
東側の平場が若干くぼんでいる。
狼煙穴か?

南西に尾根が張り出し曲輪状になっている。
そこに拳大から子供の頭ほどの大きさの石がたくさんあった。
これは投石用のものかもしれない。
この山の南に続く尾根以外の方向は急坂である。尾根伝い以外から攻めるのは困難である。
この遺構であるが、小規模なものである。これは西方向を見張る物見台兼狼煙台であろう。

さて、ここからM氏の言う東のピークに向かおうとするが、谷を越えなくてならない。
直線距離は短いのではあるが、地図で見るよりははるかに谷は深く、藪のようである。
このため、安全策として来た尾根を戻り、南に向かい、さらに北に向かう迂回路を選択する。
この尾根を戻り、南に向かい鞍部を過ぎ登り始めると途中に尾根に堀のような、塹壕のような凸凹の場所Aがある。
ここが遺構Dである。ただし、これが城郭遺構かはすぐには判断できない。

D遺構D、溝が複雑に絡み合う。 C遺構C、平坦で広い。遺構群の中継所か?

その南には広い平坦地がある。
そこから先は篠竹地獄である。
尾根の分岐を北に向かう。
途中に標高210mのピークがある。この山塊の最高地点である。
ここに何かあるような気がしたが、「ない。」。
東に降りると、山が削られた跡がある。
そこは山砂取が行われていた。山の上にあった大型のシャベルカー、まるで怪獣のようだった。

そのピークを北東に向かうと平場がある。ここが遺構Cである。径20mほどある。人工的である。ここは中継点であろう。
ここから北東に延びる尾根の鞍部を越えるとM氏の言っていた遺構Bである。
普通、尾根筋には堀切を置くはずであるがない。
ピーク近くになると先方に2段の切岸が見えてくる。本物の遺構である。
1つ目の切り岸を登ると腰曲輪Aに出る。幅は5mほどだが内部はよく整地されている。若干東に傾斜し、東側は竪堀となる。
ここにも投石用と思われる石がたくさんある。

その曲輪の4m上が主郭Aである。
主郭は50p程度の段差を置いて3段ほどになり、東西40m×南北最大20mの三角形。
最高箇所が若干高く、南側が膨らんでいる。

A遺構Bの腰曲輪、右の切岸の上が主郭部 B遺構Bの主郭部内部はまずまずの藪度。

若干縁部が盛り上がっているので土塁があったかもしれない。
曲輪内部Aはそれほどの藪ではない。
ここからは北の眼下に塩子地区の中心部が望まれ、塩子川の下流方面の眺望がばっちりである。
北西側と東側に尾根沿いに曲輪があるが、タラの木に阻まれ、十分に確認はできない。

来た道を戻り、Y野さんに挨拶をするが、Y野さん東のピークにある遺構Bのことは知らなかった。
「よくあんなところに行けたねえ。」と感心される。
喉乾いたでしょうと、ペットボトル2本いただく。田舎の人は優しい。

以上がこの山塊の城であるが、規模からして東のピークBが主城、西のピークAが出城(「雷神出城」)であろう。
Y野さんは「塙」さんの城と言っていた。「塙」は塩子地区にある地名である。
おそらくここに来た人が地名の「塙」を名乗ったものと思われる。

さて、この城であるが、東のピークからが塩子川の下流方面、南東方面の城里側を見ている感じであるので西側の者が東側を見張るような感じである。
尾根筋には堀切があってもよさそうであるが、存在しないので古い感じがする。

西の出城は背後の援護用か?となると佐竹に従属する前の茂木氏の城か?そうなら戦国前期の山入の乱の頃か?
または尾根筋が広いことから、塩子地区の住民の避難用の城かもしれない。
北の山すそを流れる塩子川が天然の水堀であり、背後の南側は山続きであるので、この方面からは攻撃がしにくい。
時代を経て地域支配が安定化すると塩の道を抑えるための城となったかもしれない。
時代により使われ方は変わっていったのであろう。

