常陸太田の小城館 

常陸太田市は佐竹氏の本拠地である常陸太田城があった土地である。
このため、常陸太田城の周囲には常陸太田城の支城郡や佐竹氏の家臣団の館が多く存在する。
それらの多くは多賀山地から平野部に延びる台地の先端部に築かれ、周囲の侵食谷を自然の要害としている平山城の性格を持つものが多い。
中には田渡城、や大門城のように山城も見られる。非常に珍しいタイプの館としては水城である河合館、釜田館がある。
以下、常陸太田市の小城館についてまとめる。
城館の遺構は廃館から最短でも400年という長い年月により、宅地化、農地化し、ほとんど遺構は失われているものが多く、当時の姿を想像するのは難しい。
なお、隠滅してしまった一部の館の推定鳥瞰図は、現地調査及び「常陸太田の城館」記載の図等を参考にして描いているが、ある程度の推測も加えざるを得なかった場合もあり、真の姿を必ずしも示しているとは言い切れない。

河合城(常陸太田市上河合町)
南に久慈川、北に山田川が流れる間の自然堤防上に立地する城である。
県北部には珍しい水城に分類される存在である。
(現在、山田川は城址西側で久慈川に合流するように流路を変えている。)
幸久橋北岸の水郡線河合駅から幸久小学校付近にかけての地に主要部があったらしい。
ほとんど遺構のないこのような城は再現するのに苦労する。

○城の立地と性格
城址南を流れる久慈川の対岸額田城がある額田台地であり、北側を流れていた山田川の北側は穀倉地帯が広がる。
この穀倉地帯は条里制遺跡でもあり、古くからこの地方の支配者を支えてきており、戦国当時もその位置付けは変わらず、これが佐竹氏の経済基盤の1つであった。
その穀倉地帯を管理する事務所でもあったと思われる。

それとともにこの城は常陸太田城を防衛する上で久慈川を巨大水堀と見立てた場合、ここは渡河地点であり、常陸太田城の外縁部の防衛拠点でもあった。
久慈川と山田川の流路周辺には湿地帯が存在していたのであろう。
城に近い部分に乱杭を打てば容易に接近することができなく、今の姿以上の要害性を備えていたのであろう。
この防衛構想が河合城が機能していた戦国時代にあったかどうか分からない。

確実にあったのは幕末、元治元年(1864)天狗党の乱の時である。
ここを渡河しようとした天狗党は河合に陣した幕府軍と久慈川に阻まれて渡河ができなかったという。
実に数百年後に機能が証明できたのである。

ただし、常陸北部が比較的安定していた戦国末期は常陸太田城の防衛拠点としての位置付けはそれほどなかったように思える。
(佐竹氏に反抗的態度を取る額田小野崎氏に対する警戒拠点であったのかもしれないが・・。)
戦国末期は防衛施設の位置付はあったかもしれないが、久慈川水運の河川港であり、河川漁業の拠点でもあり、経済活動面の地位の方が高かったのではないかと思われる。

現在、河合地区に城郭遺構はほとんど確認できない。
この地は久慈川と山田川に挟まれた自然堤防の微高地である。
現在の川面の標高が約7m、集落のある場所は約9m程度に過ぎない。
当然ながら洪水の危険性が高い場所である。
戦国自体当時は当然であるが大規模な近代的な堤防はなく、堤防を兼ねた土塁が周囲を囲っていた程度と思われる。
おそらく何回かの洪水でほとんどの遺構が土砂で埋没したり、消失してしまったか、
あるいは、山田川が西側で久慈川に合流するようになり、堤防ができたことと等治水対策が進んだことにより、堤防を兼ねた土塁が不要となり破壊され、城が存在した痕跡は伺い知ることができないのであろう。

河合城と似た立地の城館に久慈川下流側の釜田館、堅盤館が挙げられるが、これらも遺構は確認できない。
川合城同様に何度かの洪水により遺構は失われているのであろう。

○城の再現
現在、城郭遺構と思われるものは水郡線の河合駅北西側に高さ2mの土塁@ABが存在する。
また、駅南東側の民家になっている微高地に土塁Cが確認される。
かつて土塁@〜Bがある場所の西側から北側にかけて山田川が流れており、この土塁は堤防を兼ねたものであったのではないかと思われる。

その南側の自然堤防上に城が存在していたという。
曲輪は元は久慈川、山田川の流れの方向に沿った東西に細長い自然堤防であったものを人工的に堀で区切ったものと推定される。

今でも人の手が加えられた直線部やカクカクした形状を持つ微高地(曲輪)が複数存在する。
自然堤防上はほとんど宅地であり、現在ではどこまでが城域かは分らないが、かなりの広さがあったと思われる。

