日立紀行

大甕神社(日立市大甕町)
日立市南部の大甕(おおみか)地区にある地名の元になった神社。
「大甕」という地名、「ミカン」が採れるので、と思っていたが違った。
神社の名前、正式には大甕倭文(おおみかしず)神社という。
「おおみかしず」という名が変わっているが、「おおみか」は甕星香々背男(みかぼしのかがせお、「天津甕星」ともいう。)を指し、この悪神(ということにされている)がこの地に居を構えており、「しず」は、その香々背男を成敗した倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづちのみこと)の名を取ったことに由来する。
たかが神社の名前ではあるが、この地の地名でもある。(別名「甕の原」ともいう。)JRの駅も「大甕駅」である。
祀られているのは成敗した側の倭文神である。
しかし、現実、ご神体は甕星香々背男が変身したものという「宿魂石」という岩山である。
なお、倭文神は織物をつかさどる神であり、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られ、奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社を本源としているそうである。
この付近で建葉槌命、倭文神を祀った神社がここから内陸に20km入ったところ那珂市静にある「静神社」である。
読みはもちろん「しず」。鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮であるので、この神社こそ大和朝廷の正統な常陸北部支所と言えるだろう。

『大甕倭文神宮縁起』は、
「神甕星香々背男が久慈郡大甕山の巨石に化け、日ごとに成長し天に届こうとしていた。
(左の写真がその巨石「宿魂石」である。)
この悪神に対し、香取の経津主(ふつぬし)命と鹿島の武甕槌(たけみかづち)命が、武神である武葉槌(たけはづち)命を遣わし、岩に姿を変えた甕星香々背男を金の沓で蹴り上げると、岩を砕け、一つは神磯として今に伝わる「おんねさま」になり、あとの石は石神(東海村)、石塚(城里町)、石井に飛んだ。」と書かれる。
この話は大和朝廷による地方征服を表している。
退治を行う鹿島・香取の神は、大和朝廷の地方支所の神である。
大和朝廷は8世紀以降、鹿島と香取を拠点として蝦夷征討を行ったという。
当時は鹿島、香取は東京湾のような太平洋の内海であり、海運、水軍基地であった。ここを基地として大和朝廷が、太平洋沿岸を北上征服して行ったものと思われる。

甕星香々背男は、その大和朝廷による征服の最初の血祭りにあげられたのがであろう。
おそらく甕星香々背男とはこの地、常陸北部一帯を支配する縄文弥生〜古墳文化の中で出てきた首長の末裔の地方豪族、出雲族や隼人族などと同じような大和朝廷に対立する者であったのであろう。
この地は古代から、奥州への、また、奥州からの沿岸海運及び陸運の要衝の地であったらしい。
内陸にも久慈川の水運でつながっていたのであろう。
中世、南北朝の争乱で奥州にいた北畠顕家が奥州の伊達、相馬、南部などの軍勢を率いて上京する。
それを阻止しようとする北朝方、佐竹軍とここで衝突する。いわゆる「甕の原合戦」が起こる。これも交通の要衝である証である。

甕星香々背男がどうなったのか分からないが、神社の名前に「甕」が残るように滅ぼされたのではなく、大和朝廷に服従したのだろう。
神社の名前の前に大甕が付くのは、征服した大和朝廷が在地勢力に敬意を払った証拠であろう。
服従と言っても、相手の立場を考え「和平」を結んだような形にしたのだろう。

しかし、この神社、現地では「大甕倭文神社」とは言わない。後半の征服者の名を略し「大甕神社」である。地名も同様、皮肉なものである。
しかし、いつの間にか甕星香々背男の影も大和朝廷勢力に同化してしまったのだろうか。

なお、甕星香々背男は星の神であるという。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。
「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。星神を信仰していた部族であったようである。

全国に星神社や星宮神社があるが、これらも星神である天津甕星を祭神としているので、これらも大和朝廷に征服された(服従)部族の信仰対象だったものと思われる。
北極星を神格化した妙見菩薩もこの系統であろう。

大和朝廷の上手かったところは、在地勢力を滅ぼすことなく、半平和裡に服従・同化させて行く融合政策である。
出雲大社、諏訪大社等もそれら被征服勢力の神々という。
それらが現在も存在していることは融合政策の証であろう。征服=撲滅を基調とする西洋のキリスト教文明圏では有り得ないことである。
社伝では甕星香々背男は大甕山に居を構えて支配していたとしている。
その場所が今の神社の地であり、大甕神社のご神体である宿魂石が甕星香々背男が化したものと伝えられている。
この宿魂石は1つの石ではなく、拝殿後ろの高さ20mほどの岩山全体を言う。
この岩山が古代からの聖地だったのであろう。
今は木々に覆われているが、おそらく古代は海からも見えたと思われる。
航海の神でもあったのではないかと思われる。
岩山は右の写真のように鎖を伝わりながら登る。
頂上には↑の写真のように本殿が建つ。
しかしこの岩山の西が切通しになっており、そこに国道6号線が通る。
現在の神社は、元禄8年(1695)徳川光圀の造営により整えられたものだが、境内は日立市の天然記念物に指定される鬱蒼とした森になっている。


