要害山城(日立市城南町)
日立市には国内でも珍しい江戸末期に造られた助川海防城がある。
この城は南西から延びる尾根の末端部を利用しているが、この城は中世、ここにあった「蓼沼館」の遺構を利用したものという。
なお蓼沼の「蓼」は「館」がオリジナルだろう。
蓼沼館自体がどこまでの範囲だったのか、また、どこまで助川海防城が遺構を再利用したのか、等は分からないが、助川海防城がある西側の尾根には堀切跡と思える場所もある。
その尾根をさらに南西側に行くと、その山の名前は「要害山」という。
ずばり城郭の存在を示唆する名前なのであるが、茨城県重要遺跡報告書等でも城には登録されていない。
しかし、城郭遺構があるという話もある。
このため、確認に行った。
助川海防城から尾根をそのまま辿ると西の山方面に向かうハイキング道となる。
この道の右手に見える山が要害山である。
南側の大山祇神社付近から見るこの山、勾配が急で行きにくそうであるが、山を西側に回り込み標高188mの鉄塔の建つ鞍部付近から東に向かえば、山頂部に行ける。
↑東下の国道6号線から見た要害山、左に見える鉄塔が@である。左手に見える桜の木のある場所が「小平会館」。
地名は「兎平」、「兎」の名は「塞ぎ」から来たものという。ここも城館跡と思われる。
なお、鉄塔の建つ鞍部、ここには堀切、竪堀があってもよさそうなのだが、それらしいものは確認できない。
鉄塔建設で湮滅している可能性があるかもしれない。
この鞍部に堀切を入れれば、要害山は西側の山地からは独立状態になるのだが。
それより、ここまで来たハイキングコースの道、山の西側を通る部分@が何だか、横堀っぽいのだ。
もしかしたら横堀を利用したものかもしれない。
@西端の鉄塔が建つ狭隘部には堀切があったのでは? | Aここは自然の谷を拡張した堀か? |
B主郭部西端の堀 | C主郭部内側の堀と土塁 |
鉄塔の建つ場所から山に入ると、まず切岸がある。
そこを越えると土塁状になっている。
この要害山、南西側がたんこぶのように少し高く突き出ている。
東側との間を分けるように、東方向に竪堀Aが下って行く。
自然のものを人工的に拡張した感じである。
その竪堀の始点部、一面の笹藪である。
50m×30mいやそれ以上の広さがあろうか?
その笹藪を過ぎると東側に主郭部がある。
2本の堀切B、Cが南北にあるり、土塁があるが、埋もれている感じである。
主郭も平坦地であるが15m四方くらいか?
何しろ遺構が不明瞭な上、結構な藪で広さが把握ができない。
東に少し尾根が下り、段々にはなってはいるが、段差は約1m程度に過ぎなく不明瞭である。
東側に堀切があるが、これも埋もれている感じである。
その東側には平坦地が少しづつ高度を下げながら続くだけである。
総じて、まとまり、メリハリはない。
↑要害山の南側のハイキングコースから見た太平洋、写真中央、海岸沿いの森が「要害城」
蓼沼館が危機に面した時、兵と住民をここの退避させ、さらに危機が増大した場合、西の山方面に避難させることが目的の施設であろう。
防御の多くを自然地形の頼った感じである。
南高野館(日立市南高野)
既に湮滅してしまった城郭である。南高野にあった南高野幼稚園の地が館に主体部だったが、今は廃園となり、ドラッグストアが跡地に建っている。
この館の再現は昭和21年に米軍が撮影した空中写真、川崎春二氏の「奥七郡の城館址と佐竹四百七十年史」掲載図等を参考にした。
主郭部はドラッグストアが跡地に相当し、土塁が囲み堀があったらしい。
大きさは約60m四方の大きさであったと推定される。
川崎図では道路付近までを館の範囲としている。道路が堀の跡の場合が多く、道路が堀跡ならば二重方形館だった可能性がある。
