2つの長幡部神社
全国各地にある神社で同名のものは多い。
鹿島神社、羽黒神社、浅間神社、愛宕神社、八幡神社、伊勢神宮、天満宮、鷺森神社、稲荷神社、諏訪神社、足尾神社・・・名前を挙げればいくらでも出て来る。
これらは全国チェーンと言えるだろう。
特定地区でチェーンを形成するような温泉神社とか星神社とかもある。

しかし、全国に唯一の名前というの神社もある。
原始宗教にルーツを持つものや律令時代にルーツを持つもののようである。(その中には全国チェーンに発展した神社もあるが。)

我が家の近くに「長幡部神社」というあまり馴染みのない名前の神社がある。
常陸風土記や延喜式にも登場する律令制に係る神社である。
そして直線で約150q離れた埼玉県北部にも同じ名前の神社がある。
こちらも延喜式に登場する神社である。
両神社の由緒等を調べるとルーツは同じようである。

この2つの神社は古代の特殊な織物を織る技術集団「長幡部族」の崇拝する神社である。
長幡部族は美濃から全国に散った集団のようであり、大和にもいたし、当然、美濃にもいたという記録が残る。
おそらく全国各地にいたようである。

しかし、現在、名が残るのは茨城と埼玉の2つの神社だけである。
他にも存在していたのではないかと思われるが、歴史の流れの中で既に名前が消滅してしまったり、違う名前に変わっているのではないかと思われる。
その2つの神社も律令制の崩壊に伴い廃れたり、名前が変わったりして中世、近世と細々と続いた。

2つとも規模はどこの田舎にもあるような小さな神社に過ぎない。
今まで続いたこと自体が幸運と言うべきかもしれない。
では、その2つの神社を。

茨城県常陸太田市幡町の長幡部神社
常陸太田市役所の東約1km里川左岸の標高45m、比高約35mの幡台地南端に位置する。
←北側から見た神社の森
「常陸風土記」に登場する機織を専門にした美濃から来たという「長幡部族」に係る神社である。
「常陸国風土記」によると、(現代語訳)
太田郷に長幡部の社がある。天照大神の孫の「珠売美万命(すめみまのみこと〉」が筑紫の日向(高天原、高千穂)に降臨した際に、衣服を織る目的で「綺日女命(かむはたひめのみこと)」が機織り機を持参して同行した。
その後、「綺日女命」は日向から三野国(現:美濃市、大垣市とも関ケ原という説もある。美濃に長幡部がいたことは古事記に「三野国本巣国造長幡部連の祖」と載る。)に到った。
そして崇神天皇の代に、その子孫にして、長峰部の遠縁にあたる「多弖命(たてのみこと)」が美濃から常陸国の久慈に遷り、機殿を建てて初めて布(長幡)を織った。
この織物はそのまま衣装になり、裁ち縫う必要がなく「内幡」という。
これを織る時は人に見られるので、家の扉を閉じ暗くして織るので「烏織」と名付けた。
兵士の鋭い刀でも切ることができなく、毎年、神の調として献納する。

・・・と書かれる。

下から台地に上がると石造りの鳥居が出迎える。 2の鳥居を越えると拝殿が見えてくる。 神社の拝殿
拝殿の裏に本殿がある。 神社東にある天満宮は古墳の上に建つ。
この裏側が幡館である。
主殿裏に並ぶ小さな祠、屋根部が破損しているが、3.11で
吹き
飛ばされて欠けたため。2日後、管理人が復旧した。

常陸太田市史によると、「長幡」とは長い織物を織ることが出来る機織り機を用いて織った織物の一種「あしぎぬ」を指す言葉で、そのまま着れたというので神主が着る貫頭衣のようなものではなかったかと述べている。
織物の材質は絹という。
絹は弥生時代にもたらされ、当時、既に生産されていたという。

製品である衣装はかなり特殊なものであり、伊勢神宮の祭祀用、皇室での祭祀用であったと推定されるという。
「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。周囲から見えないように隠したというので、その特殊な機織機が機密だったのであろう。
文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。

『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す。
また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという。

現在は、五穀豊穣、家内安全等一般的な願い事を祈る地元の郷社ではあるが、織物の神としても知られ、現在も茨城県結城市や群馬県桐生市等の織物の産地から集団で参拝客が訪れ、奉納が行われる。

なお、常陸風土記には茨城県北部では「静神社」「薩都神社」の名が見え、神社名は出ないが「泉森」(日立市の泉神社)が登場する。
その「長幡部」族の墳墓と言われるのが、幡台地上の各所に存在する古墳や水鳥や舟の線刻画が描かれた横穴墓である。
これらは古墳時代から奈良時代にかけてのものである。

