田渡城(常陸太田市田渡町)

 常陸太田市街地の東、里川左岸の標高89mの田渡山の山上にある。
麓の標高は20m程度であるので比高70m程度で,城域は直径400m程度の中規模な城。
築城は天文年間(1532−1555)内桶弥太郎とも佐竹一族の額田八郎行直とも佐竹東殿とも諸説あり一定しない。
里川及び水田地帯をはさんで西1.5kmの位置に小野崎城があり、常陸太田城までは南西に2.5kmの距離である。
本城は山城であるため要害性が高く、常陸太田城防衛上の支城郡の1つと考えられ、里川東岸の防衛拠点であったと思われる。

平成14年の冬、この城に南側からアプローチした。
しかし、山の南斜面は日当たりが良いのか全体が杉林に覆われ、かつて登攀道は藪に覆われているため、城址まで行くことができなかった。
それでも山腹に郭や土塁のようなものがあり、単郭の城ではなく、周囲に複数の曲輪が存在していたと思われた。

このため、1年後、今度は北側からアプローチを試みた。登り口は「田渡城址」の案内板が建っている道からである。
この道を上がると民家の庭先のような所(車道でないため単に道を占有してゴミ焼却炉等を置いているだけのようである。)を通りすんなり山に登ることができる。
登り始めるとそこには完存の山遺構が存在していた。
それも戦国後期のかなり技巧的な遺構が、驚きの連続である。

まず、頂上から30mほど下の地点14で斜面を横に走る横堀に出くわす。
 外側にも土塁がある佐竹系城郭特有の堀と土塁である。
 幅は5m、深さは2m程度。かなり埋没している。
この横堀は急斜面を除いて、緩斜面に築かれている。
北側から東側に回り込み、今度は竪堀となり山を登る。
山上は多賀山地から延びる続き尾根であり、そこに堀切5がある。
この堀切から本郭下の堀が巡る。
 北側の道に戻るが、横堀の所に土橋があり、そこを過ぎて主郭部まで登る。
左右に曲輪がある。土橋から主郭部には曲輪が7,8存在する。(13)
道は二郭に出る。二郭は東西50m、南北40m程の平坦地である。
その東に高さ3m位の土塁があり、その向こうに高さ7m位の本郭の切岸が聳え立つ。
この土塁の向こうはやはり堀であり、土塁を外側にして本郭の周囲をほぼ1周している。
 本郭には土塁に登り、4の土橋をわたり、本郭南側に突き出した馬出のような腰郭3に出てから南西側の虎口1から入る。
この郭から南側の斜面下を見ると堀と土塁6が見える。

二郭は北側から西側にかけて土塁があり、南側はない。二郭の西側は切り立った急斜面である。
二郭の南側に一段下がり曲輪があり、南に下る下る道がある。これが大手道らしい。
本郭は南北55m×東西80m程度の大きさであり、内部は鬱蒼とした杉は林であり、倒木も多い。
南側を除いて土塁を巡らしている。
特に北端部に高さ3mの高まり1があり、櫓台跡と思われる。
また、東側と北東側2箇所に土塁の切れ目があり、ここも虎口と考えられる。
東側にも櫓台のような土塁の高まりがある。
本郭から下り、外周の堀底を歩くと櫓台の所は90°に曲がっており横矢がかかるようになっている。
北東端は外周土塁が切れ、そのまま竪堀になって下側の横堀に下りていく。東側にも土塁と曲輪がある。 

上から2番目の横堀。外側にも土塁がある佐竹氏系城郭特有なもの。 上から2番目の横堀の土橋。14地点 二郭の内部。 二郭から見た本郭東側の土塁。土塁の向こう側は堀になっている。
本郭北の横堀(1番目の堀)右が本郭。 本郭東側の横堀。右が本郭。 本郭南虎口。2地点 本郭北西端の櫓台。1地点
本郭東虎口。 4地点の土橋を堀底から見る。 5地点の堀切。途中で本郭周囲の堀が合流する。 主郭部北側の曲輪。13地点

