日立の海防施設
江戸時代末期、日本近海には捕鯨を目的にした外国船が姿を見せるようになる。
ここ常陸でも文政5年(1822)川尻浜から出航した漁船が外国船を目撃、翌年、会瀬浜の漁師忠五郎が捕鯨船に出会い、乗り移ってものもらったりしている。
このような漁民がかなりいたらしい。
それにしても外国人とも遠慮なく交流できる漁民のバイタリティは凄いものである。
さらに文政7年5月大津浜に食料を求める異国人十二名が上陸するという事件があった。
これらの事件は水戸藩に強い警戒心を抱かせた。
それ以前より、水戸藩は海からの外敵の侵入に備えて、那珂湊、水木、磯原の三ケ所に海防番所を置いており、郷士を海防陣屋に詰めるよう義務づけていた。
この措置は江戸初期、寛永年間から行われていた。
始めはキリシタンと結託したイスパニアなどの外国船に対する警戒であったという。
結局、外国船は200年間、現れず形骸化していたようである。
しかし、幕末は上記の状況となってくる。
これによる危機感が、水戸藩で発展した攘夷のベースになっているらしい。
このような状況の中で斉昭が文政12年藩主となる。
彼は海防陣地に藩士、郷士の土着、農兵の組織とその訓練法を制定するとともに尊皇攘夷を藩運営の軸に据える。
彼は海防を重視し、会瀬浜に近い助川村の高台に海防城、助川城を築いた。
それとともに日立市周辺の海岸にいくつかの台場(砲台)や陣屋を設けた。
それらのほとんどは遺構が残らないが、場所はほぼ特定されている。
以下にそのいくつかを紹介する。

なお、以下の記事はひづめさん運営の「美浦村お散歩団」の記事と日立市立博物館刊「助川海防城と陣屋・番所・台場」等を参考にさせていただきました。

友部海防陣屋(十王町友部)
日立市立櫛形小学校の西にある稲荷神社付近が陣屋の中心部、先手物頭屋敷の跡である。
今の日立市北部一帯の海岸を異国船から防禦するための指令施設の性格を持つ陣屋である。
この施設のあった場所は、十王市街地の北の岡にあたる。ここの標高は45m、市街地からの比高は20mほどである。
海防陣屋ではあるが、海からは1.5q内陸である。この岡は櫛形城のある岡が西側から東に張り出した末端近くにあたり、法鷲院(真言宗)の末寺、菜塚山東南院普門寺の廃寺跡という。
設置されたのは、天保7年(1836)、ここに司令官である先手物頭1名と先手同心20名が明治3年(1870)まで常駐していた。
陣屋の中心である先手物頭屋敷跡は東西45m、南北60mほどの広さであり、高さ1mほどの土塁が周囲に残っているが、かつては2mほどの高さがあったともいう。(そこまでのものは造られなかったとも言われる。)
南側に大手門があり、北側に裏門があったらしい。この敷地の中に川尻に天保7年1月まで詰めていた2名の郷士の役家を解体して移築したという。
この建物は全体が4間×12間半の大きさで、2つの住居がつながった形をしていた。
その周囲に同心の畑付きの住居、言わば社宅のようなものが16棟あったというが、この部分は完全に民家となって分からない。
物頭屋敷の西側に「菜塚」があり、ここには稲荷神社が建ち、その南側に矢場があった。
この屋敷跡であるが、陣屋廃止後は炭鉱の社宅が建っていたという。
北の小石川の流れる低地の北の台地、台(うわだい)に上台原調練所(百間四方調練所とも言う)があり、砲術訓練が行われたという。
その調練所の標的として使われたといわれる「上台塚」が林木育種センター西に残っている。
陣屋からは1.5q北にあたる。この塚、確かに土の盛り上がりであるが、草茫々で全然、全貌が分からない。
その南側に高さ2mの立派な土塁がある。これも遺構か?と思ったが、そこは牧場、馬の逃亡防止用のものであった。
なお、この台地に上がる坂を「鉄砲坂」と言うのだそうである。大砲を押し上げるのに苦労したことから付いた名であろうか。
この陣屋には合計で100人ほどの人間が勤務していたらしいが、この陣屋の人間が戦ったのは天狗党の乱で諸生派の軍として、本来、総司令部であったはずの天狗党に占領された助川城の攻撃に参加したのみである。
(友部海防陣屋調査会HPも参考にした。)

先手物頭屋敷の西にある稲荷神社が建つ塚。 先手物頭屋敷内部、東側の土塁。 先手物頭屋敷北側の土塁
上台塚がある台地に上がる「鉄砲坂」 砲撃訓練の的として使われたという上台塚。 上台塚南に土塁があるが、これは馬防ぎ土塁。

折笠台場と川尻異国船遠見番所(川尻町)

折笠台場は、川尻漁港の西端にある「御番山」という山がある。
台場はその東側の崖下にあったというが、現在は宅地であり何もない。
この御番山の山頂には、異国船遠見番所があった。 大砲は御番山北側の台地にある向山墓地付近にあった大砲蔵に置かれ、最盛期、天保13年(1842)には5門の大砲があったという。
ここには26人の番兵が配置され、友部海防陣屋の先手物頭が指揮した。なお、番兵の訓練は、豊浦小学校の北側の山「陣野平」や「伊師浜」で行われたという。
(友部海防陣屋調査会HPも参考にした。)
遠見番所があった御番山と右下の民家の地が台場。 演習地であった陣野平。ただの山である。

