大久保3城(日立市大久保町)
JR常磐線常陸多賀駅の西1.5km、多賀山地の東に位置する山城の天神山城、愛宕山城と低地部に突き出た標高60mの山麓台地上の根小屋である大窪城の3城からなる複合城郭である。
陸前浜街道を抑える城であり、西の山中を通ると真弓神社を経由して常陸太田に通じる。
築城は不明であるが、平安末期、常陸大掾平忠幹の九男宗幹が愛宕山に城を構え大窪氏を名乗ったのが始まりという。
その後、大窪氏は佐竹氏に従うようになり、応永年間(1394−1428)奥州石川の泉城主、石川詮光の三男茂光を養子に迎えた。
この頃、城は天神山に移ったという。
大窪氏は以後、佐竹氏の重臣として活躍する。
大窪城は戦国末期に、山城である天神山城の山麓の根小屋が拡張発展したものと思われ、城主の平時の居館、政庁であったと思われる。
その詰城として天神山城があり、愛宕山城は砦として使われていたと思われる。
大窪氏の実力は精々1万石級である。
動員兵力も300位であろう。それにも関らず3城も維持する必要性はあるのだろうか。
その理由は、山を越えれば常陸太田という地理的条件と天神山城を見れば理解できる。
これらの城は佐竹氏本拠防衛のための陸前浜街道口の最終防衛ラインである。
廃城は佐竹氏の秋田移封の時である。
なお、大窪氏は佐竹氏の秋田移封に同行せず、最後の当主久光は車丹波猛虎、馬場政直とともに慶長7年(1602)、水戸城奪還を図り、失敗して殺される。
多分、この話は水戸藩が危険分子の2人の罪を捏造して抹殺したのが、真実ではなかろうか?
その墓は大窪城三郭に建つ民家内にある。
なお、大窪城址は常光寺の境内となり、天保10年(1839)に本郭の地に水戸藩が暇修館を建て、ここで医学等を教えたという。
現在、その建物が日立市により復元されている。
周囲は住宅地になっているが、遠く太平洋を望むことができる。
付近には大窪姓が多く、城主の子孫である。
大窪城
天神山城と一体の城であり、どこからが大窪城であるかは分からない。 暇修館が建つ本郭は東西100m、南北70m程度であるが、周囲を高さ2〜3mの土塁が覆い、腰曲輪を持つ。 虎口が南側の土塁の切れ目というが、これは後世のものの可能性が強く、東側であろうと推定されている。 郭の周囲は全周に堀が巡らされ、北側から南側にかけては水堀が取り巻いていたようである。 本郭西の堀は空堀であったと思われるが、本郭側土塁上からの深さは10m、幅は20mという巨大さである。 西側の天神山城よりに長さ30mほどの堀があるが、幅5m、深さ2mほどの小規模なものである。 二郭、三郭は宅地化が著しいが、北側の外郭より低い位置にある。 特に二郭は完全な窪地である。 周囲より低い場所が郭ということはほとんど考えられないことである。 当初は二郭全体が堀状であったが、倉や家臣団の屋敷を置く必要が生じたため、郭になったのではないかと思われる。 家臣団の屋敷があった場所であろうか。 南側、東側は低湿地であったという。 |
本郭北側の土塁。 | 本郭西の堀。深さは8mほどある。 | 土塁間に開く本郭南の虎口(後世のものか?) |
天神山城
大窪城の西300m、標高95mの天神山にある。
天神山は南側、西側が菩提沢川が侵食した谷になっており、この方面は急斜面である。
川を挟んで南側に愛宕山城(安元城)ある。山の北側は平坦地が続く。
東側はだらだらと緩い勾配の斜面になっている。
遺構は正伝寺の墓地西側の山中に完存している。
この正伝寺の墓地もおそらくは城域であったと思われる。
正伝寺墓地南側の道を山に向かって進み、途中から南側の林の中に行く道に入る。 |
