福田城佐久穂町大字上字本郷)

JR小海線羽黒下駅から県道437号線で西に2q、北を新田川、南を北沢川に挟まれた細長い本郷地区の丘陵一帯が城であるが、どこまでが城なのか判断に苦しむ。

西側の車道となっている切通しが西端の堀切Hを利用したものらしい。
そこから岡先端部までは
800mほどもある。
最高箇所の標高が
840m、明光寺付近が800mの標高、南側の集落の標高が770mほどである。

西側の切通しHに車を置いて突入するが、石の社がある平場Gが2つほどあるだけで、ほとんどただの山。
しかし
150mほど東が段々になり、幅8mほどの堀切Fがあった。堀底は埋まっている。

その東に曲輪が1つ、ここまではド藪である。
そこを抜けると「城ヶ峰」と呼ばれる本郭Eである。
TVの共同受信アンテナが立ち、ブロックで囲まれた小さな石の社が3つあるだけの寂しい場所である。
南側に倒壊しかけた鳥居があり、南側の集落から登って来れるようである。
北側から見た先端部A、B付近。左が明光寺、右が農村広場 北側から見た主郭部D、Eの部分、右にFの堀切が見える。
本郭の東端に小さな平場Dがあり、そこから下の農村広場まで一気に30mほどの下りCとなる。

農村広場や明光寺Bの付近も城域であり、通路は堀切Aを利用したものという。
しかし、この付近は畑などになり、改変が著しい。

明光寺の地は居館だったかもしれない。
さらに東にも堀切@が存在したが、かなり埋められていた。
その先の白山神社も城の一部とは思うが、この付近は畑や果樹園でよく分からない。
福田美作守の城という伝承があり、そのため「福田城」と言われる。

航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。
@明光寺東の堀切はかなり埋められている。 A明光寺と農村広場間の通路に使われる堀切跡 B城址解説板付近から見た農村広場(左)と明光寺。
C農村広場から見た西の主郭部 D本郭東端部の曲輪 E本郭は寂びれ、草だらけ。
F本郭西の堀切 G西端の平場にある石社、ここは城域か? H岡の西にある切通しは堀切跡。

大涯城(佐久穂町海瀬)
大影城とも言う。
ここも義仲伝説に関わる城である。

城主は矢田判官義清。彼は足利義保の子であり、上野国多胡郡矢田郷に住み矢田氏を名乗り、義賢が殺された時、義仲を連れここまで逃れ、一時かくまったという伝承が残る。
「平家物語」では矢田義清は義仲軍の中核として活躍し、水島の合戦において戦死したことになっている。

城は抜井川に面する南側の崖上にあり、川からの比高は20mほどである。
下の写真は北下、抜井川沿い国道299号線からみた城址である。
城には少し西側の道路を進むと解説板があり、そこを北にある鉄塔の方向に行く。
すると土塁間に虎口が開く。その部分は二重土塁になっていたようである。

その内部、鉄塔が建つ場所が主郭であるが、北側、抜井川に面した部分は川の浸食で崩落しているという。

東西に堀があったというが、段差があるだけで堀は確認できない。
城の主郭がある部分は南側から傾斜した台地の末端であり、外郭の方が高い位置にある。
外郭と推定される場所は畑となっており、遺構は見られない。
@主郭入口の土塁。 A曲輪内は北に傾斜している。 B主郭東側には堀があるはずだが・・湮滅?

航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。

海瀬城(佐久穂町海瀬)
現在の町立図書館の地が城址という。
抜井川が千曲川へ合流する海瀬地区、南側の抜井川を望む比高35m台地上にあったとされる。
西側の花岡に向かう道路が通る谷と図書館東の谷が天然の堀であり、花岡方面に続く台地の南側に堀が存在していたと思われる。

しかし、図書館等の施設となって明確な遺構は確認できない。
抜井川に面した部分に物見のような下右のような場所があるかが、遺構かどうか判断できない。
城の例歴は一切不明である。場所的には大井氏系の城館と思われる。
付近に「杭の内」「腰牧」などの地名が残る。
航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。

