石神城(東海村石神)

1 位置と歴史
 北と東に久慈川(当時の久慈川は本城の北から東にかけて蛇行して流れていた。)を望む那珂台地の縁辺部につくられた連郭式の平山城。
 南と北に侵食谷が入り組んでいる舌状台地の先端部に堀を打ち、土塁を盛り上げている。
 海抜は20m程度で主郭部のある場所は周囲の水田よりは17mほど高く、東側を久慈川が蛇行して流れていた形跡が歴然と残り、三方が自然の要害に囲まれている。

 石神城が築かれたのは南北朝期の建武2年(1335)藤原秀郷の流れを組む小野崎通房によってとされる。
 一方、亙理新右衛門が築き小野崎氏が攻略したという説もある。
 石神小野崎氏は佐竹氏と深い関係を結び、延徳元年(1489)の奥羽勢の常陸侵入時には、小野崎通綱が佐竹義治の身代わりに討ち死にし、その功により子の通老に石神350貫、河合350貫の加増を受けて、久慈川の水運支配権を与えられたようである。

 その直後の山入の乱では佐竹宗家の領土である白方を押領しているが、山入を積極的に支持はせず、乱終息後には返還している。
 古河公方の内部抗争で佐竹氏と対立するが、佐竹義昭の時代になると佐竹氏に従属し、以後、この関係は佐竹氏の秋田移封まで変わらなかった。
 この間、石神小野崎氏は永禄6年(1563)の那須氏との戦いや天文5年(1577)の北条氏との戦い、天文18年(1590)の大掾氏の府中城攻撃等に佐竹氏に従って出陣している。
 しかし、石神小野崎氏も同時代の当地方の領主階級同様、佐竹氏との臣従関係はそれほど強いものではなかった。
 佐竹氏を盟主とは仰いでいるが独立性が強く、似た立場の額田小野崎氏とは同族にも係わらず、久慈川の鮭漁権や領土境界を巡ってしばしば対立し、時には戦闘を交えたこともあったようであり、佐竹氏の仲裁等を得ていた。

 この史実が江戸時代に「石神後鑑記」というフィクションを生む下地になる。
 この小説では石神小野崎氏は額田小野崎氏に敗れ滅亡することになっているがこれはまったくのフィクションである。
 太閤検地による石神小野崎氏の領土は900石であり、(これは小野崎氏のみの実収入分と思われる。石神城の規模は900石の武士の城ではない。
重臣、配下の領土を合わせると一万石は下らないと考えられる。)北条氏との戦いで出陣した兵力は360という記録があり、佐竹軍の有力な1部隊を構成していた。
 佐竹氏の秋田移封に石神小野崎氏も同行し、城は260、70年の歴史に終止符を打ち、廃城となった。


2 城の構造
 石神城は3つの主郭がほぼ完全な形で残っており、内部の手入れも公園として整備され行き届いている。
 さすが財政豊かな東海村である。
土塁、堀とも非常に見事であり、その規模は県北地区においては額田城と並ぶと思われる。

現在、城址公園として整備中であるが、おしいことに城までのアクセスが大変であり、地理に明るくない場合は中々行き着けないと思われる。

 3つの主郭は鼓型をしており、北東から南西にかけて256.8m、北西から南東にかけて最大204m、最小48mを図る。
 東端には遠見城と呼ばれる北東から南西にかけて30m、北西から南東にかけて95mという本郭が存在し、二郭側は堀底から6m程度、幅15mの見事な薬研堀が掘られている。

 東側には土塁はないが下は久慈川が流れていた急斜面であり、崩落したものと思われる。
 郭の周囲は東側を除き高さ2m程度の土塁が巡らされる。
 本郭は篭城時の最後の抵抗線の役目を持つものと思われる。

 同様の形式は宇留野城の御城(本郭)にも見られる。本郭は居住エリヤではなく倉庫等が置かれていたものと思われる。
 二郭との連絡は木橋がかけられていたようであり、二郭側の土塁に一部切れ目が見られる。二郭側の土塁は高く二郭全体を見通せる。
 二郭は北東から南西にかけて125m、北西から南東にかけて100mという大きさである。ちょうど野球場のフィールドの大きさに等しい。
 本郭側以外は土塁が取り巻いている。
この場所が城の本丸に当たる場所であったと考えられ、城主の生活の場であり、食料、武器庫があった。発掘によれば半地下構造の建物があったとのことである。

 その西の三郭は北東から南西にかけて90m、北西から南東にかけて148mあり、二郭とほぼ同じ位の広さを有している。
 近世城郭でいう二の丸に相当し、領内を統治する政庁があったと思われる。
 土塁は西方面のみにあり、北西端の土塁は広く大きく櫓台と考えられる。二郭との間は土橋で結ばれ、二郭側には門があったと思われる。

西側との連絡は一度掘底におり、堀底をしばらく進んでから上がるというクランク状になっていたと考えられる。
これは堀底での敵の滞在時間を長くし攻撃を有利にしようとするためである。
この構造は前小屋城でも見られる。

