宮平城(御代田町久能)
御代町東部の湯川の流れる久能地区にある。
この付近は湯川が浸食した田切地形が発達し、この付近特有の田切地形を利用した城が集中する。
この城もその1つであり、北を湯川、南を久能沢川が流れ、浅間山の噴火堆積物で形成された台地が浸食され、東から延びた細長い台地の西端部が城となる。
標高は814m、西下の久能集落からの比高は55m、この方面は断崖である。
城のある台地の北下で県道157号と156号が合流する。
西下が久能の集落である。
湯川の対岸の台地上が広戸城である。


↑ 西側から見た城址、トンネルが豊昇隧道、その左の山が宮平城。
なお、トンネルの上の山が久能の物見、右に行くと、梨子沢館、向城がある。

ここには久能の集落から登れないことはないが、道も荒れているようである。
このため、台地続きの東側@からアプローチする。
東側が縄文遺跡の宮平遺跡であり、高原野菜の畑が広がっている。
ここから簡単に行けそうなのだが、そうはいかない。
城址手前に鹿避けの金属製のネットが張られているのである。
北側の崖沿いにネットの切れ目があり、そこから城側にすり抜ける。

@東側の宮平遺跡から見た城址。
林の部分にあたる。そこまでの間には金網が。
A 城址東側の台地と遮断する堀。
明確な遺構はこれだけである。
B城址北側、下まで50mの崖。怖い!

すると2重の土塁に囲まれた堀Aが現れる。幅10m、深さは3m程度に過ぎないがかなり埋没しているようである。長さは45mある。
この堀で台地続きの東側を遮断している。
しかし、ちゃんとした遺構はこの堀だけである。
西側が主郭であるが、この曲輪のみの単郭、曲輪内は雑木林で藪状態である。
結構広く100m×80m程度ある。
長倉猿助という者の居城であり、小田井氏に味方したため台武田氏の侵略を受けて敗北、以後、廃城になったという。

梨子沢館と向城(御代田町梨沢)
この2つの城館はペアとなるものだろう。
湯川に沿って走る県道157号の豊昇隧道の西に南側の山に登る道がある。
この道を登って行くと梨沢集落になる。
まさにここは田切り地形上の平坦地であり、周囲は崖であり、標高は810m、湯川からの比高は55mもある。
南側のみが山地につながる。
不便な場所であるが、逆を言えば要害堅固、この集落自体が城塞集落なのである。

↑は東の向城から見た梨沢集落。高い木のある地が豊昇神社。右の山はこの地方のシンボル浅間山。

この集落自体が梨子沢館である。
城址碑が豊昇神社境内に建つが、この場所が中心部ということでもなさそうであるが、神社の北側、南側の道は堀跡かもしれない。
特段の城郭施設がなくても城郭の機能を発揮できそうな地形である。
登る途中の円通寺も城域であり、豊昇隧道の間の山には久能の物見がある。

豊昇神社境内、ここに城址碑が建つ。 神社南側の下に下りる道は堀跡か?

一方の向城は梨沢集落から東の沢を挟んだ高さ20mほどの断崖の上にある。
ここには豊昇神社の東下の道を南側に大回りしていくことができる。

梨子沢館が攻撃を受けた際、東の向城から攻撃を牽制する目的であろうか。
東の山との間には幅10m程度の堀@、Aがあり、城の南北では竪堀Bとなる。
中央部には土橋Cが存在する。
主郭は40m×50m程度の大きさであり、内部は畑である。南側に20m四方ほどの小さな副郭Dが付属する。
この向城は東側の山からは内部が丸見えである。
西からの攻撃に対しては完璧であるが、この東側から矢を射込まれたらどうにもならないように思うのだが、案の定、東の山には天神山砦が築かれている。

@東側の堀を南側から見る。正面に浅間山。 A東側の堀を北側から見る。 B堀は北側で西の崖下に向かって下る。

C中央部にある土橋、内部は畑である。
←豊昇神社下から見た東の向城、凄い崖上にある。

D主郭、南側の副郭。

この2つの城館は大井一族の城であり、長倉の牧奉行であったというので牧場を経営していたようである。
応仁元年(1467)村上氏に攻められ落城したという。
その後、文明3年(1471)依田氏が入ったという。