日立鉱山
この鉱山は茨城県日立市の西の標高400mの山中にあった。
過去形ですので、もう操業していない。
まだ、地下には鉱石はあるすが、採算が採れないので閉山した。
鉱山と精錬所の跡地には、現在、日鉱記念館が建っている。

この日立鉱山は、日露戦争が終了した明治38年(1905)12月、久原房之助が経営不振に陥っていた赤沢銅山を買収し、日立鉱山として開業したもの。

この鉱山のモーター修理工場が発展したのが、現在の日立製作所だそうで、さらに日産コンツエルンに発展した原点もここ。

もともとは佐竹氏が開発した金山だが、佐竹氏が秋田に鉱山技師も連れて去ると、この地を領した水戸徳川氏には開発能力はなく、江戸時代末にやっと開発されたが、それまでは藪の中だった。
しかし、その赤沢鉱山も天狗党の乱で焼失し、再建したが、上手く行かなかった。そこを久原氏が買収した。

日立鉱山は開業わずか数年後で、国内四大銅山の一つに急成長し、以来、昭和56年(1981)の閉山までの76年間、日本の近代化と経済発展の貢献。
日鉱記念館は、昭和60年(1985)その日立鉱山跡地に建てられ、周囲には多くの近代史跡がある。

かつて、この日立市の山奥のこの谷間の盆地には、鉱山や精錬所を中心に1大都市があり、アパートが林立し、商店街、小中学校もあり、数千人が住んでいた。
しかし、今は民家が何軒かあるだけ、アパートや工場の建物はほとんど解体撤去され、その場所は藪に閉ざされ、ゴーストタウンに近い状態。
開発開始以前の姿にもどってしまったと言ってよい状態。ここは、いわゆる近代産業遺跡というものである。

旧久原本部。
明治38年暮、久原房之助氏が日立鉱山開発の本部として建てた当時の小家屋。
当時、ここはとんでもない山の中。
久原氏はここで生活し、鉱山の経営にあたった。
鉱山が順調に乗ると、煤煙問題が置き、今は残念ながら倒壊してしまったが、大正3年(1914)、当時世界一の大煙突が造られた。

旧コンプレッサー室 
この建家は、諸物資が極度に不足し、耐乏生活を強いられていた戦争末期の昭和19年(1944年)6月に建てられた。
当時、銅は重要な軍事戦略物資であり、ここには朝鮮人も連れてこられ強制労働をさせたともいう。
多くの事故・事件があったようだが、真相な闇の中。
ここには、鉱石採掘のためのさく岩機を駆動させる動力源のコンプレサーが当時のまま展示されている。
古いけど、貫禄のある設備、まさにHevy Industryそのもの。
この建屋は、新築であったが、戦争末期で建家骨組みの鉄骨材の入手が不可能なため、木造で建てられている。
その建物が昭和56年の廃坑まで37年間使われ続け、そのままの状態で保存されています。

第一竪坑
 営業開始直後の明治39年2月に開さくを開始、昭和56年の閉山まで75年間、稼動していた。
深度600mまでこれで降りれる。この地の標高は400mであるので、一番深い場所は海面下200m。
横に何本もの採掘穴が延び、総延長は数百qもあるとか。
遠い場所は太平洋の海底下まで延びているという。
巻上能力は人及び材料運搬用が200馬力、鉱石運搬用は250馬力 。
巻上機は米国ノードパーク社製 。
ちなみに昭和4年にやぐらを木造から鉄骨に改造した。