「長幡部神社」は長幡部族が信仰した神を祀った神社であろうが、今のこの地に神社が建てられたのがいつかは分からない。
神社の名前は平安時代に編集された「延喜式」に登場するので、平安時代には存在していたのは確実であるが、おそらくそれ以前には既にあったであろう。
「延喜式」には織物に係る神社としてこの付近に静神社、白羽神社が記載される。
3つの織物技術集団がいたことになるが、生産する織物の種類が違うようであり、それぞれ独立していたようである。

静神社に係る倭文(しどり)は帯に用いられた麻布だった。白羽は白布を指し、麻で織った衣服が産物であったようである。
長幡部の名前は律令制の崩壊により中世には失われ、「駒形神社」とか「駒形明神」に、さらに「鹿島明神」と言われていたと言う。
中世は既に織物も行われていなかったかもしれない。
この間に社地が変わった可能性もある。
江戸時代中頃、旧名に復したという。(字名の「明神森」はその名残である。)

長幡部神社と幡館
神社のある場所は中世の幡館の外郭部に位置し、幡館が廃館になった後、移転してきた可能性もある。
その場合、戦国末期か、江戸時代の始めにこの地に置かれたことになる。
城館の跡地に寺社が移転して来る例は数多くあるのでその可能性は十分にあろう。

しかし、廃館後に置かれたとすれば、普通は主郭であった場所に神社を置くケースが多いが、実際は神社本殿は幡館の主郭部の外側に位置している。
両者は隣接はしているが必ずしも城館の跡地、同じ場所とは言えない。
両者は並列して存在していた可能性もある。
しかも、神社の場所の方が幡館の主郭部より若干高い場所である。
神社側から館内が良く見えるのである。
位置的にも地位的にも神社が上位のように感じる。また、中世の名である「駒形神社」は馬を祀った神社であり、軍事的な性格もあり、多くの武家が崇拝している。
館の近くに神社が立地している場合も多く、両者が隣り合っていても不思議ではない。

果たして、幡館廃館後、長幡部神社が置かれたのか?
あるいはそれ以前に移ってきており両者が並存していたのか?
あるいは始めからこの地にあったのか?

幡館の館主、幡氏とは?
幡館の館主、幡氏は小野崎氏の流れを組む一族と言われ、幡館、幡氏とも佐竹氏家臣団の佐都東西郡奉公衆として史料に登場するが、途中から幡氏の消息は分からなくなる。
幡氏の末裔、分流も分からない。
果たして幡氏は本当に小野崎氏の一族であろうか?

その小野崎氏にも疑問が多い。
一応、藤原秀郷の流れとは言うが・・・。
冒頭にも書いたように、常陸風土記では長幡部族は海路、美濃より機織りの技術を携えてこの地に来たといわれる。
その証拠の1つが、幡横穴墓に描かれる船の絵であろう。
同様に海路、この地に来た部族として金砂神社を祀った部族がいる。
船を建造する材木を求めて山地に入ったといわれる。
その部族が由来を忘れないために行う神事が「金砂大祭礼」という。
この他にも海路渡来した伝承を持つ部族やそれらの部族が築いたという古墳(真崎古墳群等)も多い。
これらの渡来部族がこの地の律令体制を支えたという。
しかし、中世になるとこれらの部族は史料や伝承からも消えて、いつの間にか小野崎氏が登場する。
律令の民と交代があったことになる。しかし、もし、支配者交代で抗争があったら何等かの形で伝承が残るはずである。
それは確認できない。交代は平和理に行われている。

律令制以前から存在していた縄文時代の原始宗教が基という薩都神社は律令の民に引き継がれ、戦国時代は小野崎氏が祀る神社になっている。
そればかりか現在も小野崎氏系の一族末裔が神主を勤めている。
これらを総合すると薩都神社に係っていた律令の民の末裔が小野崎氏ではなかったかという想定ができる。
同様に長幡部族もいつの間にか名前が消える。末裔が幡氏である可能性も想定されよう。

なお、佐竹家臣の佐竹一族今宮氏や小野崎氏一族赤須氏などは武家でもあるが、神主も兼ねていたことから、幡氏も武家でありながら神主も兼ねていた可能性もある。
その場合、幡館と神社が並行して存在していたことも否定できないのではないだろうか。