二反田城(城里町小勝)
塩子要害の南西、道の駅「山桜」西で県道51号線から県道112号線が分岐し、徳蔵方面に約2.5q進んだ小勝(おがち)地区にある。
この谷筋を流れる藤井川にかかる二反田橋の北の山が城址である。

東から見た城址の山。左の道は県道112号線。山の裾を藤井川が流れる。 二反田橋から見た城址。川が藤井川、水堀の役目を果たす。
左の民家の屋号が「二反田」、ここは根小屋であろう。

橋を渡ると山の麓に廃屋が見える。
ここの屋号が「二反田」というそうである。おそらく城主の根小屋らしい。

東を流れる藤井川が水堀の役目を果たしている。
城へはこの廃屋の裏を上がれば良いのだが、それは下山して気がついたこと。

それを知らなかったので、かつて余湖さんが訪れた時の東からのルートを選択した。
麓の住人に聞くと「以前にも城を訪ねて来た人に聞かれたことがある。」とのこと。
多分、余湖さんだろう。

こんな城に行く人、ほとんどいるとは思えない。
でも地元の人、城があることは認識しているが、誰も行ったという人がいない。
まあ、行く価値もないのだろう。

当然、道などない。このため、適当な場所を見つけて直登である。
勾配は急で岩も多いが木も生えているのでそれに掴まりながら尾根上に。
尾根に出ればなんとかなる。城址から北に派生する尾根に出た。
尾根上は幅が3mほどであるが平坦で歩きやすい。
後は尾根を歩くだけ。
尾根には猪のウンコがたくさん転がっている。
今の御城主さんのようだ。これが信州なら熊殿が城主か?
尾根の途中に埋もれた堀切らしい場所があった。

最上位の場所が主郭@であるが、そこは削平もされていない自然の山である。
また場所を間違えたか?と思い探索すると西側に腰曲輪と下に土橋のような場所を発見、土橋の北は竪堀になっている。

土橋の先、西側は広くなっている。
腰曲輪からは南に横堀Aが緩やかに下って行く。
長さは50mほどある。
末端Bで堀切状になり、東側は竪堀状になる。

堀切の南側にもう1つ堀切があり、北に犬走りのような細い曲輪が土橋の場所まで延びる。
しかし、これらに遺構、ほとんど埋没している。余程注意しないと分からない。
横堀は一見、山道のようにしか見えない。

城内のところどころに穴が開いている。
倒木に伴うものより大きいので人工のもののようである。
井戸か、狼煙台なのだろうか?
尾根は東にも派生しているが、先が急勾配になっているため、特段、曲輪状にはなっていない。

城と言っても、この程度のものであり、自然の山に若干、手を加えただけのものである。
物見台レベルである。

@主郭部は自然の山 A主郭西側の横堀であるが埋もれている。 B南端の2重堀切、ここも埋もれている。
良く見ないとわからない。ここを下ると根小屋に出る。

西側に重きを置いた感じであるが、この城を攻めるとしたら山続きの北側からまわり込み、土橋のあった西側から攻めるのが一番楽そうである。
それ以外の3方は勾配がきつかったり、川があったりして簡単ではない。地形頼りで無防備でも良いであろう。
西側に遺構が集中しているのはその弱点を補うための措置であろう。
肝心の主郭部、自然の山というのは、物見程度の役割しか期待していない証であろう。

さて、この城であるが、山頂部からは西側の徳蔵方面は山があって見えない。
見えるのは藤井川の下流方面、城里町方面である。
山裾を藤井川が流れ、根小屋は藤井川の西側にある。
徳蔵には徳蔵館があり、戦国前期には笠間氏の領土だったという。(荻原長者屋敷はもっと後のものか?)
したがって、ここは徳蔵館を守るための東側の出城、物見ではなかったと思う。
戦国後期はこの地は大山氏が支配していたと思われる。
その頃には役目が不能となり使っていなかったと思われる。

萩原長者屋敷(城里町(旧七会村)徳蔵)

