東海村紀行
茨城県東海村といえば原子力の村。
太平洋の海岸沿いを走る国道245号沿いに約5qにわたり原子力施設群が立地する。
村の広さは10km四方程度と小さいが、人口は36000と村規模ではない。
約3分の1が原子力施設の従業員及びその家族という。
残り約3分の1が日立製作所関係の企業の社員及びその家族。
残りが原住民であるが、原住民で原子力施設に勤務している者も多く、明確な線引きはできない。

なお、「村」は茨城県にはたった2つしかない。
東海村と美浦村である。
村と言えば、のどかな田舎というイメージ。
村役場も木造2階建てのこじんまりしたものというような先入観がある。
ところが、茨城県のこの2つの村はそんなイメージからはかけ離れている。

2村ともやたらリッチである。東海村は国からの地方交付金は受けていない。
本来、村規模の自治体ではないが、国内外に知名度が高く、村の名称が捨てられなくなっているという不思議な村である。
役場にいたっては6階建てで、その辺の市役所なんてもんじゃない。

財政規模も人口数万の市並、村単独で消防本部を運営する。
単独の村が消防本部を運営しているのは日本では2村しかないという。
村立病院?診療所なんかじゃない。近代的な大病院である。
その東海村にも結構古いものも多く存在する。
茨城県屈指の中世城郭「石神城」もこの村にある。以下それらを紹介。

真崎古墳群
阿漕浦の西500m、南に細浦の水田地帯(涸沼のような海とつながった汽水湖の跡)を望む標高25m、比高20mの岡にある古墳群である。
日本原子力研究開発機構(JAEA)権現山寮の東側に位置する。
この寮の北側にこの古墳群の盟主とも言うべき、権現山古墳がある。

古墳は権現山古墳東側の直径100mほどの山林内に7基ほどある。
他の地区にもあったが、道路建設等で破壊されたものもある。
この山林は東海村により整備されている。さすが金持ち自治体、東海村である。

円墳が多いが、その中には珍しい前方後方墳である5号墳がある。
前方後円墳は馴染みがあるが、前方後方墳はあまり馴染みがない。
栃木県大田原市にある侍塚古墳が特に有名であるが、茨城県には余りないらしい。
古墳時代初期の古い形式だという。
この5号墳は全長40m、後部一辺23m、前部一辺17m程度の大きさがあり、朱塗りの土師器、弥生土器が検出されているそうである。
この地がまだ弥生時代であった頃、海から細浦、真崎浦に入り、ここに上陸して住みついた部族の初代に近いリーダーの墓であろうという。
時代としては3世紀末から4世紀初頭ころという。他の古墳はこの5号墳より後の時代のものらしい。

彼らの入植によりこの地の古墳時代が始まったのだろうか。
弥生土器のような土師器も発見されており、はじめは融合し、そして弥生文化は駆逐されて行ったのだろう。
この付近には、大型の古墳が多くあるが、この墓の主の末裔、あるいは地元の有力者が文明開化して豪族化したものの墓らしい。
金砂神社や長機部神社を創設した一族も海から渡来したという伝承を持つので、この5号墳の子孫かもしれない。
(全く、別に同じように海路でやって来た部族かもしれないが。)
杉林の中に林立するこれらの古墳は何を知っているのだろうか?

前方後方墳の5号墳

村松海岸
東海村は太平洋に面しているが、海岸沿いに原子力施設群があるので海に出ることがなかなか難しい。
村民にも海に面した村という認識は少ない。
でも1箇所だけ道がある。しかし、この道は狭く、地元の人しか知らない。仕事でちょっとその道をとおり、海岸に出てみた。
さすがに道を知る人は少ないので、人もまばら。いる人間は皆、釣り人である。
聞くところによると釣りの穴場だそうである。目の前でおじさんが20センチ級の魚を何本も釣り上げていた。

この海岸、かつてはフラットな海岸であり、戦国時代の塩田遺跡があった。
塩田は海岸沿いに点々とあったようであり、佐竹氏の直営だったようである。
佐竹氏はこれを専売にして内陸部に輸送、販売して莫大な利益を得ていたらしい。
その塩田管理の城が、海岸の西1.5qにある「真崎城」だったのかもしれない。
この海岸は10年ほど前に火力発電所建設と常陸那珂港建設のため、埋め立てが行なわれた。
現在、ここには東電常陸那珂火力発電所が建つ。石炭火力の100万KWの発電所である。

ここに行ったことがあるが、巨大なものである。当然、最先端の技術を使っている。
運転は3交替制で合計で100人足らずでやっているとか。煙突はあまり高くはないように見えるが、高さは230mもある。これでも撮影位置から600mは離れているのである。
しかし、この埋め立てで大きな環境変化が起きている。
海流の流れが変わってしまったのである。ある場所では海岸が侵食され、護岸施設が流され、ある場所では砂が堆積して海岸が砂丘に変わってしまったそうである。
その新しく生まれた砂丘には浜ヒルガオがちゃんと根付いている。
潮風にも、強烈な日光にも負けずたくましいものである。
その砂丘は、撮影位置では海岸が500mも沖に延びたそうである。

