久米城(常陸太田市(旧金砂郷町)久米字龍神平)
鎌倉時代に大掾仲幹が築城し、久米氏を称したというが詳細は不明。
小野崎通春の子筑前守通重が築城し久米氏を称したという説もある。
筑前入道道室の時小貫因幡守の子を相続者とした。佐竹義治は山入氏に備え、久米氏を部垂城に移し、子の義武が久米氏を称し在城した。
 文明10年(1478)11月山入義知の来襲を受け、城主義武が討死し落城したが、12月佐竹義治が奪い返し、義武の弟義信を城主にした。
その子孫は佐竹北家として佐竹一門の重鎮となって活躍したが、本拠地は久米城にあった。
子孫は佐竹氏の秋田移封に同行し、城は廃城となったというので400年近い歴史を有する。

 城域は広く、久米十文字から北側一帯の山地とその裾野が城域となる。
下の鳥瞰図は建物を含めて想像復元したものである。
ただしこの図はあくまで想像図であり、こんな櫓は建っていなかったのかもしれない。
 3つの城からなる複合城砦であり、最も古い本城の南に南城を、大きな谷津を隔てて北側に西城を増築している。
3城を合わせた城域は南北700m、東西400m程度の広大なものとなる。
おそらく常陸太田市内では最大の城域を持つ山城と言えるだろう。

佐竹氏の本拠地の常陸太田城から本城までは約3kmの距離であり、本城は常陸太田城の西側を防御する支城という性格がある。
当時は山頂の本郭部周辺には食料庫、武器庫があり、普段は小人数の城番を置き、緊急時に城主以下が城に集合したものと思われる。
城域は広いが、築城当時は鹿島神社周辺のみが城域の比較的規模の小さな城であったと思われるが、常陸太田城の西側の防御拠点として竜貝城、南城が拡張されたものと考えられる。 

久米の十文字を北に800m程度進んだ所に鹿島神社の鳥居が有り、参道を登り、本殿がある標高104mの平坦地から東側一帯が本城部。
北側、西側は急斜面であり、神社境内の東側に本郭があり、その東は尾根伝いに常陸太田に通じる。
現在の参道が大手口(登城口)であったと考えられる。
参道のある南側がやや緩い勾配を持つ。
どこまでが城域かは一面の杉林と藪のためはっきりしないが、本城部は東西200m、南北50m程度と堅固ではあるが、それほど大きくはない。
 城は要害の地にあるが、不便な場所であるため、主郭部は緊急時の詰めの城であったと考えられる。
城主や家臣は山ろくに屋敷を構えていたものと思われる。
山ろくには屋敷を構えるのに最適な水田より比高数mの沢が侵食した平坦な台地があり、現在は久米の集落となる。
 主郭部へはここから参道となっている切通の道を200m程進む。勾配は結構きつい。
参道は蛇行しながら続くが、両側には藪の中に曲輪が現在でもいくつか確認できる。 

  木製の鳥居のある場所が主郭部の入口部であるが、周囲には曲輪と考えられる平坦地が棚田状に見られ、主郭南側の曲輪には土塁が確認できる。
この鳥居の上に曲輪があり、さらにその上部が本殿のある郭である。
この郭は東西40m、南北20mほどの平坦地である。
周囲に土塁は見られない。
北側は急斜面である。東側はやや低くなっているが比較的平坦である。この郭は本郭ではなく、二郭に当たる郭である。
この郭の東側に堀切で区切った一段高い位置に本郭があるとのことであるが藪のため確認できない。
 鳥居のある場所の北側には本郭部と西側の郭を隔てる堀切状の切通がある。
その西側の郭内は藪と杉林で内部は荒れているが、南側と西側にかけて数段の曲輪がある。。
 鹿島神社周辺は、久米城の築城当時からの部分であり、斜面を平坦化して郭を段々状に並べただけのシンプルで古風な雰囲気である。本郭の南側には帯曲輪がまわり、虎口が認められるが、藪で写真を撮ってもさっぱり分からない。

本郭の東には堀切があり、その東に窪んだ陣地のような場所がある。東端に深さ8mほどの深い堀切があり、そこが本城の東端である。

左と下の鳥瞰図と写真で解説を行うが、鳥瞰図中のマル付版番号は写真の撮影位置を示す。
  
@ 本城中央部の堀切。今は道として使われている。 A神社本殿のある郭。本郭の西に位置する本城の二郭に相当 B @の堀切の西側の曲輪内部。
C 本城本郭東の堀切。 D本城と東端の曲輪。 E 本城東端の堀切。深さは8mほどある壮大なもの。

南城

 久米城で最も明確に戦国時代後期の山城の特徴と遺構が見られるのは、南城である。
 この南城の部分は戦国末期に拡張された部分と言われ、本城から南に延びる尾根に沿って郭が2つあり、その間を数本の堀切が遮断している。
堀切の先は竪堀となって斜面を下る。
 最南端の郭(本郭)は東西50m×南北25m程度の広さがあり、北側を除く3方向に深い堀切がある。
このうち南側の堀切は二重堀切である。
その西側には郭を取り巻くように西から南側にかけて横堀がある。
 この横堀は田渡城の横堀と似ており、それほど深くもなく、幅もない。
まるで鉄砲射撃用の遮蔽を兼ねた塹壕である。
同時期の技術によるものと思われる。
 この技術が、佐竹築城・拡張説が正とすれば、つくばの多気山城に残る主郭部を幾重にも覆う堀と土塁の遺構につながっていった可能性がある。

なお、右の図の南端の堀切をさらに尾根に沿って150mほど行った場所にも曲輪と竪堀、横堀が存在する。

F 本城と南城を隔てる二重堀切 G 南城本郭北側の岩盤堀切。 H 南城本郭西の堀切
I 南城本郭南側の横堀。 J 南城本郭南側の堀切。 南城最南端の曲輪にある石の社。

西城(竜貝城)

北側には谷を隔てて、西城が存在するが、TV塔の建つ主郭部以外はヤブが結構ひどい。
この部分は竜貝城とも呼ばれるが、これは要害がなまったものと思われる。
ここは独立した城ではなく、本城の北側を防護するための出城と捉えることが妥当であろう。
 TV塔の建つ主郭部(ここが本郭であろう。)は南側に段々状に曲輪を持ち、郭の北側には一段高く土壇がある。
この土壇から北方の眺望が良く、北方に対する櫓(物見)台であったと思われる。

この櫓台から尾根が北に延び、尾根の途中に曲輪や堀切がある。
その先が再び盛り上がり、そこが北出城である。
ここにも櫓台が建っていたのであろう。
一方、本郭の西側に堀を隔てて、2つの曲輪があり、北側に高さ2mほどの土塁がある。
西端の曲輪から尾根が北西に張り出していおり、その尾根上にも曲輪が展開する。
K西城本郭の櫓台。 L Kの櫓台から見下ろした北出城に続く尾根の遺構。 M 西城と北出城間の尾根中央部にある堀切。
N 北出城内部。木間に見えるのがKの櫓台方面 O 西城の郭間の堀底から見た曲輪。 P 西城西側の郭の土塁。
Q西城の北西側の尾根にある堀切。 R 西城の北西側の尾根にある曲輪内部 城の南西に広がる久米集落は根小屋の跡。