幡氏はどこに住んでいたか?
幡館跡は「蔵屋敷」とも呼ばれている。
館跡地からはカワラケ等の中世遺物が確認できない。
(神社境内も含め、縄文土器や弥生土器は若干確認できる。)
生活の場としての痕跡が弱いのである。

幡館は幡氏が居住していた居館ではなかったように思える。
伝承の通り、「蔵」が置かれた場所に過ぎないのかもしれない。
この地は木がなければ南の久慈川方面の展望が良く、緊急時の常陸太田城の東の物見の役目、避難場所でもあったと思われる。
(茂宮川を挟んで東の台地南端の縁に立地する岡田館、小目館も同じ役目があったと思われる。
ただし、両館は居住も目的としている。)
幡氏の居館は東下の森東地区にあった可能性もある。森東地区に「ミサフ作」という字の場所がある。
「作」は「柵」であろうか。ここは東を流れる茂宮川の河岸段丘上であり、居住性は良好である。
生活する上での本業であった水田も目の前であり、この付近に居館があった可能性もある。
南下に下る道もあり、南下に居館があったのかもしれない。

長幡部神社はどこにあったのか?
現在の場所に長幡部神社が建ったのがいつかは分からない。
遅くとも江戸時代の始めには今の場所にあったと思われる。

果たして長幡部神社が始めにあった場所はどこだろうか?
社伝にかつて神社があったという場所がある。
現在地から北7町(約770m)がその場所といい「元宮」という。
現在の市営幡団地の高層住宅の南側の畑がその場所(36.5421、140.5407)である。

丘から下る道の途中から見た「元宮」の地。
高層の建物は市営幡団地。
この付近が「元宮」。ただの畑に過ぎないが・・・

かつては祀りの時、神楽をここに置いたという。(現在は廃れて行われていない。)
その場所であるが、ここは幡台地(台地上の標高は50m)の西斜面の裾野部、丘下で標高は16mである。
西を流れる里川の標高は10mであるので河岸段丘上ともいえる。
神社があったような痕跡は全くない。
この場所は幡台下遺跡として奈良、平安時代の集落跡であり、土師器片も出土すると言うが・・・。
本当にここなのか?
と常陸太田市史も神社を置くには低地すぎると疑問を呈し、三野(美濃)にいた時は引津根の丘にいた、というのでこちらに来てもやはり丘、すなわち丘の上に神社があったのではないかと推測している。

元宮の字名は「下台」神社や集落を連想させる地名ではない。
なお、この北側の字名が「瓦屋敷」という。土器が多く出土する集落跡を示唆していると思われる。
大きな屋敷が存在していたのであろうか。

長幡部族は機織りの機密を守るため、周囲から見えないようにし、その中で機を織っていたという。
それなりの規模を持つ建物ではなかったかと思われる。
いずれにせよ丘下の集落は里川沿いの条里制の水田耕作に係っていたことは確実であろう。
また、「調」用以外の自家用や販売用の「長幡」以外の麻製の布も織っていたことも当然ありえることであり、里川の清流で織った布を曝したとすれば、川に近いこの場所で機織りが行われたことは十分に合理性がある。
幡台下遺跡から紡錘車が多く出土していれば、そこで機織りが行われていたことが間接的に証明できるが事実関係は分からない。
ただし、丘上からは事実として紡錘車は何点か出土している。
このため、規模は分からないが丘上でも機織が行われていたことは事実である。

↓丘上、幡台遺跡から出土した長幡部族が住んだ頃の古墳、奈良、平安時代にかけての遺物

紡錘車。丘上でも機織が行われていた物証。 土師器、長幡部族が使ったもの? 須恵器

元宮の地、丘からは見下ろす場所にあり、そのような場所に神社があるのは違和感がある。
山や丘が付近にある場合、神社は山や丘の上か中腹に置かれる。
多くの場合は居住地より少し高い場所に置かれる。
険しい山ではない限り、山や丘の裾には置かないような気がする。

当初の神社は丘上のどこかにあったと思うのだが。
丘上は幡台遺跡であり、丘上はかなり平坦で広い場所もある。
土師器片も多く出土し、こちらにも集落は存在おり、規模も大きいようだった。
この丘のどこかに長幡部神社があった可能性があるが、場所は特定できない。
もしかしたら今の場所に始めからあった可能性もある。

現在の長幡部神社の様子
周囲を檜や広葉樹の巨木に囲まれた中に社殿が建つがそれほど大きなものではなく、どこにでもあるような社殿である。
社殿の裏には羽黒神社、稲荷神社、足尾神社、愛宕神社、阿天利神社、松尾神社、熊野神社、浅間神社、鷺森神社、雷神社、天満社、七福神の小さい祠がある。
この館の関係でもっとも特徴的なものは社殿の西に200mにある南下から登る長幡部神社の参道である。

南下から登る参道は岩を削った切通しの道。 不思議な風景である。どういう意味があるのか?

