古徳城(那珂市静)

 白鳥の飛来地で有名な古徳沼のすぐ北側の山が城址である。
右の写真は古徳沼の東から見た城址のある山の先端部である。

 山の標高は90m弱。比高は40m程度である。山は尾根状に西側から続いており、尾根の先端部近くがくびれており、そのくびれ部から先を城としている。
 東西250m程度、南北最大100m程度が城域であろうと思われる。
 池の北東側に白鳥を観察する場所があり、冬場はいつもカメラを持った人が大勢いる。
 この脇から城址に上がる急坂があるが、反対方向の山に大勢の人がいる前を登って行くには気が引ける。
 このため、少し西に歩き、城のある山に突入する。突入したのは良いが、やぶがすごい。
 少し登ると幅10m位の帯曲輪があり、さらに5mほど上にも幅10m位の帯曲輪が、その北側には南側に土塁を持つ幅5mほどの横堀と土橋があった。
 登ったのはどうも二郭の南側であったようである。
 そのまま、二郭への突入を試みるが、余りの笹竹のすさまじさに断念。
一度、帯曲輪に下り、西に移動する。
しばらく行くと、本郭西側の横堀に出る。
 外側の土塁を持つ結構迫力がある幅10mほどの堀であり、山の上からカーブしながら斜面を下って来る堀の姿は感動ものである。
 この堀は下の腰曲輪に合流する。この堀の東側の郭が本郭と推定される。
 この堀は本郭の西側を防御するためのものである。
 この西側にも曲輪があり、堀切があるらしいがそこまでは行かなかった。
 本郭は40m四方程度のやや五角形に近い方形の郭であり、北側を除く3方を土塁が巡る。
 南側部分が窪んでおり、西側と東側に虎口が開く。
 南側の土塁に立つと本郭の南下に横堀が2本、東に走る。
 この主郭南側の横堀であるが、部分的には三重になっているところもあり、堀は所々土橋で分断されている。
 まるで横長の畝堀の連続と言った感じである。この堀は二郭を包むようにカーブする。
 二郭との間にも幅5mの堀がある。
 本郭の北側には土塁はないが、切岸が鋭く、8m下に前面に土塁を持つ幅8mほどの帯曲輪がある。
 この曲輪の西側は本郭西側の堀が回りこんだものである。この帯曲輪はそのまま東に直線状に下りながら続く。所々に土橋がある。
 二郭は一面の笹竹である。大きさは30m四方位と思われる。
 昔は畑であったと思われる。古墳のようなものがあるが見張り台にしては小さすぎる。
 東側は幅3mほどの堀が2本、二重堀になっているが、堀底まで笹竹がびっしり生えており、写真を撮ったがさっぱり分からない。
 

 二郭は東側以外には土塁はない。その東が三郭である。ここもかつては畑であったと思われる。途中に土塁がある。
 その東は別の曲輪と捉えるべきかもしれない。
 東端部は鋭い切岸のようになっており、その下に腰曲輪がある。
 ここから古徳沼に下りられる。この道が大手道だったのであろう。

本郭西側の堀はカーブを描きながら下り、
南と北側の帯曲輪に合流する。
本郭南側の横堀と土塁。 本郭内の土塁。
本郭と二郭間の堀の北側帯曲輪での合
流。
本郭北下の帯曲輪。北側に土塁を持つ。 二郭と三郭間の土塁と堀。

結構立派な城であるが、城の歴史は不明な点が多い。
 『古徳永正記』では、「古徳城ハ民部大夫義純築キ以来代々居住シテ丁字城卜号ス、先ツ東方ハ峨々タル瞼岨真急ニ柵ヲ結ヒ下ハ湖水抄々トメ湛へ南ハ深田廣大ニテ足入深ク、
西ハ大手ニテ二重堀ヲ穿テ堤ヲ築キ、本城二二段ニテ角々櫓ヲ構ヒ、北ハ土手ニテ入口三重坂曲り、堀切有テ、大木柊松繁ル木々ノ間々ニ三重堀白々トメ遠目ニハ白雲の如シ誠二要害堅固之名城也」
と記されている。

永和元年(1375)常陸大掾4良幹の子、民郡大輔義純が築城して、古徳氏を名乗ったのが始まりという。
 応永33年(1426)大掾氏の勢力が交替した後、水戸城の江戸氏に下り、永正11年(1514)10月、江戸氏の内紛に巻きこまれて滅亡したという。
 この時、廃城になったという。

しかし、この記録は江戸時代後期の軍記本でかなりフィクションが含まれているという。
 一方、佐竹義昭家臣に古徳致正の名が見られ佐竹氏家臣となっている。
 江戸氏に従っていて滅びた一族もいたのかもしれないが、今残る姿を見ると江戸氏の家臣クラスの城の規模をはるかに上回るものである。
 近隣の佐竹の重臣クラスの居城である宇留野城や前小屋城と比べても見劣りしない。
 古徳氏の力でこれだけの城を整備できるとは思えない。
 西側の大横堀、南斜面の二重、三重の横堀、北側の土塁を持つ長大な帯曲輪これらは戦国末期の姿のように思える。

 これだけの工事が指揮できる者とすれば佐竹氏以外には考えられない。
 廃城した城を佐竹氏が再度取り立て今残る姿に改修したか、古徳氏の館を拡張したのが事実ではないだろうか。

