龍崖城(常北町上入野)
水戸市の北西端部に森林公園がある。この城はその森林公園の北1qにある白雲山にある。
水戸ICからは北4qである。
行政上は城里町側に入り、町の南端部にあたる。城のある山の北東麓には真言宗白雲山小松寺があり、南の麓には藤井川ダム、南西の麓には「ふれあいの里」キャンプ場がある。
山の東には「サテライト水戸」がある。
山は小松寺と「ふれあいの里」の間にあり、南から西側をまわって北側に藤井川が流れる。
山の標高は最高地点で145m、比高は130mくらいである。山には遊歩道が「ふれあいの里」から延びており堀切を遊歩道に利用している。
しかし、この道は荒れてきており、東屋や展望台もあるが、藪化しつつある。
この城に行くのは、この遊歩道があるので比較的簡単である。どこからでも行けるが小松寺の駐車場裏に山に入る道があり、その道を行ってみた。
そもそも、この小松寺、非常に怪しい。

平重盛の遺骨を分骨した墓がある由緒ある寺であるが、寺の場所が山の麓の低地からは一段高い場所にある平坦地。
ここ居館跡ではないだろうか?それもそのはず、寺の裏山が出城なのである。
寺から登る道沿いに展開する斜面自体にいくつかの平坦地がある。

植林のための平坦地ということも想定されるが、山の植生は椚林で平坦地を作り出す必要はない。
城郭遺構である可能性も否定できない。
この山、ピークが3つあり、南東側の最高標高145mのピークに主郭部を置き、北東、小松寺の裏山、標高120mそして北西側のピークに出城を置く。
小松寺から登る道は標高100mの鞍部に出る。
ここから北に向かうと「北出城」、南側に行くと主郭部に行くが、南に向かうと一気に15mほど急坂を登る。

そこを過ぎるとしばらくだらだらした尾根道が続き、長さ40mほどの長さの曲輪Xがある。
北東方向の備えの曲輪であろう。その南に堀切があり、そこを少し登ると主郭部である。
主郭部のある場所は比較的平坦であり、面積が広い。この城は山城ではあるが、尾根式城郭ではない。

北東方向、東方向、南西方向、北西方向に比較的幅の広い尾根があり、曲輪も広く居住性や収容人数は多くできるが、逆に非常に守りにくい城である。
このため、四方向に曲輪が構築され、最高地点の本郭から各方向に堀切が構築される。
堀切以外の周囲には横堀または腰曲輪がある。
本郭はL形をしており、80m×70mほどもある広さである。
北西側が一段高く、曲輪内から3mほどの高さがある櫓台のような長さ40mの土塁Eが構築されている。
本郭内Dは南側が2段になっている。
南東側の土塁間に虎口が開く。虎口は南西方向にもある。
北西側の櫓台のような土塁の北西側、曲輪U側との間は深さ最高6m程度の堀切Fである。
この堀切は長さが70m程度もある見事なものである。
堀の北東側は竪堀になるのではなく、横堀I及び腰曲輪になって本郭周囲を回る。
この堀切の北西側に長さ60m、幅40m程度の曲輪Uがある。

西側以外を土塁が覆い、西側には腰曲輪がある。さらに北西側には長さ50mくらいの堀切Gがある。
その北西は登りとなり、先端に径80mほどもある大きな平坦地Y がある。
ただし、内部は若干傾斜している。ここはピクニック広場として整備され、展望台や東屋が建てられている。
このスペース周囲には堀や土塁といった施設はない。
住民の一時的な避難場所であろうか。本郭に戻り、今度は東側を見てみると、ここにも長さ50mほどもある長大な堀切@がある。

本郭側には土塁があり、土塁上からは最高で5m程度の深さがある。
A東側の曲輪Vは長さ70m、幅40mほどである。周囲を帯曲輪が巡り、南側に虎口Cがある。
曲輪東端に土塁があり、その先は急斜面となる。斜面に数段の小曲輪が見られる。
本郭の南西側の堀切Bも長さが50mくらいである。南西側の尾根には4段ほどの曲輪W群が3、4mほど段差で構築される。

最大の曲輪Hは40m四方ほどあり、内部は平坦である。
他の曲輪は突き出しが15m程度である。この部分が主郭部であるが、非常に曲輪が広く、単なる避難用の山城ではなく、居館があり常時、ここに居住していたか、または、この山上に米蔵や武器庫等、重要物資を置いていた可能性がある。
この城のある部分は「竜ヶ井」という字だそうである。「龍崖」も「竜ヶ井」も「要害」が訛ったものである。

北から見た城址。 @本郭(右)と曲輪V間の堀 A曲輪V北の帯曲輪から見た本郭と堀@
B本郭(右)と曲輪W群間の堀 C曲輪V南の虎口 D本郭内部は2段になっており北側、
東側に土塁がある。
E本郭北の櫓台状の土塁から見た堀F F本郭(右)と曲輪U間の長大な堀 G曲輪U北側の堀
H曲輪W群最大の曲輪内部 I本郭東の横堀 J 北にある広い曲輪Y
一方、曲輪Xの先の尾根を行くと「北出城」がある。小松寺裏の登り道を登って出る鞍部の北側である。
この方面は尾根式城郭であり、構造は段郭と堀切だけの簡素で単純なものである。
鞍部の北側に高さ3mほどの2段の切岸Kがあり、その先に堀切Lが、そして堀切から3段ほどの曲輪を経て、北出城の最高地点の曲輪Mである。
ここの広さは40m×15mほどである。標高は鞍部より20mほど高い120mほどである。
その先は切岸だけでほぼ自然状態である。
さて、この城を築いたのは誰かということになるが、はっきり言って分からないのが事実である。
城の遺構だけを見れば、規模は大きいがそれほどの技巧性は感じられない。
戦国後期の城という感じでもあるような気もするし、それ以前の時代でもこれくらいの技術で造った城は存在しているかもしれない。
築城候補者としては、大中流那珂氏系の入野氏、飯野氏が挙げられている。
また、小松寺に係る大掾氏もその候補である。小松寺には平重盛の墓があり、その墓をここに建てたのには平氏の流れを汲む大掾氏が関係していると言われているからである。
K北出城南端の曲輪の切岸 L北出城最大の堀切 M北出城最高地点の曲輪

大中流那珂氏は那珂西城が本拠であるが、室町時代前記で歴史から消え、那珂西城もいつの間にか、佐竹氏の城になっている。水戸にいた大掾氏一族も江戸氏に城を奪われ、勢力を石岡付近まで狭められている。
その後、この付近にも佐竹一族の藤井氏がいたという。その藤井氏も戦国後期には分からない状態となっている。

最後の領主は石塚氏であろう。おそらく、ここに城を始めて築いたのは、入野氏、飯野氏、または大掾氏かもしれない。
でも今の姿とは違った単純なものであったと思われる。
その城を藤井氏、石塚氏またはその家臣が順次、改修拡張していったのかもしれない。
あるいは里の住民が緊急時の避難城として整備した可能性もある。
すでに400年以上の年月が経っているが、堀切などの深さは余り風化を感じさせない。
また、遊歩道があることもあり、それほどの藪化はしていないのがありがたい。