ここは川の水が流れ込むため、栄養素が豊富で、シラスが採れる。このため、漁船が来て採って行く。浅いので座礁の心配もあるが、無視しているようだ。
沖合いには海上保安庁の巡視船が停泊している。海岸に原子力発電所があり、その警備のためらしい。
村松海岸から北の日立方面を見る。煙突は日本原電。
新川河口の堤防 東電石炭火発の煙突は高さ260m シラス漁の漁船と巡視艇

村松軽便鉄道
その昔、茨城県東海村に私鉄があった。大正13年3月から3年間しか稼動しなかった幻、伝説の鉄道である。
こんな鉄道があったこと自体、地元の人もほとんど知らない。
路線は東海駅(当時は、石神駅)から阿漕浦までのわずか4kmという短区間である。
鉄道敷設の目的は大正12年にあった関東大震災後の復興資材としても砂の搬出と、村松虚空蔵尊への参拝客を目当てのものであった。
将来的には那珂湊まで結び、最近、廃線がとりざたされた茨城交通湊線の阿字ヶ浦駅と結ぼうとしていたらしい。
地元の高柳(名は不明)氏と根本秀之助氏が出資し、この4km区間で運転を始めたという。
小さな機関車が2,3両の客車を引っ張っていたらしい。
しかし、目論見は外れ、建設特需は起こらず、参拝客の輸送も年始や縁日の日程度しか客はなく、農産物の輸送も芋程度しかなかったという。
結局、運行は赤字続きで、昭和2年3月にわずか3年間の運行で廃止となった。

その路線であるが、どこをどう線路が敷設されていたのか良く分からない。
阿漕浦駅は今の日本原子力研究開発機構(JAEA)阿漕浦クラブあたりにあったらしい。
線路は現在道になっている阿漕浦の北側を通っていたらしい。
今は住宅が多く建てられているが、当時は東海駅から阿漕浦までは、農家が少しあるだけで、畑や原野しかなかったのであろう。
もし、茨城交通湊線と結んだとしても、その先も原野しかなくどっち道、利益を上げるまでには至らなかったであろう。
鉄道と郷里発展に夢をかけ、失敗し歴史に埋もれた人間がいたことを忘れてはならないであろう。

阿漕浦(右)に沿って鉄道が走っていたという。 線路跡の道路

阿漕浦
東海村の海岸近く(といっても1km以上離れている。)にこの池がある。
東側に国道245号がとおり、その国道沿いに原子力施設群が数qに渡って続く。
その原子力施設群の西側にこの池がある。この池は、原子力施設群とは別世界のような民話や伝説を残している。
伊勢に同名の入り江があり、その名を拝借しているという。
池は少し東にある伊勢神宮の分社である大神宮の御神池であり、面積約99,000u、東西500mほどの長さ、幅60mほどの細長い湖である。
深さは約4m。標高20mの岡の窪地に湧水が溜まった池である。
すぐ西に縄文時代の真崎貝塚があるので、数千年前から存在していたようである。
現在は貯水池としても使われている。南側はかつての汽水湖の跡である細浦の水田地帯があり、その対岸の岡が真崎城である。
子供のころこの池で泳いだことがある人の話によると、池の底からも水が湧いているそうで、非常に冷たい部分があり、危ないらしい。

古文書にも
「自然の湧水にして、池水清澄、未だ嘗て枯渇したることなく、其水深を知らず。
古来殺生禁断にして魚族甚多く、水一升に魚八合の称あり」と記述され、北隣の日立市水木にある「泉神社(式内社)」にある御神池とはつながっているという伝説もあるという。
また、ここには片目の魚伝説がある。この民話のストーリーは次のとおりである。
「はじめ阿漕浦には魚がいなかった。そこで村人たちは伊勢の阿漕の浜から神様の魚を分けもらい池に放すことにした。伊勢から「真薦(まこも)」に載せた魚(種類不明)を大切に運んだが、魚の片目が真薦にこすれてつぶれてしまった。しかし、目以外は無事で元気でしたのでそのまま池に放した。それ以来、阿漕浦の魚はすべて片目で、阿漕浦には「真薦」が生えない。」という話である。
今も池は鯉が沢山いる。
釣りは禁止であるが、当然、密漁者はいる。
その1密漁者の話だと両目はちゃんとあったとのことである。
他にも河童伝説もあるという。

地獄橋
竹瓦橋は、輪中集落である東海村竹瓦地区と久慈川北側の日立市側を結ぶ「潜り橋」、「地獄橋」といわれる久慈川河口付近にかかる橋である。
この橋の下流2qは太平洋であり、潮の満引きで平常時も水位が変化する。
海水も上がってくるようであり、水に塩分が含まれる。当然、何となく磯の香りがする。
名のとおり川が増水すれば通行止めとなり、時には水面下になることもある。