馬瀬口城(御代田町馬瀬口)
御代田町西部、小諸の近く馬瀬口地区にある。
国道18号線馬瀬口交差点から県道134号に入り小諸方面に向かって北上、旧道との交差点を過ぎ、繰矢川を渡り、繰谷川の谷に沿い道は西にカーブする。
ここまでの県道134号は凄く良い道路。
しかし、国道18号線馬瀬口交差点から500mほどで途中から道路は狭くなる。

この道路が狭くなる場所に土壇のような目立つ小山がある。この付近の標高は810m程度。

この小山が荻原稲荷神社Aであり、ここは小山でもなく、道路建設で北側背後の岡が削られ、取り残された部分なのである。
その削り取られた部分が馬瀬口の主郭部なのである。
したがって稲荷神社は岡先端部に位置していたことになる。

この付近は浅間山の南山麓にあたり、火山灰が固まった柔らかい凝灰岩が川の浸食で崖になった田切地形が発達している。

稲荷神社の背後に続く岡は北東から延びた半島状の岡先端にあたり、長さは200mあったようである。

主郭の北側に400m×200mの曲輪があり、堀が存在するという。
さらに北東に続く部分にも遺構はあるらしい。

一方、繰矢川の谷の南の岡、柵口(ませぐち)神社の地@が出城である。

神社前の道路が堀跡らしい。
境内は南北50m、東西30m程度である。

↑ 北側の岡から見た荻原稲荷神社Aのある山(右)
手前の道路、県道134号が通る部分は削られてしまっている。
田圃が繰矢川の谷。対岸、民家左手の森が出城の柵口神社@の地。

@出城の柵口神社。道路が堀跡。 A本来主郭の先端部であった荻原稲荷神社

なお、荻原稲荷神社の北側の岡、ここは城域ではないと言うが、堀跡らしい部分が存在する。
城の歴史は分からないが、曲輪が広く、堀は馬を囲うためのものだったとも思われる。
地名どおり馬を飼育する者の館であったと思われる。
(参考: 宮坂武男/信濃の山城と館)

広戸城(御代田町広戸)
湯川の上流、軽井沢に近い広戸地区にある。
県道
156号が湯川を渡り、台地を登って広戸集落に入る場所が城址であり、その道が切通しとなる場所が城の堀切である。
この城、台地側から見る平地であるが、湯川側から見ると高さ
70mの断崖の上である。
城址は畑であり、自然の谷津を加工した堀で区画して3つの曲輪を造り出している。
この城も武田氏の佐久侵略で落城したという。
天文年中の12月末、餅つきをしている際に、攻撃を受け、落城。城主武舎加賀守は討死、奥方が崖から身を投げたという伝説を持つ。後世、城主を悼み、城址の一角に墓碑を建てたが、何度建て直しても石が割れてしまったと云われ、近年まで、この地では暮れに餅つきをすると、餅が赤くなるとして行われなかったという伝説が伝わる。
佐久平、最東端の城であり、その後も使われていたと思われる。

昭和50年ころの城址航空写真 湯川の低地から見た西側の崖上にある城址 北西側に残る堀と切岸

戸谷城(御代田町小田井)
佐久ICから県道9号線に入り、小田井方面に北上していくと、西側にブルトーザー等の土木機械や資材を置いた場所がある。
そこが戸谷城である。こんな状態であるので遺構はない。
この城も濁川の高さ10〜15mほどある断崖の田切地形を利用した城館の1つであり、周囲を見れば、かなりの要害性があったことが理解できる。
城のあった台地は田切の中の島のような場所だったようであり、四方が断崖だったようである。
ただし現在は東側が埋められている。
85m四方の大きさがあり、周囲には「殿畑」「山王」「竹の花」「中道」などの城に係る地名が残る。
城の歴史は分からないが、東600mが小田井城であり、その出城かもしれない。
航空写真は国土地理院昭和50年撮影のもの。


城西側の濁川の低地は水田になっている。
右が城址である。正面に浅間山が。

城址は建設機材置き場、遺構はない(と思う。)

入沢城(佐久市(旧臼田町)入沢)

旧臼田町と言えば、五稜郭「竜岡城」が有名であるが、この入沢城はその1つ南の谷川が流れる谷の出口付近にある。
JR小海線「青沼駅」の南東1.5qにある吉祥寺の北東の標高853m、比高95mが城址である。
右の写真は西から見た城址。
写真右下の森が登り口の吉祥寺である。
この城のある入沢地区の谷は北に磯部城、南に十二山城が支城として存在し、奥にあるこの入沢城が本城となる。
なお、この入沢地区を流れる谷川の東の奥には水石城が存在する。