御岩神社(日立市入四間町)
工業都市日立市にあるが、工業都市のイメージからほど遠い山間にある。
場所は県道38号線を日立市中心部から里川の渓谷沿いにある中里地区に向かう途中。
入四間(いりしけん)地区である。本山トンネルから西に1kmほど下った地点である。道路際に看板があり、かなり奥地にあるのかと思ったが、案内どおりに進めばすぐに神社である。
うっそうとした杉の林の中にあり、この雰囲気だけでも聖域にいるんだという感じになる。
事実、緑が多いので空気が澄んでいる。ここは神社と言っているが、訪れてみればここは半分寺である。
創建の時期は不明であるが、この付近の山は昔から信仰の地であったらしく、縄文早期の祭祀遺跡があったり、縄文晩期の石版が発見されていたりしている。
「常陸國風土記」(713年)にも「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」と記述されていることから、古代より聖地であったようである。
中世には山岳信仰が盛んになり大いに栄えていたらしい。その当時から神仏混淆の霊場であったらしいので、ここにも今に通じる神社、寺の両方を信仰する日本人特有の宗教観が見られる。
江戸時代には、水戸藩の保護を受け、初代徳川頼房は出羽三山を勧請し水戸藩の国峰と位置づけ、藩主代々参拝を常例とする祈願所としたという。
光圀には奥社に於いて「大日本史」編纂に当り筆初めの儀を執行し、特にこの社を信仰したという。
江戸時代には御岩山大権現と呼ばれていたらしい。
しかし、明治維新の神仏分離令で神社とされたため、境内にあった21の神社、寺院を整理統合し、大日堂、常念仏堂、百観音堂、仁王門(後で復興)等が撤去されてしまったという。
しかし、現在でも神社であるにもかかわらず、仁王門があったり、仏像が保管されていたり、明らかに仏事である回向祭(えこうさい)などの祭事など、今日でも他の神社、寺院に見られない独自の景観と信仰を伝えている。
なお、この神社の里宮が常陸太田市里野宮にある薩都神社だそうである。 

神社なのに仁王門、これ如何に?門の左が三本杉。 本殿は狛犬がいて神社風ではあるが、
どことなく寺のような感じも・・

御岩山の三本杉


御岩神社の御神木として、昔から大切に保護されてきたという。
幹の途中から三本に分かれているのが特徴である。それで三本松という名がついた。
根回り周囲、10.4m 目通り幹周り8.4m 樹高は約61.3mあり、樹齢は推定約500年以上といわれている。
下から見上げると凄い高さである。上は見えない。写真を撮ろうとしたが高すぎて全景は撮れない。
佐竹義重も水戸黄門がいた時代にも既に成木になってここに立っていたのだろう。
彼らもこの木を仰ぎ見たのであろうか?しかし、この地は雷の通り道である。
落雷にあったことはないのだろうか?日立市内では最大の巨木という。
昭和43年9月26日に茨城県文化財保護条例により天然記念物(第44号)として指定された。
(日立市教育委員会の解説板)

玉簾の滝(日立市東河内町)
茨城県日立市東河内町の玉簾寺(ぎょくれんじ)裏側にある滝。
日立市と言えば海辺の工業都市であるが、ここは西側の高鈴山系の山を越えた里川の渓谷沿いで、日立のイメージからはほど遠いド田舎の一角である。

この里川の渓谷一体は、常陸太田市であるが、この付近は何故か、日立市の飛地となっている。
この玉簾寺もこの付近の多くの寺同様、水戸光圀が建てたということになっている。
本尊は徳川家康から贈られた定朝作と伝えられる聖観音像「宝冠阿弥陀如来坐像」だそうである。

この寺の裏にあるこの滝であるが、岩石の間から落ちる水が四季絶えることなく岩に飛び散る「すだれ」のようであるため、光圀が「玉簾の滝」と命名したという。

徳川斎昭は、ここ玉簾の滝の紅葉を詠んで「紅葉せし木の間の滝の玉すだれ 落つる錦をきてこそまされ」という歌を歌っている。
秋の紅葉シーズンが見事であるが、今の新緑の季節もなかなか良い。

古房地公園

日立市南部、大甕町の太平洋を望む崖上にある。
崖はこの付近で終わりとなり、ここから南は砂浜が続くる。
水木浜と久慈漁港の間にあり、標高は18m。
抜群の眺望があり、初日の出の名所でもある。
灯台が目印である。
北を見れば日立の市街が見える。
この町の海岸沿いはほとんどが崖であり、街は海岸台地上にあるのが良く分かる。

南を見ると、眼下に水質が抜群に良いと言われる久慈浜海水浴場、久慈浜漁港と日立港が見える。
ちなみに日立港に入る異国船は、ロシア船がほとんどだという。
その遥か先に常陸那珂火力発電所が見える。

崖下を覗き込んでみると、これがメチャ怖い。
崖が侵食されてオーバーハング状になっているようだ。
思わず足の裏がムズムズ。
ここから北に見える岬が、水木異国船遠見番所が置かれた場所でもある。


