堀の内館(菅谷堀の内)

以前の記事は以下のようである。
『現在は那珂バイパスが館の中央を分断しているため、バイパスの東西の杉林、竹林の中にわずかに土塁、堀の遺構が見られるのみである。
 館の北側は水田地帯であり、その南の微高地上にあるが、水田よりはかなり距離が離れている。
 150m四方程度の規模はあったと思われ、3つあるいは4つの小さな郭があったと推定される。
 江戸氏の家臣である大和田主水という者が居館したと伝えられる。大和田氏は鎌倉北条氏の流れを組み、下総大和田に住んだので「大和田」を称し、その一部が当地に移ったものという。その子孫は後に佐竹氏に仕え、秋田に行き、一族の一部は地元に残って帰農したと言う。』
 添付した写真も館内に残る稲荷社の1枚のみ。ほとんど隠滅してしまったものと思っていた。
ところが、この近くにお住まいのLさんが、まだ、遺構が残っていることを発見。
この情報に基づき、再訪した。確かに一部であるけれど遺構はあった。
はじめは、この館の中心部は稲荷社の祠付近かと思っていた。
しかし、これは誤認であり、稲荷社は最南西端だったのである。
主郭部はもっと北であった訳である。

(那珂町史の研究第12号参考)
@主郭(右)南側の堀。 A東に延びる堀は痕跡のみ。 B道路が堀跡らしい。
C大手口に建つ稲荷社。 D大手口の土塁。 E国道西側の杉林内の堀。

堀の内西館(菅谷下宿)

国道349号を挟んで、堀の内館の西200mにある杉と竹の林の中に館と思われる遺構が存在する。
名も付いていないので、仮称「堀の内西館」と記載する。
この林はちょうどJR水郡線下菅谷駅の東に見える。
ここを知ったのは、この付近にお住まいの「ラビリンス」さんが、ここに土塁と堀があったというお子さんの話を聞き、土塁と堀の存在を確認したとの連絡をもらったことによる。
この情報を元に現地に行き描いたのが右の縄張図である。
この遺構が中世の「館」であるかは、これだけでは判断できない。
単なる灌漑施設なのかもしれない。
ただし、「館」という伝承もあるようである。
遺構が存在するのは林の北側部分100mのみであり、南側はない。隠滅した可能性もある。
存在する遺構は堀、土塁、井戸である。東西は堀、土塁が南に折れていたようであり、館とすれば、この地区に良く見られる方形館であるようである。
ただし、堀はこれが堀と呼ばれるものかは判断できないところがある。
部分的には結構な幅があるが、西側は狭い。埋没も激しいが、形状は明確に確認できる。
堀は一部、二重にはなっているが、飛び越えられるような幅しかない。まるで用水路であり、これでは館としての防御力はない。この点が館と断言できない最大の要因であるが、この程度のもので館としているところもないことはないので何とも言えない。。
この堀に沿って土塁があるが、低い。ただし、東端に高さ4mほどの土壇状の高まりがある。
これが遺構なのかは判断できない。
単なる土砂置き場の山のようにも見える。林の中に直径4mほどの穴がある。これは井戸に見えるのであるが?
中央部分の堀と土塁(右)。この部分の堀幅は5mほどある。 南側には井戸らしい跡がある。 西側の堀は幅が狭く、堀と言えるかどうか。 東端にはひときわ高い土壇があるが、遺構かどうか分からない。