主郭部を大手道に沿って西に下り、西に向うと西から北側に湾曲した尾根と二郭西下を東に時計周りに廻る道に分岐する。
後者の道を行くと曲輪があり、山手に楔の入った大きな岩が数個ある。
この岩は黒い花崗岩であるがこの山で採れる石ではなく、搬入品であるが、何のために持ち込んだ岩なのかは分からない。
ここに門でも作ろうとしたのであろうか?その先は竪堀が二郭から下っており行くことはできない。

一方、分岐を西に向うと、尾根の先端部には直径15m程の郭(12、西郭という。)があり朽ちた社がある。
西郭に向う尾根の付け根で下側の横堀が一度切れる。
 しかし、その外側に第三の横堀がある。この堀は下の民家に近く道としても利用されているためかなり浅くなっている。
北側は尾根の先端で一度切れるようであるが、南側は西郭の外周を帯曲輪となり一周して二郭の南下に通じる。

二郭北下にある謎の岩 西側の上から2番目の横堀。14地点 西側尾根の堀切 西郭に建つ朽ちた社。

この城は平成14年、突入に失敗したように南側は、平成15年に良く調べてみた。
                   
 西郭の帯曲輪は9の枡形に出てくる。
この先は堀状の窪地となり、左に登ると主郭部に右に行くと南郭に通じる。
8は岩盤を削った段差2mの塁壁であり、当時は梯子状の橋があったと思われる。
ここは川崎春二氏が石垣と表現した場所に相当するものと思われる。
その先は南北40m、東西20mの平坦地があり、南端に岩を削った枡形虎口10がある。
川崎氏はここを大手と言っている。

9地点の枡形 8地点の岩盤を削った段壁。 10地点の岩盤を削った虎口。
ざっとこんな感じの城であるが、本郭を一周する横堀、主郭部を囲む横堀、さらにその外側に存在する横堀と3本の横堀で囲まれた技巧的な城なのである。
こんな城この周辺にあるのだろうか?十王町の櫛形城は横堀は一周しているが、南北朝時代の城郭である。七会村の萩原長者屋敷も少し似ているが規模が小さい。
つくば市の多気山城も確かに似ている。横堀が湾曲しながら斜面を走る姿などそっくりである。あそこも一部横堀が2重になっていた。
多気山城の今に残る姿は佐竹氏が整備したという説があるが、その説が正とすれば、もしかしたらこの田渡城がモデルか?
「奥七郡の城郭址と佐竹470年史」には主郭部のみの図が掲載されており、横堀は本郭の北側と東側に描かれているに過ぎない。
ただし「水府志料」には「3重の堀を持つ」との記載が見られ、これが2、3重に城を囲む横堀を指しているものと思われる。

しかし、それにしても堀は浅いし、土塁は低い。全く塹壕である。
全面に土塁があるので鉄砲陣地なら抜群の効果があるだろう。
おまけに上の横堀と下の横堀は竪堀で連結され、上の横堀は5地点で堀切に出て竪堀を経由して下の堀に移動できる。
これらからこの城の堀と土塁は防御用のものではなく、攻撃と兵員の安全移動のためのものとしか考えられない。
やはり鉄砲が主役となった。戦国末期の遺構であろう。

 上の鳥瞰図は、当時の姿を復元してみたものである。
多分、本郭の櫓台には櫓が建っていたと思われるが、ここでは井楼櫓としてみた。
この城は居住用の城ではないため、建物は武器庫、米蔵などの重要物資の倉庫と仮設の居館程度のものがあり、普段は在番程度の兵がいただけであろう。

 麓には根小屋坪という地名もあるので、城主が平常時居住していた館や家臣の住居があったと思われる。
城主等は不明であるが常陸太田市内でこれほどの技巧を持つ城はないのではないか?
したがって佐竹氏家臣でもかなりの上級クラス、説によると佐竹東殿が挙げられているが、このクラスが城主であったのではないだろうか?
こんな凄い城なのに地元の人は城の存在をほとんど知らない。

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