要害城(日立市国分町)
 日立電鉄桜川駅の東、国道245号を挟んで日立製作所の保養施設要害クラブが本郭。

 その敷地の中と北側の日立製作所多賀総合病院側に本郭と二郭を隔てる深い堀と土塁がきれいに残っている。
 この土塁と堀は土地の有効利用上は邪魔なものであるが、城郭遺構保護を考慮したものかは分からないが、庭園の一部としてちゃんと保護されている。
 これだけでも残してくれているだけ感謝ものである。

 しかし、二郭は国道245号とかつて日立電鉄線が貫いており、ほとんど姿を留めない。
 旧日立電鉄桜川駅の前に土塁の一部が、線路跡の西側にも土塁と堀が残っていたが湮滅している。

 この北側も郭であったらしいが、姿は留めていない。

 南に桜川の深い谷が天然の堀となり、東は太平洋であり、海側は断崖である。
 名前のとおり、結構要害堅固な城である。

 日立市の平地部は狭いため、北からの南下を阻止することと海を監視する役目があったものとと思われる。
 浜辺は砂浜であり、港があったようには思えない
が、当時は海上で大型船から小型船への荷の積み替えを行っていたというので全く否定はできない。

もし、港が存在していたとしたら桜川河口部だろうか?
港が存在したとすれば水軍も存在していた可能性があるだろう。

また、この付近に塩田があり、その管理をしていたことも想定される。

 築城は天文14年(1545)頃、佐竹氏家臣 孫沢権太夫頼茂が築いた「孫沢館」が前身と言う。
 永禄5年(1562)に相馬氏の攻撃で焼失したが、相馬氏は撃退されるという「孫沢合戦」があり、その後、 天正初期(1573)頃、再建され「要害城」と称したと言われる。

 廃城は佐竹氏が秋田に移った時であろう。

 ところがこの合戦については疑問が多い。
 なぜ岩城領を通過して、その北の相馬氏がここまで攻めて来るのか?
 相馬氏にここまで遠征する力はあったのか?
 岩城氏は何をしていたのか?・・等である。

 この疑問に答えられるものは見たことがない。相馬氏の史料にもないという。
(敗戦の部分は削除されている可能性もあるが)
本当にこの合戦はあったのであろうか?
もしかしたら南北朝時代の甕の原合戦と混同して伝えられているのかもしれない。
この時は相馬氏は北畠顕家に同行し、佐竹氏と戦っている。
または、岩城、相馬連合として、その先鋒で相馬氏の部隊が来た可能性もある。
@要害クラブ敷地内に残る本郭と二郭間の堀。 A二郭から本郭の土塁を見る。 B旧日立電鉄桜川駅東に残る二郭の土塁。 C多賀総合病院入り口に残る土塁。

滑川浜館(東滑川町)
滑川中学校の北東にある標高25mの岡が館跡である。この岡はほぼ独立岡であり、南北300m、東西の幅は最大100mほどである。
この岡の西に国道6号線が通り、東側の谷間に国道6号バイパスが通る。
直接、海には面してはおらず、海からは400mほど内陸にある。
この付近は小さな独立丘陵が多くしており、その1つである。

岡の上は一面の畑である。
南西の斜面が緩く、段々状になっており、曲輪の跡かもしれない。北側と東側は急傾斜である。
堀も存在していたというが、埋められてしまったという。
歴史は明確ではないが、山尾城の小野崎氏の管理する城あるいは家臣の城ではなかったかと思われる。
小野崎氏の小幡城という名の城が、滑川地区にあったというが、この城かもしれない。

館跡の岡の上、北方向。遺構はない。 南方向、遠く太平洋が見える。やはり遺構はない。