二重方形館とすれば東西約120m、南北約100mの大きさが想定される。
佐竹氏家臣、小野崎一族の赤須氏または赤津氏の居館という。
赤須氏、赤津氏の関係がよく分からない。
赤津は赤須の訛りとも言われるが、当地には赤津氏、赤須氏両方がけっこう大勢いるのである。
要害城(日立市国分町)
日立電鉄桜川駅の東、国道245号を挟んで日立製作所の保養施設要害クラブが本郭。
その敷地の中と北側の日立製作所多賀総合病院側に本郭と二郭を隔てる深い堀と土塁がきれいに残っている。
この土塁と堀は土地の有効利用上は邪魔なものであるが、城郭遺構保護を考慮したものかは分からないが、庭園の一部としてちゃんと保護されている。
これだけでも残してくれているだけ感謝ものである。
しかし、二郭は国道245号とかつて日立電鉄線が貫いており、ほとんど姿を留めない。
旧日立電鉄桜川駅の前に土塁の一部が、線路跡の西側にも土塁と堀が残っていたが湮滅している。
この北側も郭であったらしいが、姿は留めていない。
南に桜川の深い谷が天然の堀となり、東は太平洋であり、海側は断崖である。
名前のとおり、結構要害堅固な城である。
日立市の平地部は狭いため、北からの南下を阻止することと海を監視する役目があったものとと思われる。
浜辺は砂浜であり、港があったようには思えないが、当時は海上で大型船から小型船への荷の積み替えを行っていたというので全く否定はできない。
もし、港が存在していたとしたら桜川河口部だろうか?
港が存在したとすれば水軍も存在していた可能性があるだろう。
また、この付近に塩田があり、その管理をしていたことも想定される。
築城は天文14年(1545)頃、佐竹氏家臣 孫沢権太夫頼茂が築いた「孫沢館」が前身と言う。 永禄5年(1562)に相馬氏の攻撃で焼失したが、相馬氏は撃退されるという「孫沢合戦」があり、その後、 天正初期(1573)頃、再建され「要害城」と称したと言われる。 廃城は佐竹氏が秋田に移った時であろう。 ところがこの合戦については疑問が多い。 なぜ岩城領を通過して、その北の相馬氏がここまで攻めて来るのか? 相馬氏にここまで遠征する力はあったのか? 岩城氏は何をしていたのか?・・等である。 この疑問に答えられるものは見たことがない。相馬氏の史料にもないという。 (敗戦の部分は削除されている可能性もあるが) 本当にこの合戦はあったのであろうか? もしかしたら南北朝時代の甕の原合戦と混同して伝えられているのかもしれない。 この時は相馬氏は北畠顕家に同行し、佐竹氏と戦っている。 または、岩城、相馬連合として、その先鋒で相馬氏の部隊が来た可能性もある。 |
@要害クラブ敷地内に残る本郭と二郭間の堀。 | A二郭から本郭の土塁を見る。 | B旧日立電鉄桜川駅東に残る二郭の土塁。 | C多賀総合病院入り口に残る土塁。 |
滑川浜館(東滑川町)
滑川中学校の北東にある標高25mの岡が館跡である。この岡はほぼ独立岡であり、南北300m、東西の幅は最大100mほどである。
この岡の西に国道6号線が通り、東側の谷間に国道6号バイパスが通る。
直接、海には面してはおらず、海からは400mほど内陸にある。
この付近は小さな独立丘陵が多くしており、その1つである。
岡の上は一面の畑である。
南西の斜面が緩く、段々状になっており、曲輪の跡かもしれない。北側と東側は急傾斜である。
堀も存在していたというが、埋められてしまったという。
歴史は明確ではないが、山尾城の小野崎氏の管理する城あるいは家臣の城ではなかったかと思われる。
小野崎氏の小幡城という名の城が、滑川地区にあったというが、この城かもしれない。
館跡の岡の上、北方向。遺構はない。 | 南方向、遠く太平洋が見える。やはり遺構はない。 |