小貝浜
日立市の海岸は海食台地が延々と続く。
日立市北部にあるこの海岸付近も高さ20m以上の崖になっており、一帯は、海鵜の渡来地として県の天然記念物に指定されている。
海鵜採りは江戸時代から行われ、ここで捕らえた鵜が長良川の鵜飼に使われている。
しかし、釣り人が増えて海鵜が以前ほどは崖に近寄らなくなったことと、海鵜を採る人がほとんどいなくなった(後継者不在)こと、さらに太平洋の荒波による侵食が進んで海鵜小屋を作る場所が無くなり、北端の「鵜の岬」付近で細々行われているにすぎなくなった。

この「小貝浜」は「鵜の岬」の少し南側にあり、崖の上には黒松の林が続き、公園化されている。
日立市指定文化財(名勝)に昭和五十五年八月二十八日に指定されており、常陸国風土記に「藻島駅家の東南の浜には碁石がある。珠玉のような色で、常陸国にある美しい碁石は、ただこの浜からのみ産す。」と記され、碁石浜ともいわれている古くから、景勝の地である。茨城百景の一つにも選ばれている。

海に面した崖の上は、枝ぶりの良い黒松の中を遊歩道路が約1q続き、蚕養(こかい)神社、茨城百景の碑、波切不動尊石像、灯台、二見岩などの見所がある。
しかし、ここの見所は上記のものではない。

「八幡太郎義家の馬の足跡」と言われる小貝浜の北の松林の中にある経50m、深さ30m程の巨大な海触洞である。(右の写真)i


今は侵食が進み、安全上の配慮として立ち入り禁止となっているが、昔は自由に見れた。
海と洞窟が繋がっているため、波が潮吹き穴から入り、そのたびに、「ドドーン」という波涛の響が地底から聞こえてくる。

すごい迫力である。
立ち入り禁止だけど、ちょっとだけ覗きこんでみた・・・・。
この付近には八幡太郎義家伝説が多く、この洞もその1つ。
常陸に長期駐屯し軍を整え、奥州に向かったのでこの地に多くの伝説を残したという。


泉神社(水木町)
日立市南部の水木町にある神社。
大甕駅の北東1.5km、国道245号線が日立灯台の北の台地が下りとなる坂の西側に森があるが、そこが神社である。
太平洋からは500mほど内陸の場所である。
神社は台地斜面部にあり、泉(湧水)で有名である。
それほど大きな神社ではないが、参道沿いに旗が並び、一番奥に社殿がある。
そして神社の名前の由来となった泉が社殿の北下にある。
この付近を「泉が森」というが、その由来はこの泉である。
近くにある中学校の名もこの泉から採られており「泉丘中学校」である。

泉神社の参道 泉神社本殿 神社の象徴。御神体でもある。今もこんこんと湧く泉。

この泉については『常陸国風土記』にも記述があり、
『密筑(みつき)の里がある。村の中に浄らかな泉がある。土地の人は大井という。夏は冷たく冬は温かく、湧き流れて川を成している。
遠近の郷里の人々は、酒肴を持参して、男も女もつどい集まり、休んで遊び、飲み楽しむ。
その東南とは海浜に望み、(石決明(あわび)・棘甲贏(けうに)・魚・貝等の類がはなはだ多い。)、西と北とは山野をひかえている。(椎・櫟・榧・栗が生え、鹿・猪が住んでいる)。
すべての海山の珍味については、全部書きつくすことはできない。
(吉野裕訳『風土記』から)』
と書かれている。
それほどの歴史を有する名泉である。
今でも水は、こんこんと湧き出ており、澄んでいる。
この水を引いた少し下流にはイトヨが住む池があり、公園として整備されている。

神社については泉ほど古くはなさそうであるが、延喜式に内社として登場するので、平安時代にはすでに存在していた。
天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)を祀っており、日立地方では最古の神社であるという。
鎌倉、室町時代には佐竹氏など多くの武将の崇拝を集めたという。
江戸時代に至っても常北十景のひとつに加えられており、現在も茨城百景として名勝地にもなっている。

これが御神木、残念ながら枯れてしまっている。 泉がこんこんと湧き、鯉が住んでいる。 泉の水は公園で池となり、イトヨが住む。

この泉が神社の御神体であろうが、御神木というのがある。
なんと杉の中から桜の大きな木が出ているのである。
鳥の糞に含まれていた桜の種が発芽して、寄生状態で成長したものであるが、ここまで大きくなるものか?
残念ながら昭和初期に落雷で枯れてしまい、枯れた状態で保護されている。
これだけの歴史のある神社であるので、さすがに境内の雰囲気は歴史の重みがあるのか、神聖な感じである。