那珂市(旧那珂町)の城館

 那珂市には所々に杉の林が見られる。
その杉林の多くが旧那珂町地域で極めて多い中世の平地城館の祉である。
 このうちいくつかは、宅地化により姿を消しているが、それでもかなりの城館は残っている。

 旧那珂町の城館としては久慈川沿いに額田城、南酒出城、那珂川沿いに戸村城等の比較的大きな城郭が存在するが、これらの城郭は佐竹氏の重臣クラスの居城であり、古代から水田として開発された久慈川、那珂川流域の低地水田地帯を領地として支配するための拠点である。
 旧那珂町地域にはこれらの比較的大きな城郭とは別に久慈川、那珂川から離れた那珂台地内部に多くの小規模城館が存在する。
 特に菅谷周辺は小城館の密集地帯であり数百m置きに城館がある。
 これらの小城館はほとんどが単郭または2つの郭からなる方形の館であり、佐竹氏の旗本クラスまたは佐竹氏の重臣である額田小野崎氏や江戸氏の家臣クラスの館である。

 旧那珂町地域の古代遺跡は久慈川、那珂川沿いの台地周辺部に立地し、台地の中心部にはほとんど存在しない。
 これは久慈川、那珂川に流れ込む小河川の開析した土地を中心に水田開発が行われ、それに伴って発展した集落の跡である。
 水の得にくい台地中心部は、中世まではほとんど手付かずの状態であった。
 しかし、中世の経済が米中心に発展し、早くから穀倉地帯に支配権を確立した佐竹氏等が他より優越した地位にあったのも米経済によるものである。
 戦国時代になると支配地域拡大のための合戦費用の調達や恩賞として与えるための米の採れる土地の必要性は増すが、対外戦争で土地を奪取することは容易ではなく、合戦費用の支出に比べて確保できる土地から上がる収益は決して見合うものではない。
 場合によっては支出が全く無駄になることもしばしばである。
 問題を最も確実、かつ、安全に解決する方法が水田開発である。

 水田開発と言っても常陸太田周辺の穀倉地帯は飽和状態となり、周辺は山地であり開発の要素は少ない。
 このような状況の中で目を付けられたのが那珂台地である。
 台地内部は水の確保は困難であるが平坦であり、水の確保さえできれば水田開発は可能である。
 このような状況下、小城館の領主は水田開発による領地獲得、経済基盤確保のため、開拓者として築館したものであろう。
 台地内部にあるほとんどの平地城館の近くには溜池が存在し、彼らは溜池と用水路の灌漑権を支配することで領民を支配して、経済力を蓄えていったものと考えられ、佐竹氏の奥州進出等の陰の経済基盤もこの地に求められるのかもしれない。

 現在、旧那珂町地区は水戸市のベットタウンとして人口は増え発展しているが、その開発の始点は、いくつか残されている小城館の館主達であろう。
 また、彼らの開発した溜池も多くは今だ現役であり、現在も水田を潤し、多くの米を産している。
 以下に上記の平地城館を中心とする那珂町の小城館を紹介する。なお、記述に当たっては「那珂町史」、「那珂町史の研究」等を参考とした。

東風谷館(鴻巣東風谷)


常盤自動車道を中心線として那珂市役所のちょうど反対側に位置する。

北側より半島状に延びた微高地の先端部にあり館の東、南、西側は水田地帯の低地であるが、当時は沼状態であったと言われる。

館は馬蹄形を呈し、2重の堀と土塁を有し、東西120m、南北50mの大きさである。
館の入口は北側中央にあった。

現在、堀と土塁は耕地化のため消滅しているが館の形状は十分推定しうる状態である。
館主等については不明である。
 写真は館南端部であり、当時深田であった左手の水田沿いに道が弧を描いているのが分かる。
木の付近から右手にかけて3重の土塁と2重の堀があった。


一関館(菅谷一の関)

 菅谷西小学校の東側に位置する。西側に水田を望む微高地上にある。
かつては近くに2つの溜池があり、館主はその水利権を持つ者であったと推定される。
2つの郭があったと推定され、200m四方の広さがあったものと思われる。
館としては大きい部類に属する。
 現在遺構が見られるのは南東側のみであり、堀と土塁がある。
しかし、雑草が茂っており、遺構であるか宅地工事の残土であるか判別がつかない状態。
他にも遺構があると思われるが、杉林と藪に覆われ分からない状態。
周囲には住宅が建てられ、そのうち隠滅してしまう恐れが出ている。
館主は藤咲丹後という者と伝えられる。
藤咲氏は大掾氏の流れを組むと言われるが詳細は不明。
南西端の土塁

備前山館(飯田備前山) 