 以上は主郭の構造であるが本城の特徴として、この3つの主郭の東側を除いた周囲を堀とその外側に大土塁が包むように取り囲んでいることである。
この構造は額田城にも見られる。残念ながら南側と西側の一部は失われているが、特に北側の土塁は見事である。

 一部が開口した形となっており、この部分に門があり、堀底を通って城内に入ったものと思われる。
 二郭に土塁が切れた部分が北と南に2箇所あるが、ここから外郭の大土塁上への木橋がかかっていたのかもしれない。

 東側は何もないが、久慈川が自然の水堀になっていたはずである。
城の南側に池があったと言われ、今でも湿地帯である。

前小屋城、宇留野城、小場城で見られる帯曲輪は見られない。
三郭の堀は箱型薬研堀であり堀底は通路でもあったようである。

 ここまでが石神城かというと城域はさらに西方向、北方向に広がり、三郭の最西端から南西に500mの場所、石神コミニュティセンター前の道に沿って土塁が存在する。
 この土塁はかつては数百メートル続いていたと言われる。
 
その前には堀が存在していたといわれている。
(現在の石神コミニュティセンター前の道路)
本城を攻撃する場合は平坦な南西方面からが妥当であり、この弱点も考慮して三郭の西側には土塁と堀を設けて防備を強化し、そこには家臣の屋敷を配置し、非常時には領民を避難させるエリアとし、いわゆる総構え構造をとっていた。

現在の字名にも堀の内等の城域を示す名が残っている。

この部分まで考慮すると城域は北東から南西にかけて800mという巨大なものとなるが、額田城もそれ以上の総構えを持っており、この規模は驚くには当たらない。
三郭の最西端から石神コミニュティセンター前までの間は宅地化されているが、石神コミニュティセンターから石神小学校に向う道路が堀跡であり、一部、土塁が残存している。
また、主郭部から低地を隔てて南の長松院は本城の出城であり、長松院南東に土塁と堀が一部残る。
本郭西側の土塁 本郭南側の土塁 本郭の二郭側への木橋跡の土塁の切れ目
本郭(右)と二郭間の堀。本郭側には土塁があり
二郭側より3mほど高い。
本郭(右)と二郭間の堀底。 本郭(右)北側の堀
二郭(向側)と三郭間の土橋。二郭側に
は土塁があり、かつては門があったと思
われる。
二郭内部。本郭側以外は土塁に囲まれ
る。
二郭北側の土塁。
土橋上から二郭(右)と三郭間の堀を見る。 二郭の土塁上から堀越しに外郭大土塁を見る。 三郭内。二郭内同様非常に広い。
三郭(右)と外郭の大土塁間の堀 三郭(左)と大土塁間の堀 大土塁間の切れ目。正面は三郭。
城北側の大土塁 外郭部観音寺跡、ここにも土塁があったと
言われる。
石神コミニュティセンターから石神小学校に向う
道路沿いの民家内に残る土塁。
長松院側の台地に残る土塁。 石神コミニュティセンターから石神小学校に向う
道路沿いの民家に残る土塁。
三郭北より低地越しに北側の四郭を見る。

白方館(東海村白方)

白方館は、石神城の東1q、県道284号線が台地から久慈川の沖積地に降りる坂の東側の台地縁部にある。

「豊受皇大神宮」のある場所が館跡に当る。
この場所の比高は15mほどであり、北側と東側の傾斜はきつい。

すぐ東下には白方公園があり、白方溜という溜池がある。
この池は谷津の末端にあり、今でも自然に水が湧いて、満々に水を湛えている。
水がきれいなため、夏には蛍が舞い、イトヨなどの希少な魚も生息している貴重な自然を残している。

館跡の神社境内は40m四方程度の広さであり、台地に続く南側から西側にかけて高さ3mほどの土塁が築かれる。
おそらくその南側には堀があったのではないかと思う。
北側、東側は崖面であり、土塁は見られない。

西側は県道281号線の切通であるが、ここは堀底を改変したものかもしれない。
現在確認される遺構は神社周辺のみであるが、もっと南側まで城域が広がっていた可能性もあるが、遺構の痕跡は確認できない。

築館は平安末期、吉田氏系の白方氏と言われる。
近年までは館の北側の低地は久慈川が蛇行して流れ、白方溜の水を引いて水田開発が行われていたという。
白方氏は白方溜の水利権を管理することでこの地を支配していたといわれる。
南北朝期以降、吉田氏の勢力がこの地方から駆逐されるに伴い白方氏もいつしか歴史から姿を消している。

場所的に久慈川の水運を監視できる場所でもあるため、戦国期には石神城の出城、見張りの機能を持って存続していたのではないかと思われる。
左は東側、白方溜から見た館跡である。
館跡主郭にあたる神社境内 社殿西側に残る土塁。 館跡(林)の西側の堀?跡には県道が通る。