旧七会村の中心部、徳蔵寺の南600m、徳蔵のT字路を笠間方面に400mほど走った東側の比高40mの山上にある。

城は東から西側に張出す尾根の末端部にあり、北側は藤井川の低地、南と西側は浸食谷である。
現在、緑地広場として整備されており、公園となっている。
右の写真は徳蔵の交差点付近から見た館跡である。

屋敷といっても小規模ではあるが完全な中世城郭である。
しかも遺構の90%は残っている。
この地は過疎で開発の波が押し寄せないため、遺構が完全に残ったものであろう。
公園化は遺構をそのままにし、本郭内を公園とし、曲輪をアスレチック広場にしただけのものである。
この城については弘法大師と徳蔵姫の悲恋伝説があるが、現在残る遺構は明らかに戦国期のものであり、伝説とは時代が違いすぎる。
平安時代に館として築かれ、戦国時代に改変されたものかもしれない。
さて城郭であるが、本郭は直径50m程の5角形に近い形であり、その周囲に土塁を巡らし、その外に堀と土塁を巡らすという、佐竹系城郭に特徴的な形式を持つ。
堀の深さは3mほど、土塁間の幅は6,7m程度と規模は大きくはない。山に続く東側に高さ2mほどの土塁があり、その背後に深さ4m、幅6mほどの堀が存在する。
北側と東側に土橋があり、本来の虎口があったようである。現在、南東側及び西側にも入り口があるが、これは公園化に伴うものであろう。
本郭部の下側には東側を除き、帯曲輪が本郭の周りを3/4周し、さらに南側と北側の斜面に曲輪を配置する形式を持つ。
@ 南東側の湾曲した堀 A東の虎口から見た曲輪内部 B北の虎口東側は土塁に横矢がかかっている。
C西側の堀底 D西側の堀と外周の土塁 E 山側を遮断する堀切

歴史は伝説の域を出ず全く謎であるが、この地は笠間氏あるいは佐竹氏の重臣、石塚氏の領土であり、支城であるとともに、この地を管理する城あるいは見張り城、狼煙台としての性格を有していたのではないだろうか。果たして、ここで狼煙が上がったことはあったのか?

越後館(城里町小坂越後山)
常北から笠間に向かう県道61号沿いの青山小学校前の信号を北に曲がり、すぐに左折して西に向かうと道は西田川に沿って走り、小坂地区となる。
約1qほど進むと小坂農村集落センターがあり、その北側の岡が館跡である。
ここは水戸レイクスカントリークラブの南西端にあたる。

館のある山は比高が20m程度、東から西に突き出た岡の突端部である。
先端部は高さ10mほどの岩盤の崖がむき出しになっている。岡の麓に1軒の民家があり、その家を巻くように道が付いており、それを進めば館跡である。
館跡は畑、または牧草地になっており改変を受けているようであったが、櫓台や土塁が一部残る。また帯曲輪などはほぼ完存状態であった。
この道を上がると畑がある。ここは帯曲輪の跡であろう。
さらに登る道があるが、ここは軽トラが入れるように無理やりに崩して道をつけているようである。

本郭に相当する部分@は東西70m、南北40mの広さで西側に向かって緩く傾斜している。
東端には長さ10m、高さ1mほどの土壇Aがあり、石の社がある。
北側と西側に土塁の残痕がある。
南側から登るような道Bが付けられているが、これが本来の道である可能性が大きいと思う。
土壇の東側は堀兼通路だったようであり、北に下りる道(兼竪堀)があり、北下に曲輪がある。
東側に土塁が延び、東の尾根に続く平坦になっているが、城郭遺構はない。
おそらくこの方面が大手であったようであり、南下からこの東側に登り、西側の主郭部に入ったようである。
一方、本郭の西端に下に降りる道があり、そこを下りると帯曲輪Cである。
この帯曲輪は本郭の北下5mをぐるりと巡る。一方で西下に降りる細い道があり、岩盤下の平坦地に行ける。ここが搦手道のようである。
名前の「越後」の根拠は不明。伝承では上杉氏の家臣が築いたものだという。
応永14年(1407)上杉氏から佐竹氏に養子に入った佐竹義人に同行してきた山方盛利の家臣のことかもしれない。
西側から見た館跡 @本郭内部は牧草地で西に傾斜している。 A本郭の東端には土壇がある。
B本郭南下の曲輪から本郭に上がる道 C本郭西下の帯曲輪 D麓にある平坦地は廃寺跡?居館跡?

