戸村城(那珂市戸)

 那珂川を南側に望む河岸段丘上に築かれた城郭。
 対岸には那珂西城がある。
段丘下の水田からの比高は15mほどあり、その斜面の勾配は結構険しい。

 那珂川方面の水田から見上げれば平山城のように見えるが、反対側の水田地帯から見れば、標高差はほとんどなく、平城に見える。

 主郭部は文殊院側であり、ここに5つの郭が団子状に存在し、郭間には両側が土塁となる堀がある。
 その主郭部の東側と北側に郭が存在し、この部分は外郭部に相当し、家臣団の住居や城下町が形成され、総構構造になっていたと考えられる。

 主郭部の大きさは東西400m、南北300m度、外郭を含めると東西最大450m、南北700mという規模を持つ。

 南側は谷津を隔てて文殊院があり、北側は堀切を隔てて龍昌院がある。
 外郭部の遺構は宅地化が進みほとんど失われているが、主郭部は南側の小場江揚水の建設で破壊されているがかなりの土塁が民家の間に残されている。
 左の鳥瞰図は「那珂町史の研究第十二号」記載の図と現地調査に基づき描いたものである。

 主郭部の構造だけを見ると茨城町の小幡城の構造に若干似ているものがある。
 しかし、この特異な構造は新旧2つの城が接合してできた複雑な経緯による。

 始めに築かれた部分は南城であると言われる。
 時期は、久安5年(1160)那珂通能によると言うから平安時代末期である、那珂通能は戸村氏を名乗る。

 南北朝時代に南朝方に属し、この地方の覇権を佐竹氏と争った那珂一族である。
 しかし、戸村氏は南北朝の騒乱に南朝に味方したため滅亡してしまう。

 その後、120年間ほどこの城は廃城状態であったが、佐竹南家の南憲国が寛正元年(1460)北城を築城し、戸村氏を称して居城した。
 この戸村氏は佐竹氏の重臣として活躍し、現在の城址は前戸村氏の南城も取り込んで後戸村氏の時代に拡張されていったと思われる。

 戸村城は対江戸氏の最前線基地であり、江戸氏との戦闘には戸村氏が主として対応している。
 言わば、対江戸氏の方面軍司令官の地位にあった訳である。
 佐竹義宣の時代、当主戸村義和は文禄の役で戦死しており、跡を継いだ戸村義国の時代、佐竹氏の秋田移封に同行し城は約450年の歴史を閉じた。

北城北東端の堀と土塁 内宿北の土塁 北城東の土塁
南城北東端の堀と土塁 表小屋南の土塁 南城南の土塁と城址の説明板
文殊院間の低地 表小屋の土塁 外郭部 見門付近に残る土塁

日天石と月天石
「戸村城」の1角に太陽神の日天石と月神の月天石がある。
これは前戸村氏に係わるものである。
築城に際してこの2つの石を城内に置いて、城の安全と一族の繁栄を願ったという。
このことは城址の解説板に書かれている。
しかし、前戸村氏は願いも虚しく約170年後滅亡してしまう。

この石は伝説であり、もう存在しないのでないかと思っていたが、ちゃんと実在するのである。
地元の老人に教わったとおり、城址解説板の西側の御城北側の土塁状に2つ並んで据えられていた。
巨石と書いてあったが、そんなに大きくもなかった。
後戸村氏にも、後戸村氏が秋田に去った後も住民によって大切に扱われてきた。
900年前にこの石に願いを込めた武将がいたというのはある種のロマンを感ずるのである。

なお、日天は太陽を意味する神様で、月天とともに自然の運行を司り、九曜星では全体を統率する代表者。
仏像では、手に太陽を示す日珠を持ち、三頭または五頭の馬に乗ったものや七頭の馬が牽く車に乗る姿のものがある。
古代インド神話では、太陽を中心として神格化した神様は多く、馬に乗って天空を駆け回り、恵みをもたらす神様のひとりだそうだ。
月天は、十二宮などすべての星宿神の主で日天とともに自然の運行を司る神。
仏像では、手に月光の清らかさを示す月珠を持つ。多くのバリエーションがあり、三日月の付いた杖や蓮華を持つものもある。