城へは吉祥寺北東裏の墓地にある石の覆屋がある五輪塔の裏からジグザグの道を登る。
途中に岩はないが、城のある山の頂上部は巨岩だらけ。
その巨岩から北下に豪快な竪堀が下る。
巨岩の間のロープをたらした道@を登ると平場がある。
ここが大手の曲輪といえるだろう。
その南に虎口Aがあり、一段高い場所にもう1つの曲輪がある。大手曲輪を守る曲輪であろう。
この曲輪の東側が尾根状に東の主郭部に続くが岩が林立する。
おそらく、この岩場が城道ではなく、北下の大手曲輪から続く帯曲輪が主郭部への通路であろう。
本郭の西側には堀切があり、その東側が本郭Bである。本郭は直径
30mほど、石の社がある。
本郭の南東側に堀があり、5mほど下が二郭Cとなる。この曲輪は
L型をしており、長さは45mほど。
南側に土塁がある。この土塁には石があるので石で覆われていたものと思われる。また、井戸らしい石組がある。この曲輪の東が山に続き、この方面が搦手であろう。曲輪の東には石垣が残っている。
この尾根筋には6つの堀切DEが連続する。
8本の堀切があるということであるが、曖昧な感じのものがあり、6本しか確認できなかった。)
@城に入口部は岩場。ロープに掴まって登城。 A 城の大手曲輪の岩盤間に開く虎口 B本郭内部は平坦である。
C本郭から見た1段低い二郭 D二郭東の堀切 E東端の堀切底から西側尾根の土壇を見る。

この地は鎌倉末期ころ、嘉暦四年(1329)には平賀又三郎が知行していたとの記録が「守矢文書」に見える。
室町時代は入沢氏が領していた。
この入沢氏は、平賀氏一族が地名を名乗ったものなのかは分からないが、戦国時代は大井氏に従っていたようである。
そのような中で甲斐武田氏の佐久侵略に見舞われる。
天文9年(
1540)武田氏の武将、板垣駿河守が佐久に侵攻。
この入沢城を始めとして、数十城を落とし、前山城に陣を置いたことが、「妙法寺記」や「塩山向岳禅庵小年代記」に記録される。

武田領になると、天正年間には水石和泉守が城主であったという。


磯部城(佐久市(旧臼田町)入沢)

入沢城の支城と推定され、入沢城の北西1qの入沢集落北の標高798m、比高65mの山にある。
南下を谷川が流れる。山先端部の墓地に行く道を上がって行くと城址に至る。
しかし、いつの間にか城址を通り過ぎ、鞍部に出てしまった。
それほど遺構が曖昧なのである。

北側の鞍部には堀切が
2本あるが、埋没しており、よく分からない。
10m四方ほどの小曲輪が2つあり、4m高く主郭があるが、ぼやけたものである。
35
m×15mほどの広さであり、周囲に低い土塁が巡る。
主郭周囲の斜面は緩斜面であり、帯曲輪を構築し切岸を鋭くするのが定番と思うが、そんなものはない。
南側はだらだらした下りとなり
80m先の高度で10mほど下った場所に岩場がある。
この程度の城であり、単郭の物見の城程度のものである。

南西から見た城址の山。集落が入山地区 主郭であるが、ほとんどただの山。

浅井城と鳥坂城(佐久市大字新子田)

浅井城は佐久市役所から北東約2qの新子田集落の南東端の岡の突端にあり、東と南は香坂川の平地である。

その場所の標高は706m、水田地帯からの比高16m。
岡続きの西側、新子田集落の西側が鳥坂城である。

城域は径
150mほど。ただし、この浅井城、本当に城であったのか疑問が残る。

伝承としては、小林右近か平林左近という人物が住んだという話が伝わっているのでこの付近に城が存在していたのは確からしい。

観世堂石碑のある南東端部の高台@が本郭と思われる。
ここは直径
20mほど。南側から東側にかけて横堀Aが巡っている。
しかし、北側西側はダラダラしている。
西側は幅
15mほど窪地があるが、堀ではないようである。