戸倉館(城里町(旧七会村)徳蔵)
七会村の中心部、七会村役場の西500m、西小学校や徳蔵寺のある台地が館址。
館は北側の山地から藤井川の低地に張り出した平坦な台地にあり、低地からの比高は10m程度。
明確な遺構は見られないが、土塁跡と推定される遺構が散見される。

徳蔵寺の地が内郭に相当するが、ここはもともと寺院であったらしい。
戦国の城館としては、西小学校の地が館の主要部であり、発掘調査では薬研堀や中世の陶器類が出土しているという。
この場所は北側と西側が谷津状になっており、徳蔵寺の間に堀切を入れると完全に独立した形となる。

戦国時代は修験僧の寺であり、ここの僧兵が笠間に侵入したこともあった。
かつては付近に多くの僧院が建てられていたと推定される。
寺院城郭であったが、笠間氏の攻撃を受け、寺は廃塵となり、以後、笠間氏が笠間城の支城として周囲を支配したという。
ただし、戦国時代を通して笠間氏が支配したのか、佐竹氏一族、石塚氏が支配したのかは定かではない。
佐竹氏の有力な軍事力として寺院の僧兵が上げられているが、この館も笠間氏あるいは、佐竹氏の軍事力の一翼を担っていたものと考えられる。

内郭に当たる徳蔵寺 館の主要部は西小学校の地 徳蔵寺と小学校の建つ台地間に虎口があった。

作内館(城里町那珂西)

那珂西地区の西端、南に西田川の流れる谷津田の水田地帯が広がる。
その水田地帯に北から突き出た細長い半島状の岡があり、そこが館跡であったという。
水田地帯を介して南側は水戸市であり、その対岸には私立リリーベール小学校があり、そこからは直線距離で北500mである。
館のあった岡は西が西田川の開析した谷津であるが、東も谷になっていたようである。
しかし、宅地造成でその谷は埋められて、新興住宅街になっている。
館跡は今は荒地であるが、そのうち造成されるものと思われる。
岡の上に青いビニールシートがかけられていたが、発掘調査でもしたのかな?
作内氏広の居館であったというが、詳細不明。

八幡館(城里町春園野田字仲野田)
県道61号線の「青山小学校」前の交差点から高久方面に1.5km北上すると、道はT字路に突き当たるがそこを左折し、300m行くと新善光寺跡がある。
ここを右折し直進し、谷津を越えた台地が館跡である。道はここで終わりとなる。

この場所は北が高久城との間にある谷津、南側も谷津という半島状台地の突端部分である。
道に沿った土手上が館跡だったというが、広い。@(道Eは堀跡かもしれない。)東西200m、南北100mほどある。

内部は畑と宅地である。ふと北東を見ると土塁のようなものが見える。
そこに向かうがそこに行く登り道@が虎口状であり、どうも本物のような感じである。
問題の土塁Bは民家の西側に存在し、北側に40m、そこから東Cに曲がって50mほど残っていた。
高さは3mほどである。
南側にも続いていた可能性があるが、湮滅したようである。

さらに北側斜面に向けて高さ1mほどの土塁Dが、そして西側にも高さ1mの土塁が続いている。
地元の人は牛舎のある西側が馬場であったと言っていた。その馬場で馬を整え、曲輪内に入ったと言う。

下馬して館内に入るということは聞いたことがあるが、乗馬してというのは始めて聞いた。
したがって、本郭の虎口は土塁の切れた位置にあったようである。

左の写真は国土地理院が昭和61年に撮影した航空写真である。
ここに土塁(水色)と切岸(黄色)を描き加えた。
@館跡に上がるこの部分は虎口か? A郭内は畑と民家である。 B民家西側に残る土塁
C Bの土塁は東に曲がって続く。 D Bの土塁の延長上に高さ1mほどの低い土塁
が北に続く。
E 南側の切岸。道路は堀跡か?