上の写真は南側の東海村側から見た橋と北岸である。なぜか対岸も東海村である。
民家が数軒あり、東海村民だそうである。これも川がかつて蛇行していたなごりという。
「潜り橋」、「地獄橋」と言えば、相場は木の橋であり、比較的幅の狭い川にかけられる。
川幅が広い河口付近に架けられているのは今ではこの橋くらいだろう。ただし、この橋は鉄骨とコンクリート製である。
かつては付近に橋が少なく、渋滞を避けるため朝夕の通勤・退勤車両が多く通った。管理人も良く利用した。
通勤中に急用を思い出すと、付近の葦の中に駆け込んだものである。しかし、下流に留大橋ができ、この橋を通る車両は激減した。
下の写真は下流に架かる留大橋と常磐線の鉄橋である。
本当はこの2つの橋の間に「留橋」という木製の本当の地獄橋があった。
留橋は欄干もなく「地獄橋」の別名の通り、人の転落事故が絶えず、30人ほどが亡くなっている。
10年ほど前、親子4人の乗った軽自動車が転落して全員が死亡するという悲惨な事故は発生。
その直後に橋は閉鎖され、さらに台風で流されて今は跡形もない。その代替が留大橋である。

輪中集落
東海村の北、日立市との間を流れる久慈川は、現在は西から東にまっすぐ流れ、太平洋に注いでいるが、かつては蛇行を繰り返していたといい、その蛇行の痕跡が低地となって明確に残る。
当時の久慈川は竹瓦橋から南に曲がり、石神城の東側下をとおり、東に曲が皇体神宮の北で北東に流れを変え、久慈漁港付近で太平洋に注いでいたようである。
したがって、現在の竹瓦集落は久慈川の北側に位置し、西側から南側を久慈川が流れていたようである。

当然ながら、しっかりした堤防がなく、蛇行が激しいため、洪水で大きな被害が起こりやすかったと思われる。
このため、竹瓦集落は周囲を堤防で囲んでいたという。輪中集落ということである。
流れがまっすぐになり、立派な堤防が造られたため、集落の周囲を囲んでいたほとんどの堤防は失われているが、西側に長塁のようにその堤防が300m程度にわたって残っている。
水田の位置から4m程度の高さがある。
輪中集落と言えば、伊勢長島が有名であるが、ここ茨城にも存在していたのである。

なお、輪中集落はより上流の那珂市の門部圷地区などにも確認される。

村松山虚空蔵堂
真言宗豊山派に属し、伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊(千葉県天津小湊町の能満虚空蔵尊、京都嵐山、焼津香集寺を入る説もあり)とともに日本三大虚空蔵尊のひとつ。
平城天皇の勅額により、平安初期大同二年(807)弘法大師によって創建。本尊の虚空蔵菩薩は、弘法大師が鎮護国家、萬民豊楽、平和祈願のために、一刀三拝の礼をつくして彫ったものという。
平安末期から戦国末期までの約500年の間は、佐竹氏の保護を受け、多くの僧坊があったが、佐竹氏が山入の乱で弱体化した文明17年(1485)、岩城常隆の侵攻を受け、兵火で灰燼に帰したという。ただし、本尊は真崎城主、真崎三郎が運び出し無事であったという。
当時、この寺は僧兵を抱え、僧兵が佐竹氏の軍事力の一端を担っていたということから軍事施設として攻撃対象にされたらしい。
この時の攻撃は水軍によるものであり、村松海岸に上陸したという。
その後、長亨元年(1487)佐竹氏により寺は再建され、村松山神宮寺から村松山日高寺と名を改め、福徳智能、除災招福、一代開運を授ける祈願寺の根本霊場として伽藍が整備さられた。
江戸時代は幕府より朱印五十石を寄進され、水戸徳川家から庇護された。
徳川光圀は天和3年(1683)堂塔伽藍を大規模に修理したが、佐竹氏の影を絶つために日高寺から改称させたという。
明治4年(1871)日高寺の名に復帰。
明治33年3月(1900)民家火災の飛火で、本堂、仁王門、三重塔、客殿等が焼失するが、本尊は災をまぬがれる。
大正元年本堂を再建し、以後、書院、長廊下、鐘馗霊神堂、仁王門、大鐘楼堂、三重宝塔が順次、再建されて来ている。
この寺の「護摩」は真言密教の祈祷方式が見られる興味深いものであるが、その方法も板東仏教の源をなすものというが、詳細は分からない。
本尊の虚空蔵菩薩は初詣の他にも十三詣で良く知られ、福徳智能を授け、開運出世、無病延命、諸願成就の願いを叶えるという。

仁王門 本堂 本堂から見た鐘楼と仁王門