図は現在の状況から自然堤防である微高地上の曲輪を推定したものである。
青線が川崎春二氏の「奥七郡の城館跡と佐竹氏四百七十年史」に掲載された図(「日本城郭大系」にも転載)の範囲を現在の地形に落としたものである。
かなりの部分が現在の微高地の切岸となっている部分に一致する。
東端が旧国道349号線付近となる。
@〜Cも城域に含まれ、図に示される土塁と一致する。


A 線路を挟んで@の土塁の反対側に残る土塁
@水郡線線路西側に残る土塁


B ここの土塁は長さ60mほどある。


C駅東側の微高地縁に残る土塁

D Cの土塁がある微高地縁部。水田が河床跡。 E駅北東の民家は曲輪状、周囲が堀のようになっている。 F駅南側の微高地縁、水田が河床跡
G河合神社(右)西の水田は舟付場跡らしい H河合神社南に島状の微高地がある。

I 岩船神社東側。水田が旧山田川河床か?
J舟渡地区北側の微高地法面

先に述べたように@〜Bの土塁の延長が堤防を兼ね、城域全体を囲んでいたのではないかと思われる。
いわゆる輪中集落のような感じであったと想像できる。
なお、輪中集落はこの付近にも存在し、東海村竹瓦には久慈川の旧河床の水田に沿って、城郭の土塁とも思える規模の堤防が自然堤防上の集落側に残存し、里川または蛇行する久慈川の旧河床に面した日立市土木内にも同様な堤防が残存する。

東海村竹瓦集落の堤防。水田が旧久慈川跡 左の写真の堤防の反対側、まるで土塁である。

この図では河合駅付近に内郭があり、その外側を外郭が囲む輪郭式の城郭であったようである。
当然ながら外側を土塁が覆う描き方をされている。内郭部は駅になっているため、痕跡は伺えない。

戦国当時の河合城の城域想像図
赤部分が主郭部想定範囲。青で示す低地部は久慈川から分岐した流路があり、舟が入る通路があったのではないかと思われる。
微高地に船着き場や倉庫があったのだろうか?


河合神社や幸久小学校付近は掲載図の城域からは外れている。

この付近は入り江Gのような部分や島状の部分Hがある。
水田である部分が低地であるが、この区画が非常に人工的である。

おそらく、水田部分には久慈川からの引き込み水路であり、そこに高瀬舟などが入港し、荷の積み卸をしていたのではないかと思われる。
同様に幸久橋北側の「舟渡」も同様である。この「舟渡」地名、名前の通り、対岸への渡し舟が出ていた場所であり、河川港であったのであろう。

「舟渡」または「船渡」地名は那珂川下流域には4か所ほどあり、これらも渡しの場、河川港であったようである。
なお、久慈川対岸には「舟戸」があり、水郡線が開通するまでは筏で久慈川を下る木材の陸揚げ場であり、木材加工業が盛んに行われたという。
この付近の久慈川の川幅は約70m程度でありそれほど広くはない。

しかし当時は、蛇行を重ねていたため流速が遅いため、川幅は今よりも広く、流れがほとんどない湖状態であったか、いくつもの支流が自然堤防沿いを流れていたのではないだろうか。
ちなみに蛇行していた久慈川の痕跡である「粟原の釣場」の河跡湖の幅は100m以上ある。

久慈川の河跡湖 粟原の釣り場 西側 粟原の釣り場 東側 
川幅は100mほどあり舟の運行は十分に可能だろう。

このような状況は河川交通にはより有利な条件であり、想像以上に活発な河川交通が行われていたのでないかと思われる。
幸久大橋北側の下河合地区も自然堤防が発達している。
城域がこちらの方面にも広がっていたかは分らないが、根小屋に相当する城下町が存在したのではないかと思われる。

○歴史
鎌倉初期に築かれたと言われ、城主に佐竹家臣の中に河合平六三郎忠遠という者の名が見える。
佐竹義重の家臣の中にも川合伊勢守、川合能登守の名があり、子孫と考えられる。

ただし、川合の地は延徳元年(1489)に石神小野崎氏に与えられているため、この時点で川合氏はこの地を離れ、館には石神小野崎氏の代官が在館していたか、廃館になったかのいずれかと考えられる。
ここで石神小野崎氏が出てくるのが意外であるが、石神小野崎氏と額田小野崎氏は同系列であるが犬猿の中であり、その関係を佐竹氏が利用したものかもしれない。
川合氏の名は利員城の城主に確認できる。

                  
 堅盤館(堅盤町堀の内)

 堅盤館は河合城より久慈川に沿って3km下流の里川が久慈川に合流する水田地帯の自然堤防上にある。

 性格としては河合城同様、穀倉地帯を支配するための拠点と考えられる。

 館祉は熊野神社のある場所と言われているが、洪水の常習地帯であり、何度かの洪水に見舞われ何らの遺構も存在しない。
 館主や築館時期等についても不明である。
堅盤館のあった熊野神社

丹奈館(大森町丹奈)