この参道は柔らかい凝灰岩を削って造った切通であり、深さは3mほどもあり、鎌倉の切通と良く似た景観である。
この道は蛇行しながら50mほど続く。
この切通の道がいつごろ造られたか不明であるが、幡館の大手道のようにも思えるが。
(常陸太田市史を参考にした。)

埼玉県児玉郡上里町大字長浜字長幡の長幡部神社
もう1つの長幡部神社は関越自動車道上里SAの南南西1qの神流川の東約500mの完全な平地にあり、周囲は水田地帯の中に民家が点在する典型的な農村地帯にある。
ここは一応埼玉県ではあるが、神流川の対岸は群馬県藤岡市である。
この神社に行こうとしたが苦戦。だいたい、神社と言えば、大木があり森になっているというイメージがある。
その森が目印になるが、そんなものは見当たらない。
しかも道路がくにゃくにゃ曲がりくねり、狭い。
典型的な水田地帯の道路である。
かなり迷ったが、神社の社殿らしいものがちらりと見え、「あそこか?」と近づいたら「正解!」。しかし、予想外に小さい!
どこにでもあるような田舎の神社であった。
神社境内に立つ大木はあった。
でも神社の森は杉とか檜等の常緑樹の場合が多いが、ここの境内の木は広葉樹、訪れたのが晩秋だったので葉は全て落葉し剥げた状態だったのである。

神社の解説には以下の内容が書かれていた。(現代語に訳し、一部追加)
「古代賀美(かみ)郡内にある4つの延喜式に記載される神社、4社ともこの地に進出してきた氏族が奉斎した神社であり、長幡部は機織りの技術を持った集団が祀った神社。
鎮座地は神流川の南岸字「宮の西的場」に鎮座し、本郡の総社及び本村の氏神であったが、天永元年(1110)、洪水のため流失し、今の地に移った。
と、「神社明細帳」に記される。
古代長幡部氏のその後の動向は明らかでないが、戦国時代、神流川の戦いで社殿や古文書等の記録も焼失したという。
江戸幕府が編集した「新編武蔵風土記稿」には「長幡五所宮 村の鎮守、延喜式神名帳明に加美郡長幡部神社と載っているものがここ、今は大変に小さい神社であるが、古社と思われ、長幡郷中に鎮座し、名も広く知られているので、式社であろう。」
(現代訳)と書かれる。
江戸時代は千寿院が管理していたが、明治の神仏分離で独立、明治5年、長幡五所宮から長幡部神社に社名を戻した。」
←拝殿であるが・・・。
この経緯を見ると常陸太田の長幡部神社と性格は同じであり、ルーツは同じと思われる。
美濃から別のルートに分かれて東国に来たのではないかと思われる。
(常陸太田の長幡部族の分流がここに来たのか?
またはその逆か?という場合もありえるが、分流説なら常陸風土記等にも記述が残るようにも思えるが、そのような記述は見受けられないので否定されるだろう。)

両神社とも神社名が平安時代の「延喜式」に載っているので、平安時代は両社は並立して存在し、その付近で機織りが行われていたのも間違いない。
この付近の遺跡からも紡錘車が多く出土するという。
残念ながら記録類が戦火で焼失しており、物証以外の裏付けがない。

律令制下で繁栄した神社であるが、律令制の崩壊で廃れ、名前も失ってしまい、別の名前となり、旧名に復したのも同じ流れである。
西に位置する「長幡小学校」に名が残るように知名度は高いのであろう。

中世、近世は廃れていたが復活できたのはラッキーな方であろう。
おそらく長幡部族はもっと多くのルートで全国に散り、各所に長幡部神社があったようである。
「新撰姓氏録」には「・・大和国宇太郡佐多村主、長幡部視也」という記述があるので、大和にも長幡部族がいたらしい。
他にもいたものと思われる。もちろん、出身地の美濃にもいた。
しかし、それらのほとんどは名前も失われてしまって別の名前になっていたたり、既に廃社となって存在もしなくなってると思われる。
2つの神社だけが、紆余曲折がありながら長幡部神社の名前が伝わっていたのは延喜式に名前があり、それ以後の神社の流れが比較的明確だったということのもあろうが、奇遇でもあり、幸運であったと言えるだろう。