この館には佐竹氏家臣八幡但馬守という者の居館し、佐竹氏に従って秋田に移り、野田惣左衛門と名乗ったという。恐らく「野田」はこの館のあった字から取ったものではなかったかと推定する。
この地は現在は不便な場所であるが、周囲が谷津で要害堅固である。
非常に広い敷地を持つが、周囲を土塁が巡っていた(地元の人は北側に土塁が巡っていたと言っていたので全周にあった可能性は大きい。)とすれば、凄い規模の居館であり、かなり地位と勢力を持った者であったようだ。

勝見沢館(城里町勝見沢字小屋場)
常北から笠間に向かう県道61号沿いの青山小学校と古内小学校の間の東に勝見沢集落があり、谷津を挟んで南がサザンヤードカントリークラブである。
このゴルフ場の北東側、勝見沢集落方面に突き出た尾根状の比高30mの山が館跡である。
その尾根に登ったが、頂上部はただの山であった。
その南側ではゴルフをしている。ゴルフクラブの敷地になって消滅したのかもしれない。
しかし、最高地点がただの山というのはどういうことか?
物見台か狼煙台であった可能性もあるが、この山は展望は利かないし、狼煙を上げても伝える者が誰なのか分からない。 

北東側から見た館跡 館の最高個所はただの山だった。 館麓から見た高見沢の集落。
居館を置くならこの場所だろう。

[水府史料」によると「古館」とか「りゅうがい」とも呼ばれているという。
加藤伯耆守の要害であり、子孫の加藤兵庫の時に、佐竹義舜の命で古内一桂齊に仕えた。
古内氏は佐竹氏とともに秋田に移ったが、果たして加藤氏はどうしたのか?
同行したのか帰農したのか。「諸士系図」では同行説を取っているが。
館のある山から見れば、谷津にある水田を挟んで東下に見える勝見沢の集落は背後、北側に山がある日当たりがよい南向きの段丘上にあり、加藤氏が居館を置くならここだろうなあと思う。

四方(しぼう)とや城(城里町小勝)

常北方面から七会方面に県道112号線を走り、城里町七会支所(旧七会村役場)の4.5q東にある高齢者コミュニティセンターのすぐ南側の山が城址である。
右の写真は県道脇から撮影したものである。
この山の東側は「ひたち平和記念墓地公園」がある山である。

山の比高は県道からは約30mくらいであり、東側から西に突き出た半島状の山、突端部にある。

現在、城の東は切通になっているが、これは堀切を利用したものであろう。
城の主郭部は東西120m、南北40mの広い平坦地である。
井戸跡と思われる場所が2箇所ほどある。
面白いのは山の北側には5,6段の帯曲輪が存在することである。
曲輪間の高度差はバラバラであるが、最大で5mほどあり、急傾斜である。

一見、後世、畑にした跡かとも思ったが、日当たりの悪い北斜面に畑を造成することはないであろう。

ちなみの城のある山の南斜面を見て見たが畑に利用したと思われる帯曲輪のようなものはなかった。
したがって、これらは帯曲輪であったものと考える。

@本郭内部は広い。井戸跡らしきものが2箇所。 A北側斜面は5,6段の帯曲輪がある。 B東の切通の道は堀切跡を利用したものだろう。

この城の性格であるが、街道筋を監視する城であるとともに、西の長者屋敷からの狼煙リレーを中継するあるいは、笠間氏の城であったなら逆に長者屋敷、戸倉館に狼煙で伝えるための城でもあったのであろう。
主郭部が非常に広大であるが、この広さからして居館か蔵が置かれていたか、住民の避難スペースであったかもしれない。
(住民の避難城としては、里に近すぎるかもしれない。)