 飯田の国道118線旧道の東にある。
 この館も他の館同様、灌漑用の池と密接な関係がある。北側に大洞池という溜池がある。

 館は200m×100mの方形であり、土塁はそれほど明確ではないが南側に若干見られる。

 堀は館の南側と東側に残っている。ただし、この館の堀も用水路を兼ねていたと思われ、幅は狭く防御性に乏しい。
 館の主要部分は杉林であり、中には入れない状態。館主等は不明。
南側の土塁  南側の土塁と堀 

内後館(戸崎内郷)

県民の森入口駐車場の東、戸崎郵便局の北側にあり、北側に洞前池があり、館の東側は洞前池が灌漑する水田地帯である。

水田地帯を挟んで対岸の東側に戸崎鹿島城がある。
 方形の館と推定され、館の東側に堀と土塁が残されている。
館内は民家であり、土塁はそのまま塀代りに使われている。西側にも土塁が見られる。
150m四方の広さがあったと推定される。その他の遺構は宅地化及び畑となって失われている。
 館主は佐竹氏の重臣戸村氏の家臣戸島弾正という者であり、戸村城の出城的な要素があるものと思われる。
戸島氏は後に戸村氏に従い秋田に行き、その後浪人したと言われる。
西側の土塁  東側の土塁と堀跡

原坪館(福田原坪) 
 那珂町役場の西方400mの位置にあり、すぐ西側は常盤自動車道である。原屋敷とも言う。
 南側は水田でありそれを望む微高地上にある。周囲には溜池から流れる用水路が多く、この館の堀も用水路を兼ねていたと思われる。
 館は3重の堀で囲まれる方形の館であり、200m×150m程度の大きさ。
 外郭部は常盤自動車道開通に伴う、周囲の宅地化によりかなり失われているが、内郭部は杉林に覆われ良く残っている。
 土塁、堀とも規模は小さく防御性は低い。
 館主は高橋土佐という者と伝えられるが、高橋氏の来歴は良くわからないところが多い。
 現在、周辺には高橋姓が多く、子孫と言われる。

北東端部分 杉林の中に土塁が見え
る。  
北西端の土塁

戸崎鹿島城(戸崎) 

 那珂市にある県植物園の東側、東京電力の変電所の西側に続く台地上にあり、鹿島神社の境内が城跡。
 城主に関する記録は不明。城というよりは館程度の規模。

 境内は100m×50m程度の平坦地であり、東側に土塁の痕跡のような盛り上がりが見られる。
北側は沢のある谷、南側は道路が堀であった可能性がある。
最も城跡らしい痕跡が見られるのは西側であり、帯曲輪と土塁及び堀が北から南に直線状に続く。
西側の帯曲輪と土塁  鹿島神社入口。道は虎口か?

 

本米崎館(本米崎)

 本米崎小学校の県道を挟んだ北側、常盤自動車道路と県道二軒茶屋瓜連線に挟まれた場所にある。
 東側は久慈川の支流が開析した低地であり、その低地に面した台地端部に位置する。
 遺構はほとんど確認できないが、館址である杉林の中に低い土塁の痕跡が確認できる。
 道路工事等でかなり遺構が失われてしまったのではないかと思われる。
 館主等については不明。

 堤館(堤字御所堀)
かつては120m四方の館であったと言われる。
 館の北側は沢が侵食した比較的深い谷状地形となっている。
 館の周囲に土塁と堀があったと伝えられるが館中心を県道福田孫目線が横断しており、道路工事により遺構はかなり破壊され、現在、遺構はほとんど確認できない状況。
 笹葉御殿と称され、南酒出氏の隠居所とも言われるが、地理的に額田城の出城と考えられ、額田小野崎氏の一族住谷尾張が居館したとも言われている。
 

小堤館(額田南郷)

額田城の外郭南西端の谷津を隔てた西側の舌状台地の先端部に位置し、現在の鱗勝院の地である。
館の北側は谷津を隔てて額田城のある台地であり、東側と南側はかつての「有ガ池」跡の水田地帯である。

唯一、西側のみが台地平坦部に続いているため、この部分にのみ土塁が築かれ、現在も残存している。
その他の方向には遺構はない。
 額田氏が額田城を築く前に居館していた場所と言われ、鱗勝院は初代額田義直が文永2年(1265)に建立したものである。

 額田城築城後も額田城の南西方向を守る出城として機能していたものと思われる。
太田街道の旧道は館北側の谷津を通っていたと思われ、本館と額田城外郭で旧太田街道を扼していたものと思われる。
館西側の土塁 鱗勝院山門前の土塁

田崎館(田崎字八幡)

 田崎の福ヶ平霊園の谷津を挟んだ西側の尾根末端部にある。
南北200m、東西160mが城域といわれるが、現在、写真のように破壊され遺構は確認されない。

 館主は佐竹家臣の田崎式部少輔と伝えられる。
 その子新三郎は佐竹義宣の代に東館の城代を勤めている。

大内館(大内字十郎内)