 ここから東、常陸太田城までには久米城、馬坂城以外防衛拠点となる城はない。
(西には石塚城、小場城、北には大宮の3城がある。)
 この空白を埋めるため、これだけの規模の城に整備したというのが本当のことではなかったのだろうか。

 瓜連城とペアで改修した可能性もある。
 築城当時の城がどの部分かは良く分からないが、おそらく本郭周辺ではなかったかと思う。
 多くの城の場合、拡張しても本郭の位置は変えない例が多い。

 この城の本郭が高さと周囲を土塁で囲むことから一番西の郭であるのは間違いないと思う。
 初期においては、東側には余り防御施設はなかったであろう。
 戦国後期にこの東の尾根に郭が増築されたのであろう。

 南側斜面の横堀群は見ごたえがあるが、この付近の城郭にはこのような遺構を持った城の例はない。
 南斜面をこれだけ多重に防御するということは、この方面に防御上の弱点があったようである。

 南は現在、人工の古徳沼があるが、当時は谷津であったようであり、湿地ではなかったかと思う。
 このため、結構、心配する必要は感じられないのだが。
これに対して北側は傾斜がきついので帯曲輪が1つだけである。
 尾根に続く西側からの攻撃が一番想定されやすいが、なぜかこの方面はそれほどの防御施設はない。

白鳥の飛来地として古徳沼の存在は有名であるが、残念ながら遺構もほぼ完存状態であるが古徳城の存在は、ほとんど知られていない。
 結構、見所はあるとは思うが、この藪では・・。
 もっとも整備したとしても石垣もない土だけの中世の城ではよほどの物好き以外は訪れる者はいないであろう。
 多くの城が開発で失われているので、遺構が完全に残っているだけでよしとすべきかもしれない。

城菩提城(那珂市静)
 古徳城の北東1qに常陸風土記にも登場する静神社がある。
 ここから北に700m、2つ北側の山、「城菩提山」にある城である。
 この城も西側から東に延びる尾根の先端部付近に築かれている。古徳城の知名度は低いが、この城はさらに知名度は低い。
 全く無名といって良いだろう。山の名前が変わっているが、城があるから付けられた名前であろう。 

城の標高は90m、比高は45mくらいである。
 南側から東側にかけて谷津があり、北西方面は城のある場所よりも若干高い。
 城に行く道が問題であるが、北東側の畑の中に山に入って行けそうな道があったので行ってみる。

 道は城がある尾根の北側の谷に続き、沢を越えて直攀する。
山の斜面はそれほどきつくはない。
 山頂近くまで登ると幅7mほどの帯曲輪に出る。
帯曲輪はぐるっと回りこんでいるが、やぶが酷く全面の確認はできない。
 帯曲輪の西側に高さ3mの切岸がある。
土塁はない。
内部はやはりやぶ。かなりひどい。
 この中を強引に進む。進めど進めど何もない。
途中に段差はあるものの東に向かって若干傾斜しているだけである。
ともかく広い。このまま何もないのではないかと思い少し北よりに行ってみる。
 平坦地の外れの部分が若干窪んでおり、堀状になり、土塁のような盛り上がりがある。

 この土塁の上に立ち、北側を覗きこんでみる。
 5mほどの切岸の下になんと横堀がある。
 北側に土塁を持ち、西側からS字を描いて山を下っている。
 息を呑む光景である。

 さらに塁壁上を西に進んでみる。
 すると前面に高さ2.5mほどの土塁が見え、虎口が西側に開いている。
 虎口を出ると堀が南北に下っている。
 土塁は堅土塁となって堀と平行して斜面を下っている。
 北側は12m先で北側を東に下る横堀に合流する。
 南側は40m堀が続き、南端で腰曲輪に合流する。
 この腰曲輪は東に続いており、始め登った場所につながるようである。

 虎口の西は登りになるが城郭遺構はない。
 今度は北側の横堀を東にたどる。
 横堀はS字状に小さくカーブしながら100m続き、南の郭から延びた堅土塁で途切れ、その先は帯曲輪に続いて行く。
 横堀の北側は谷である。
 結局、この帯曲輪は郭を堀を交えながら1周していることになる。 
南東山麓から見た城址。
比較的ずんぐりした山である。
主郭北側の横堀。 主郭北側の土塁(左)と浅い堀。 西側の横堀。

この城は単郭であり。測量してみると一部不明なところはあるが、推定で東西140m、南北最大70mほどである。
 造りがしっかりしている所もあるが、ほとんどは遺構が不明瞭である。
 城らしい遺構は西側の堀と土塁と北側の横堀のみである。

 この城の歴史は全く記録にない。北側に北城という地名があるが、この城由来の地名と思われる。
 2qほど西に小場城がある。(ここには西城という地名がある)位置関係から、この城は小場城の出城であったのかもしれない。
 しかし、極めて曖昧な城であり、つくりがはっきりしないので未完成の城なのかもしれない。
 さらには広さからして領民の避難用の城ではないかとの推定も成り立つ。

 南側は急斜面であり、南から東にかけては谷であったので、この方面に特段の防御施設は必要ないと思われる。
 城が攻撃されるとしたら西側の山からの尾根伝いあるいは北側からの谷伝いであろう。
 この方面には堀、土塁、横堀と攻撃を想定した防御施設は一応備えている。
 これは非常に合理的である。ただし、西側のより高い場所に物見台くらいはあっても良いと思うが。