初崎台場と新城館(相賀町)
日立駅の南にある会瀬漁港の北の太平洋に突き出た標高29.6mの崖の上にある。
ほとんど住宅地になってしまっているが、幸いなことに台場の遺構は崖突端部に残り、クランクした高さ3mほどの土塁が70mほどにわたって存在する。
ここは中世の「新城館」(相賀館という名も見えるが、同じ城かどうか?会瀬館という城もあるが、これも同一の城であろうか?)とも重複しているという。
しかし、新城館の主体部は初崎台場の位置よりもっと南、会瀬漁港西の崖の上ともいう。
初崎台場とは、一部が重複していたかもしれないが、主郭部は一致していなかったのかもしれない。。
かつての姿を追うことは困難であるが、この付近は西側の常磐線付近が地勢が低く、国道245号付近が堀ではなかったと思われる。
戦国時代、日立市北部は小野崎一族の領土であり、新城館は蓼沼館(助川海防城の前身)の支城であり、戦国時代は小野崎直通が居城していたという。
おそらく会瀬漁港は当時も港で、水軍基地であり、久慈浜などと結ぶ海運中継地であったと思われる。
江戸時代前期にその館がどうなったのかは分からないが、新城館の地(の北端部?)に助川海防城築城時の文政8年(1825)に台場が置かれ、嘉永6年(1853)に増強されたという。
大砲は3門備えていたらしい。
しかし、ここも結局、実際使われることはなかった。
太平洋戦争末期、陸軍がここに砲台を置こうと工事を開始したという。

新城館はこの辺にあったはず。 館推定地の東には会瀬漁港が・・。かつては水軍基地か。 館の主体部は岡の南端部だったらしいが、人家ばかり。
初崎台場の土塁の南側 土塁はクランクしながら70mほど続く。 北側のクランク部の土塁は少し高く櫓台のようだ。

河原子台場(河原子町)
烏帽子岩の北200mの岡の上にあったらしいが、今は住宅地となり何も遺構はない。
天保2年(1831)に坂上陣屋が置かれ、天保10年ころこの場所に大砲が3門備え付けられたという。

この岡の上が台場だったらしい。 台場下の海岸から見た北の日立市街方向
この付近有数の海水浴場でもある。
正面付近が要害城である。
河原子海岸の象徴、烏帽子岩。

大沼海防陣屋(東大沼町)
大沼小学校の南東の標高20mの高台一帯が陣屋の跡である。
海岸には面しておらず、海からは500mほど内陸に入った場所にある。
ここに伏見稲荷(陣屋の守りとして誘致したものという。)があるが、この南側の岡縁部が主体部である。
先端部の林に陣屋の建物があったらしいが、今はただの藪に近い松林である。
その他は人家になっており、何も遺構は見られない。
陣屋と言っても海防係の役人の番屋、住居と武器庫などがあった場所であり、城砦ではない。
大沼小学校の地が矢場で、道を隔てて南にあるサッカー場が鉄砲場であったという。
この南側は低地になっているが、ここに同心屋敷があったらしい。
日立電鉄の線路がド真ん中を突っ切っているが、これが堀に見えてしまうのがご愛嬌である。
陣屋が置かれたのは天保11年(1840)ころであったらしい。
元治元年(1864)天狗党の乱に巻き込まれ、助川海防城に向かう天狗党の攻撃を受け、ほとんどの建物を焼失してしまったという。

南西から見た陣屋跡(林の部分) 陣屋があった場所は松林である。 陣屋の北にある陣屋の守護に誘致された伏見稲荷。
左手が陣屋主体部。
矢場の跡は大沼小学校になっている。 小学校の南にある鉄砲場跡。 陣屋(左)と矢場間の日立電鉄廃線跡。
堀切に見えるのだが・・。

水木遠見番所(水木町)
田楽鼻公園の少し北側の民家の地付近が番所跡。
この場所の標高は22.3m、東は太平洋の断崖である。
海防施設としてのここの歴史は古く、寛永15年(1638)に水戸藩がキリシタンを乗せた異国船に備えて置いた船番所であったという。
幕末、文政7年6月に大幅に強化され、ちゃんとした番所に整備されたらしい。
大砲は3門が備えられたという。
地元の郷士、河村平太夫が番所を管理していたが、嘉永6年(1853)閉鎖されたという。
この岬の北の浜が金砂大祭礼の神事が行われる水木浜である。
金砂の神はここに上陸して山に入ったという。
多分、金砂神社を祀った海洋移民が上陸した場所なのだろう。

田楽鼻公園の少し北側、林の中が番所主体部。 田楽鼻公園である。ここが先端部であるが、番所はこの北の少し凹んだ場所にある。 南の古房地公園から見た陣屋のあった崖。
高さ20mを越える海食台地である。

久慈台場(久慈町)

久慈小学校の北東側の日立港が見下ろせる標高20mの岡の縁部にある行戸公園が台場の跡であるが、遺構は何もない。

(公園の一部が土塁のようになっているが、これは遺構ではないだろう。)
嘉永6年(1853)に台場が置かれたが、文久2年(1862)には廃されたというので僅か9年間の歴史しかない。

この付近が台場であったらしい。 台場の東下は日立港。