北側抜井川対岸国道299号線から見た城址。


勝見城(佐久穂町海瀬)
海瀬城前から国道299号を東に2q。ここで十石峠方面と余地峠方面への道が分岐する。
その合流点付近にある標高990m、比高190mの山が城址である。余地城、依路城ともいう。
昭文社の地図には城址名が記載され、当然、現地にも案内板や登城路が整備されていると思いきや、そんなものはない。
とんでもない岩山が聳え立っているだけである。
この山のちょうど南側、抜井川の対岸が盾六郎館跡である。登り道は南側ではなく、北側とのこと。
南側に比べて緩やかである。

そこでアプローチを試みたが、「先日、熊が目撃されたよ。気をつけてね。」
の一言で一気に気持ちが萎え、攻城は「やめた!」

伴野氏系の友野左近中将忠常が築城
花岡城から移り、忠常の子・右近進は、天文九年(1540)武田氏に従い、武田勝頼の代に戦死したという。
上州方面への街道筋であり、街道を抑える城という。
南側の岩盤上を主郭とし、北側に階段状に曲輪を展開する構造の城という。

航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。


中居城(佐久穂町大日向)

佐久穂町中心部から国道299号線を群馬県上野村方面に4qほど走行すると佐久東小学校がある。
中居城は小学校前から抜井川北岸の旧道を1kmほど佐久穂町中心部方面に戻る。
すると大日向諏訪神社がある。
中居城はこの神社の北側の川からの比高20mほどの標高780〜810mにかけての段丘上にあった。
しかし、その岡に上がると・・・そこは水田が広がっているだけである。
平地としてはかなり広く水田の区画は北に向かい段々となり、石垣で区画されている。
方形館であったというが、土塁も堀の痕跡らしいものもない。
耕地化や耕地整理が行われ失われたのであろうか。
城と言っても形式は館であり、城主は武田氏家臣の小幡尾張守という。
信玄の命を受け、都沢の金を採掘するため、ここに居館を構えたと伝えられる。

高野城(佐久穂町高野町)

福田城の東2km、北沢川に面した比高15mほどの細長い岡の東端部にある。
岡の周囲、特に北側は浸食され急崖となっている。
城主等、来歴は不明。地元の土豪、鷹野六助(高野六助)が居住し、後に三枝昌吉が住んだともいう。
なお、三枝昌吉は、武田氏滅亡後、徳川家康に従い、相木城を攻めている。
岡の上は畑、神社であり、段差が遺構らしいが明確な遺構はない。
しかし、付近に「城の後橋」「城前」「城の腰」「城影」など城に関わる地名が残る。
地名から、城館があったのは間違いない。
しかし、この岡、北の山に登れば岡の上が丸見えであり、戦闘用ではない。
ある程度の防護力を有する居館ではなかったかと思う。

航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。

楯六郎館(佐久穂町海瀬)

木曽義仲の家臣、根井行親の子、楯六郎親忠の館跡と伝えられている。
『源平盛衰記』によると親忠は父と共に義仲と行動を共にし、一軍の将として活躍し、京で戦死したという。

この国道299号線沿いは佐久と群馬県上野村をつなぐ街道筋であり、義仲の父、義賢の勢力範囲もここに及び、家臣がこの地にもいたのではないかと思われる。
伝承では義賢が義平に殺された時、幼い義仲をこのルートで木曽まで逃がしたという。
大涯城もそのような伝承を持つ城であり、義仲伝説が多く残る。
今井兼平の館も佐久にある。

彼らはこの地で牧場経営をしていたらしく、それをうかがわせる地名も残り、発掘調査でも馬牧の経営が11世紀初頭には始まっていた証拠品が出土する。
義仲が蜂起するとこの地の旧家臣団も従い、その騎馬軍団を以って、短期間ではあるが日本の中枢を支配する。

その1人、盾六郎の館跡が抜井川南の河岸段丘上にあったと言われる。
川からの比高30mほどの標高820mの抜井川に向かって緩やか傾斜している地であり、かつては放牧地ではなかったかと思われる。
現在、碑が立っているだけである。その場所は耕作地であり、館の痕跡はまったくない。
航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。

北の国道299号線から見た館址