その北東に土壇があり、土橋のようなもの、堀跡を利用した畑Bがあるが、広く耕地化されていることもあり、どうも城郭遺構ともなんとも思えない。

下の写真は東から見た城址。航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。

@主郭と推定される地には碑が建つ。 A @の南と東下には横堀がある。 Bビニールハウスの場所は堀跡だろうか?
鳥坂(とかさ)城は新子田集落の西側にある。浅井城とは岡続きなので標高はほとんど同じ705m
しかし西側、南側がこの付近の城、特有の田切り地形であり、比高
20mの垂直の崖なのである。
浅井城と決定的に違うのは幅
10mほどのちゃんとした堀が残っていることである。
この堀の南西側一帯が主郭なのであるが、ただの畑である。
この部分、直径
250mほどもある。内部が区画されていた感じもない。
@北側から見た城址。西と南は15mの崖である。 A幅10mほどの堀が北東側に残る。 B主郭内は畑になっており、遺構はない。

この城も時代、城主は不明であるが、上原伊賀守が居住したという伝承が伝わる。
単郭の城であると推定されるが、しかし、曲輪が広い。
武田氏やその後、この地を一時占領した北条氏の軍勢の宿城だったという説もあるが、この説が的を得ているような気がする。

燕城(佐久市大字安原字燕城)
岩村田小学校(岩村田城)の西2q、閼伽流山から西に延びる尾根末端部の標高752m、比高40mの岡にある。
この岡は
100m×70mほどの独立丘となっており、眺望は抜群であり、城を置くには適している。
南が安原集落である。
しかし、この岡は採石場となり、北側、南側の岡周囲が削られ、崖となっている。
岡の上は平坦であり、かつては広い畑であったらしい。
このため、遺構は破壊されているという。
この岡、西側から登れそうであるが入り口が分からず、突入は断念。大井氏一族の安原氏が築いたという。
この安原氏は文明
16年(1484)に村上氏が岩村田の大井氏を攻めた後、記録には出てこないため、このころ滅亡したのではないかと言われている。
下の航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。
北側と南側は採石されている。岡の上は平坦であり、畑だったようである。
右上の写真は南西方向から見た城址。
右下は北西方向から見た城址。

八反田城(佐久市平賀大字瀬戸字七ケ上)
佐久市役所の南東1q、志賀川が流れる平地を南と東に望む高さ20mの浸食台地の東南端にある。
ここに八幡宮があり、その付近一帯が城である。

遺構は八幡宮境内北西側がマレットゴルフ場になり、そこに堀跡が2条残る。

西側の車道も堀の跡という。
天正五年(
1577)頃、上原筑前守という人物が居住していたと言われるが詳細は不明。
下の写真は東から見た城址。
@本郭(右)と二郭間の堀跡 A 二郭(右)と三郭間の堀跡。

平尾館(佐久市上平尾)
白岩城ともいう。
平尾城を詰の城とする平尾氏の居館である。
市立平根小学校を含む北側、湯川の崖に沿った一帯、南北
400m東西50mほどの部分が城域であったという。
この地も湯川に面する部分は
30mほどの崖であり、この方面の防御は完璧。
県道
156号線付近が堀だったようである。
その細長い城域を東西に2本の堀で区切り
3つの曲輪を造り出していたらしい。
しかし、現在は果樹園などになっており、堀の痕跡もない。

昭和
63年の発掘調査では、堀や土塁跡や石積みが検出され、石臼、古銭などが出土したという。
平尾氏初代の平尾良信が、享徳年間(
1452-1454)に依田から移り、ここに居館を置いたという。
航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。
なお、鳥瞰図は佐久市による発掘調査報告書掲載図を基に作成した。
湯川側に並ぶ3つの曲輪が主郭部であり、東側には堀で区画された家臣団の屋敷等、城下町があったらしい。

県道156号は堀跡?右が本郭、果樹園になって
いる。
堀があったが完全に失われている。
遠くに平根小学校の校舎が見える。
北から見た館跡の岡

延寿城(佐久市大字横根字延寿城)

平尾館の1つ北の岡の南端部にある。
両者の距離は
500mほど。
同じく湯川に面した岡の上にある。
岡下は横根集落である。
しかし、右の写真の城比定地には城郭遺構は全く確認できなかった。
北側の墓地には土壇があるが、古墳である可能性が大きい。
(より北側、県道
156号近くには完全な古墳が存在する。)
平尾館の出城だと思っていたが、どうも関係はないようであり、平尾氏が入る前の領主、大井氏の草創期の一族、横根法眼の隠居城とか、鎌倉時代の小笠原氏の館とかの説がある。