大橋城(日立市大和田町/常陸太田市大森町)
国道6号線の石名坂から西を見ると常陸太田側(常盤自動車道側)に突き出した半島状の尾根がある。
南の麓が旧国道6号線、陸前浜街道の大橋宿であり、大和田郵便局や鹿島神社の裏山、天神山が城址である。
標高は40m、比高は35m程度である。
山の南下を茂宮川が流れ、天然の水堀の役目を果たす。

↓は西側、常磐自動車道高架下から見た天神山である。こちらから見えるのは曲輪Uである。

国道6号線(かつての陸前浜街道)は久慈川を渡り、さらに北上すると関東平野から阿武隈山地の南部にあたる多賀山地に入って行く。
その入口が石名坂という坂であり、ここを登ると海岸と山地の間の狭い地域に展開した日立市街に入る。

当時、太平洋に面した久慈城からこの付近までの約3q間は茂宮川と久慈川の間に湿地帯が広がり(今も一部が残る。)、この付近から西側でないと陸路の場合、南下はできなかったと思われる。
南下する敵がここを突破すると平野部が一気に展開することになる危険性がある。

このような場所であるため、石名坂は交通の要衝であり、昔から戦場になっている。
古くは南北朝期の甕の原の合戦である。
この合戦は上京を目指す北畠顕家の軍を佐竹軍が迎撃したものであるが、佐竹軍は惨敗、常陸太田城を放棄して金砂山城に退避、瓜連合戦に発展する。

新しくは幕末の天狗党の合戦であり、ここで幕府軍が天狗党を迎撃して敗退している。
そのような場所であるため、この城が築かれたと思われる。

@本郭内部東側、土塁は低い。 A本郭西側にある大橋古墳 B本郭北下の横堀

この山は南側が急斜面であり、北側が緩やかである。
城は東西に3つの曲輪が並ぶが、中央部の曲輪と周囲の堀がしっかり造られているが、東西の曲輪の造りは雑な感じであり、基本的には単郭の城と言えるだろう。
東西の曲輪は拡張された感じである。
城域としては東西200m、南北50m程度であろう。

中央部の本郭Tは、急斜面である南側を除く三方向に横堀があるのが特徴である。
横堀の総延長は100m近くある。
堀切部分は南側の斜面に竪堀となって下る。

C本郭北下の横堀は東で直角に曲がり曲輪Vとの間を隔てる。 D曲輪V北下の横堀 E曲輪U北下の帯曲輪

特に、東側と北側の堀は規模が大きい。西側は尾根を分断する堀切の意味もあるが通路も兼ねている感じである。
南側は腰曲輪があり、下の鹿島神社方面に下る道が存在していたようである。

本郭は上辺50m、底辺70m、高さ40mの台形状をしている。西側に向って若干傾斜しているが結構広い。
東側と北側には土塁が巡る。
南西端には古墳(大橋古墳)Aがあり、盗掘された跡がある。
櫓台には使われてはいなかったと思われる。
南東端@が本郭内で一番高い場所にあたり、ここに櫓台があったと思われる。

北側の横堀Cは前面に土塁を持ち、その下の斜面には曲輪が3段ほどある。
直下の曲輪は東に100mほど続き、途中で横堀Dとなる。

東端で竪堀となって、旧大橋小学校の校庭跡に下る。
この旧大橋小学校付近は南向きの居住には適した場所であり、居館があったのではないだろうか。

この横堀Cと本郭の間が三郭(V)であるが、凄まじく小竹が密集しており、歩けない状態である。
東側に虎口のようなものがある。
本郭との間には土橋があった感じではなく、一度、堀に降り、本郭北側の虎口から入ったのではないかと思われる。

土塁の一部が切れ、北側斜面に道となって下る。
横堀の底が堀底道となっており横堀に至ると、堀底を一度西側に迂回してから本郭に入ったものと思われる。
一方、三郭北の横堀の北側には天神を祀った小さな社があり、東側以外を土塁が囲み、曲輪のようになっている。
ここには旧小学校側から上がれるようになっているが、すでに笹が密集した状態となり朽果てつつある。
この場所も城域と思われる。
一方、本郭の西側には堀を隔てて二郭(U)が存在する。
途中で北側に曲がったような瓢箪形をしている。
北側と南西側には一段低く腰曲輪Eがある。

曲輪の南側は本郭の南側から続く帯曲輪が延び、南西端は横堀Fと竪堀となる。
一方、北側は三郭北から続く曲輪が延びてきて、北端に堀切となり、西側斜面を竪堀となって下る。

二郭の西側は帯曲輪が存在し、南西端で横堀と合流する。
二郭北側の堀切の北にも平坦地があるが、ほとんど自然地形である。
城域には含まれると思われるが、捨曲輪といった感じである。

本郭と二郭の北に下に下る道が延びる。
その直下に大きな窪みがあり井戸跡と思われる。
北に下る道は緩やかであり、途中に堀跡のような場所があるが、これはどうも北側の天神方面に向かう道跡のような感じでもある。

なお、この北側斜面には畑なども存在していたようである。
北に下る道は北側の谷津部に出、その北側には丹奈館がある。

本来は本郭部のみの小さな城だったと思われるが、土塁を持つ横堀を傾斜の緩い面に多重に巡らす点では、田渡城、高部城、久米南城等と同じコンセプトであり、この技法から戦国末期に城の拡張が行われ、横堀が造られたものと思われる。
ただし、それほど熱心に拡張工事を行った感じでもない。

F曲輪U西下の横堀 G曲輪V北側の天神社が建つ場所も城域だろう。


城の来歴は今一つ明らかではないが、佐竹家臣茅根氏が城主と伝えられる。
もともとは合戦を想定した構造ではなく、篭城も想定してた感じはなかったようであり、陸前浜街道を抑える関所城であるとともに、東の太平洋方面、南の久慈川方面に対する物見の城だったと思われる。
拡張の結果、若干の合戦や篭城を想定した城に改造されたのではないだろうか。
幕末の石名坂の戦いはこの城の東で行われておりこの城が使われたことはなかった。

本来、陸前浜街道を抑えるなら、この山より、東側600mに位置する岡の上の坂本中学校付近の方が場所的には理想的である。
しかし、ここに築城するとなると台地を分断する長い横堀が必要となり膨大な工事量が必要となる。
また、守備兵も大勢必要となり、コストパフォーマンスが悪い。
さらには中学校付近の台地は昔から井戸が掘れず水に苦労したと言われている。
これらのことから、工事量が削減でき、守備兵も少なくて済み、かつ、水も確保できるこの天神山に築城したのではないかと思われる。