 那珂川の低地に突き出た小高い丘の上にあり、宅地と山林になっている。
 土塁や堀は確認できない。
館葉以後の山に登ってみたが、城郭遺構は確認できなかった。
山の麓にある民家の地こそ、館の跡であったようである。

 南北朝時代大内義高が築館したと伝えられるが、義高は延元元年(1336)佐竹に従い花房山方面で南朝軍と戦い戦死し、館は廃館になったと言う。

江戸盾の内(下江戸)
 那珂川にかかる千代橋の東、下江戸地区には江戸城があった。
 城の本郭は城の内と呼ばれる常北と瓜連を結ぶ県道を北に見下ろす場所にあったと言われるが自然地形をそのまま要害としており、人工的な遺構はない

 江戸城は南北朝の騒乱で一時は壊滅した那珂氏が足利尊氏に従い軍功を挙げ江戸氏として復活し居城した城である。
 普段は上江戸かこの盾の内に居住し、那珂川の水利権を管理していたものと思われる。

 この場所も江戸城同様、明確な土塁、堀等の遺構はないが、河岸段丘上であり、南北は複雑に入り組んだ侵食谷が発達し、土塁、堀を必要としない要害性を持つ。
 東は江戸城の本郭につながる山地であり、館を構えるには非常に適した場所である。
 さらに南東の内屋敷地区も似た条件を有し、地名自体が館の存在を暗示させる。
 ここにはかつて土塁が存在していたと言われる。また、北西側の御蔵山地区には土塁と推定される遺構が確認できる。

 江戸氏は上杉禅秀の乱で軍功を挙げ、水戸を領土に与えられて進出し、河和田城を手に入れ、さらに水戸城を奪い、山入の乱による佐竹氏の弱体化に乗じて勢力を拡大し常陸の戦国史に登場していく。

御蔵地区の民家裏の土塁 盾の内への北からの入口。虎口に見える。

北酒出城(北酒出)

 南酒出城の北西、久慈川低地を臨む台地突端部にあったと伝えられる。
 駒形神社北側の久慈川低地に張出した台地が城祉と思われるが、場所としては遺構は確認されていない。
 おそらく自然地形を要害に利用した城であったとおもわれる。

 佐竹氏4代秀義の子助義が鎌倉時代初期に築いたと言われる。助義は承久の乱で軍功を挙げ、領地として与えられた美濃国に移り、美濃佐竹氏の始祖となり、城は未完成のまま廃城となったと伝えられる。
 北酒出氏はその後常陸国に帰還し、常陸太田の馬場城の城主となり、子孫は佐竹氏の秋田移封に同行せず、車丹波らとともに水戸城奪還を企て破れて殺された。
 写真は城址と推定される舌状台地を西側より見る。城祉推定台地先端部を北から見たものである。

大学原館(向山)
 
日本原子力研究開発機構 那珂核融合研究所の敷地となり隠滅。大井大学という者の館であったと伝えられる。

竹之内館(菅谷竹之内)
那珂バイパス沿いにあるカスミストアの西側300mの位置が館祉であった。
現在は竹之内住宅となり隠滅。かつては東西45m、南北33.6m幅3mの土塁と1.4m幅の堀があった。
藤咲丹後の館と伝えられる。
南に中宿溜がありこの水利権を管理していたものと思われる。

森戸館(額田南郷)
 額田城外郭北西端より500mの位置にあり直ぐ西に国道349号線が走る。
台地端部までは500mほどであり館を築くなら台地突端の方が有利であるにも係わらず、4方が平坦な地に築かれている。
額田城との関係も明らかでない。
現在、畑となり遺構は全く存在しない。
館主等も不明。

小六内館(菅谷小六内)
 
鹿島台団地となり隠滅。公園内に平野小六館という石碑がある。
 縦112m、横69mの台形に近い長方形の形状をした館であり、内部に3つの郭があった。


東崎館(福田東崎)
 県営住宅となり昭和30年頃隠滅。
80m四方の単郭方形の館であり、周囲に土塁と堀があった。
圷縫殿之介という者の館であり、子孫が近くに居住する。

檜山館(戸字檜山)

 那珂川に臨む低地にあり、戸多小学校の西500mの位置にある。
 低地の微高地に築かれていた。
 現在は畑となって遺構は見られない。
戸村義易の3男主水義忠が檜山氏を称して居館したという。
 檜山氏は戸村氏の家臣となり、佐竹氏が秋田に去った後は帰農し、その子孫は現在まで続いている。
 写真は館のあった那珂川の開析した微耕地である。
堀跡のような地形が見られる。

 真土館(戸村字檜山)

 檜山館の北300mの位置にあり、檜山館同様、微高地上に築かれている。
 現在は畑となって遺構はない。
館主等は不明であるが檜山氏と関係があると思われる。