大橋館の北側の台地上にある。人家になっており遺構はほとんど分からない。

小野小三郎高長という者の居館と言われ、小野氏は石神小野崎氏と額田小野崎氏の争いで討死したと伝えられる。
館のあった台地を南より見る。

瀬谷館(真弓町仲城)

 仲城とも言う。館の存在のみが伝えられ、現在、館の有った場所に遺構は確認できない。
 風神山の西の山麓にあり、南側、西側の平野部が一望の下にある。
周辺は侵食谷が入り組んだ複雑な地形である。
人見筑後守の居館と伝えられる。人見氏は佐竹氏の奉行を務めた旗本であり、佐竹氏の水戸進出に同行して館は廃館となったと思われる。
筑後守の子修理亮は秋田で没したと記録にある。
瀬谷館があったと言われる場所。遺構は認められない。

 峰山館(磯部町峰山)

 常陸太田市の南部、市街地の南約2kmの平野の中にある標高32mの独立丘、通称峰山にある。
峰山は平地にある独立丘であるため非常に目立つ丘であり、上から見ると三角形をしており、常陸太田市内のほとんどの場所から望むことができる。

東側には里川が流れ、丘の北で源氏川と里川が合流する。丘の上からの眺望は良く、常陸太田の全域、金砂郷方面、久慈川方面を一望の下に納めることができる。
 城郭を築くには最適な場所と思えるが、居館程度の規模の峰山館が築かれた程度であり、本格的な城郭は築かれなかった。
おそらく攻撃を受けた場合に退避するのに適していなかったためと思われる。

 峰山館は別名柳橋館ともいい、本郭は峰山の最高地点にある。本郭の位置は五十部神社の本殿となっている。
 館の歴史はほとんど不明であり、館主も分からない。「正長元年(1428)山崎出羽守、峰山城を討つ」という記録があるのみである。
当時は山入の乱の最中であり、この時の騒乱に巻き込まれたものと思われる。

 館は峰山の南西部にあり、鳥居から300m程度の距離の参道を登っていくが、参道の途中は数段の平地があり、曲輪のような感じも受ける。
山頂の神社本殿のある場所は40m四方の平地であり、ここが本郭であるが、周囲には土塁は存在しない。
本郭の裏側、北東側はやや低くなっているが、50mほど進んだところに低い土塁が見られる。

これが唯一の城郭遺構である。土塁は中央部が切れており、土塁上には柵があり、切れ目には木戸があったものと思われる。
 館は1400年代の中頃には廃館となったと思われるが、佐竹氏の全盛時代には常陸太田城の物見としては絶好の位置にあり、烽火台程度の施設はあったものと思われる。    

神社への道、途中は段々状になっている。 神社本殿境内。土塁は見られない。 神社裏にある土塁跡、木戸の跡か?

釜田館(下河合町釜田)

 峰山の南1.5kmにあったと言われる。館があったと言われる場所は水田の中の微高地であり遺構は全くなく、民家があるだけである。

存在自体も疑問視されている。
 館が実在していたとすれば、河合城や堅盤館同様、水田地帯を治める領主の館と思われる。

東側には里川が流れ、南側には山田川がかつて流れており、度重なる洪水により遺構が失われたものと思われる。
釜田館址、民家になっており、
若干水田より高い程度である。

馬場城(馬場町)
 常陸太田城の北東に位置し、馬渕坂を守る出丸ともいえる。
 谷津を挟んで東側に今宮館がある。
 現在は宅地と畑となり城の遺構はほとんどないが、馬渕坂に面した堀跡に住宅が建っている。

馬場共同墓地が東側の腰曲輪に当たる。
 城主の馬場氏は北酒井出義博が承久の乱の功で美濃に移り、その8代後の子孫基親が天文4年(1535)帰郷し、馬場氏を名乗って居城したと言う。
 孫の政忠は佐竹に従い秋田に移ったが、子の政直は当地に残り、慶長7年(1602)車丹波等と水戸城奪還を企てて処刑された。

郭内 畑と墓地で遺構は見られない。  北側の谷津に面した部分 城の雰囲気を持つ。

馬渕館(馬場町)

馬渕坂の南に位置する東西、南北とも100mの館であったと伝えられる。
館址は住宅となり遺構はない。

館主は佐竹氏8代行義の子小三郎鹿景義が南北朝時代に築いたという
が、後に野口(御前山)、高久(桂)に移り高久氏を称したので廃城になった
という。

 しかし、館の位置は常陸太田城の里美方面の入口である馬渕坂にある。
常陸太田城防衛上重要な位置にあり、出丸として戦国期も機能していたと
考えられる。

 写真は館址を下の低地側から撮ったものである。

藤田館(藤田町)

 馬坂城の南西800mの水田地帯の中に杉林がある。
 そこが館跡。

 萩谷氏の館と言われているが詳細は不明。
 方形の2つの郭よりなり、林の中、周りに土塁と堀が確認できる。
 
周辺の水田地帯を治める領主の館であったと思われる。
 立地条件は那珂市の平地城館群と良く似る。