二郭内にある土壇。 | 二郭内部。段々状になっている。 | 本郭北側の堀。 |
二郭(右)北側の斜面を下る横堀。 | 本郭北の搦手口の土橋。 | 本郭(右)と二郭間の堀は屈折を持つ。 |
大手の土橋北側では横矢が掛かっている。
二郭北側と本郭側には土塁が築かれ、二郭東の堀外側にも土塁を持つ。
この城の横堀の規模と土塁だけは立派であるが、郭内は広くがらんとしている。
とても大窪城の詰めの城という感じではない。
郭内に米倉等の倉庫群が立ち並んでいたのか、軍勢の駐屯地、あるいは住民避難用の城という印象である。
北側が平坦であり、防御が弱い印象を受けるが、平坦地の北側は谷津状になっており、出城に相当するものがあったという。
なお、二郭北東の斜面に掘りかけの横堀のような溝があり、拡張工事が行われているうちに工事が中断された感じを受ける。
愛宕山城
菩提沢川を挟んで天神山の南側に位置する。 安元城ともいう。 南側は蛭ヶ沢の渓谷となっており、西の多賀山地から東に張り出した尾根にある。 この尾根はだらだらと東に向かって傾斜しており、南側は急斜面である。 主郭部の標高は100〜115m、東の麓の標高は約60mであるので、比高は50m程度である。 尾根を4本の堀で区切って3つの郭があったと伝えられるが、多賀配水場が建てられてしまい東半分の遺構は大部分失われてしまっているが、堀切跡(これが1本目の堀らしい。)と土塁を前面に持つ腰曲輪が確認できる。 西半分の遺構は残存しており、西にある梅ヶ丘病院の駐車場からと多賀配水場を北に迂回する山道から行くことができる。 内部は鬱蒼とした杉林で暗く、潅木も多い状態である。 多賀配水場のすぐ西側が本郭部と思われる。 多賀配水場との境に2本目の堀があったらしい。 |
配水池東の土塁を前面に持つ曲輪。 | 本郭西の堀に面する土塁。 | 本郭西の堀にかかる土橋。 |
本郭西の堀。幅8m、深さ4m。総延長は70m ある。 |
西側の堀。2m程度の深さしかない。 | 梅丘病院近くの斜面にある2つの土壇間 に開いた虎口? |
多賀配水場側に虎口が残っている。
本郭部は東西84m、南北60m程あるが、内部は傾斜し、凸凹している。
物見台のような土壇が3つある。
土壇の周囲は堀状に抉れている。3本目の堀は完存しており、本郭側には高さ3m位の土塁がある。
一部は櫓台のように高い(4m程)。堀幅8m、深さは5m位である。堀は北側で1箇所屈折し、その部分に2箇所土塁の切れ目がある。
木橋があったと思われる。堀北端に土橋がある。3本目の堀の総延長は65mあり、堀切というよりも横堀である。
4本目の堀は3本目の堀から西30mにある。
その間が西側の郭であるが、東西30m、南北50mほどの広さであり、内部は中央部から北、南、東方向に傾斜している。
4本目の堀の深さは2m程度と浅く、堀に面し高さ1m程度の低い土塁がある。
堀に屈折はない。総延長は53mである。
そこから西に70m行くと南側に自然の大きな谷が竪堀状に下り、北側は傾斜の緩い平坦な谷津状の場所がある。
この場所の意味が分からないが、谷津の西側に2つの土壇が門のように並んでいる。
もしかするとここが大窪氏が始めて館を置いた場所あるいは水場ではなかったかと思う。
非常に曖昧とした感じの城である。防御も甘い。
堀と土塁はしっかりしているのに郭内が整備された感じはない。
土壇を多く築き、その周囲に道を通すのが南北朝期の城の特徴とのことである。
築城は平安時代末というから南北朝期に整備されたのであろう。
戦国時代には砦程度にしか使われていなかったのではないだろうか。