久米城2018

常陸太田市(旧金砂郷村)久米にある久米城、この城は佐竹一族、重臣である北家の城。
ちなみにこの北家の子孫が今の秋田県知事さんである。

この城に始めて行ったのは2002年(平成14年)だった。
当時はひたすら藪の世界、本城二郭に建つ鹿島神社付近までしか行けなかった。
神社以外の部分に突入できるのは冬場のみ。

それも藪をかき分け、かき分け、落ち葉に滑って堀底や斜面に転落するという状態。
肝心の本郭は葛が密集、足を踏み入れることさえ不可能であった。

2006年(平成17年)、「図説 茨城の城郭」が刊行され、縄張図を担当したが、このド藪のため遺構は十分に確認できなかった。
特に参道東側Iなどは小竹が密集しており何が何だかさっぱり分からず、分からない場所は村史掲載図等を参考にせざるを得なかった。
それでも痛恨の見逃し部分が出てしまった。

見逃し部は「図説 茨城の城郭」改訂版でフォローしたが、それでもまだ納得できない所がある。

「図説 茨城の城郭」の刊行やいくつかのHPで久米城が取り上げられたことにより、地元でも久米城が再認識されるようになった。
地元からもこの城は忘れられつつあったのだ。

つまりはこのHPも少しは役に立った訳であり、これはうれしいことである。
これもインターネットの発達のおかげである。

そして地元に久米城跡保存会ができ、2012年ころから除草や樹木伐採、遊歩道整備、看板設置を行ってくれた。
このため、多くの人が訪れやすくなった。
感謝に堪えない。

今までは城郭マニアでも躊躇するような場所ばかりであったが、遊歩道や説明板が整備され、この状態なら素人でもかなり広範囲に見ることが可能である。
だいたい、城と言えば「石垣に水堀、櫓に門、できれば天守閣」というのが一般的なイメージであろうが、それとはまったく異なる中世の山城、この姿を知ってもらうのには最高の環境である。
しかも、この城の規模は大きい。
次から次に現れる遺構群、戦国時代の第一級の中世城郭のものである。
時代ごとに増築拡張を重ねていることもあり、まとまりがあるとは言えない点はあるが、この城を見ただけで戦国時代の山城はどんなものか、かなりのことは理解できるだろう。

その久米城、10年ぶり2018年2月25日に訪問した。
本城の本郭Aは始めて入った。いかにも戦国時代の舞台と言った感じの場所である。
昔、突入を阻まれたあの場所は「こんなんだったのか!」。
しかし、よくあの密集した葛を刈ったものである。
あの葛は刈り払い機でも切断に苦労したはず、場合によってはチェーンソーも使ったのだろう。
その労力に頭が下がる。

ここには周囲に土塁はなく、おそらく柵列が回り、井楼櫓が建っていたのであろう。
南城に通じる尾根部、そこもマニア以外に行く人もほとんどいなかったと思われるが、ちゃんと整備されていた。
尾根筋などには堀切Eがたくさんある。
その中で最大の障害が岩盤堀切Fである。

ここを越えるのが以前は難儀であったが、ちゃんと鉄パイプで組まれた足場が造られ、容易に南城の主郭Gまで行くことができ、周囲を回る見どころの横堀Hも見ることができるようになった。
しかし、藪がなくなると全然違うように見える。
かつて見た場所とは別の場所のようだ。

俺が見た藪の中の姿、あれは何だったんだろう。
ってことで再訪した時、撮った写真をアップ。
本当はHP記事を再訪した時の写真に置き換えるべきですが、藪状態の姿もまた「真」。
それも残し、別記事としてアップします。

@本城二郭に建つ鹿島神社。
以前はまともに来れたのはここまで。
A本城本郭。
以前は葛が密集、全く入ることはできなかった。
B本城本郭の東に延びる曲輪端の櫓台。
以前は竹が密集していて歩けないくらいだった。
C西城の物見台、ここは以前のまま。 D西城、西側の曲輪間の堀切。 E南城の尾根にある二重堀切。
F南城主郭手前の岩盤堀切。
鉄パイプで足場が組まれている。

以前はここを越えるのが苦労した。保存会に感謝。
G南城の主郭。
以前はここまで来る者はほとんどいなかった。
H南城の横堀。この遺構も大勢の人が見れるようになった。

西城の物見台から見た北側の山田川上流の水府方面。
ここからは山入の乱の舞台、山入城、その支城の棚谷城、和田小屋城町田城、松平城、そして東金砂神社がある東金砂山が一望の下にある。
I参道東側の曲輪群、かつてはここは入れなかった。